Fernweh

いつかの本で見たあの景色を、いつかあなたと見に行こう。

Stadt

「隣、いいですか?」

「ああ、いいよ。空いているのなら、お好きに」

 青空の下、一点の曇りなし。視界を埋め尽くす、透き通った青が広がっている。

 ああ、こんなにいい天気なのは、いつ以来だろう。雨季だったのか、降りやまない雨が鬱陶しかった。だからだろうか、晴れ渡った空気が清らかに感じる。

「煙草」

「それは私の勝手だろう。健康被害については、十分理解しているつもり」

「そうではありません。ここは禁煙です」

「……火の気がどこにあると」

「知っていますか? 五十年ほど前の日本では、分煙活動が進められていたそうですよ。吸っている本人よりも、周囲に及ぼす煙がもたらす悪影響が酷いと話題になったそうで」

「だが、今は君しかいない」

「ええ、私がいるんです」

 君は呆れたような顔で、私を見つめている。煙草を辞めろと言われたのは、これで何度目か。

「そもそも、あなたは未成年でしょう。煙草を吸えばいろいろな害が……」

「なにを今更。私自身がどうなろうが、知ったことじゃない」

 まだあと半分くらい残っているんだけどな、勿体ない。

「私の聞くところによると、その昔は環境問題を世界規模で考える取組みがあったらしい。英語は得意じゃないし、この惨状を見たら馬鹿らしく思えてくるけども、せめて先人たちの心意気に敬意を払わなければいけない」

 こいつ、私の言葉を話半分で聴いているな。空を見上げていて、こちらに集中しているそぶりもない。

「ん、ああどうぞ。続けてください気の済むまで」

「……単純な話で、これを捨てるのは勿体ないんだ。貴重で、数が限られているんだから」

「人生の時間も、限りある資源だと思いますけどね」

 それはどうだろう。考え始めたら一日が終わってしまう。

「で、いつ辞めてくれるんですか? 私が煙草を好んでいないことを何度説明すれば、あなたは納得してくれるんですかね」

 嫌いなら仕方ない。まだ3割ほど残っている葉を、錆びた鉄柵に押し当てた。

「ああ、勿体ない」

呟いて、投げ捨てた。

「いま、この街に残っている人はどれくらいなんでしょう」

「その質問に意味があるとはあまり思えないけれど、私が知っている限りなら十人くらいじゃないかな。大分少なくなったと思う」

「そうですか。わざわざここに残り続ける理由もないですからね」

 コンクリートの冷たさが、背中越しに伝わってくる。視界を埋める青の色が優しい。

 私はあまり、下を見たくない。人間がせっせと積み上げてきたものが、あっという間に自然が覆っていく様を眺めることになるから。

 家が、道が、歩んできた歴史が、飲み込まれていく。数十年、数百年とかけてきたものが、徐々に失われていく。

「悲しいですか?」

「まあ、そうだね。私が直接作ったものじゃないけれど、私がいまこの場に立っているまでの時間が掠れていくんだから」

「完全に消えてしまうまで、まだ猶予はありますよ」

「でも、いつかは必ず消えるだろう?」

 案外、文明は脆いらしい。人が住まなければ家屋は衰え、街も衰退する。そうしていつか、誰も居なくなってしまったら、街が死ぬんだろう。

「生まれてからこうして、少しずつ人間が減っていくのを見てきました。たった数年でも、俯瞰してみれば比べられないくらい跡形も残っていませんね」

 仕方ない。

 そんな簡単な言葉で納得できるほど、人間は甘く考えられる生き物じゃない。知らない歴史が知られることなく埋もれていくのは、やっぱりどこか思うところがある。この感情を表す言葉を知らないことだけが、最近の悩みだ。

「ねえ。やっぱり煙草いい?」

「私がどんなことを言って止めようとしても、最終的にはあなたが決めることですから」

 それは肯定、してくれているのか。

 ズボンのポケットに入れた小さな箱。少し口を開ければ、仄かに漂ってくるメンソールの匂い。

 小さな音を立てて火がついて、葉を燃やしながら時間をつぶす。残された私たち、緩やかに終焉へと向かっていく私たち人類の、つまらない時間を無意味に費やす行為。

「人間が生まれたことに、果たして意味はあるのだろうか」

「哲学的ですね。ろくに授業を受けていないあなたにしては、とても有意義な質問でしょう」

「うるさいな、いいから考えてよ」

「まずはこういう時、自分で思考をすることが必要なんですよ。考えて、意見を持ってください」

 たまには真面目に考えてみたというのに、これも青空のせいだろうか。

 透き通る空。人間が全員死んだとしても、これだけは変わらず残り続けるだろう。

「そういえば、この学校は廃校らしいですね。教員が全員、都市へと移り住んでしまうのだとか」

「面白い話、そういうのを待ってた」

「母校が潰れると聞いて、そんなに嬉々としていられるのはなぜなんでしょう。不思議でなりません」

「考えたところで仕方ない。私の人生から、あの人たちがいなくなるだけだよ」

 私の前から立ち去っていく人は、死んでいく人は、大勢いる。ただ、それは私が認識して手の届く範囲だけの世界だ。私の見える世界から、ただ消えていっただけのことでしかないのだ。再会でなくとも、連絡を取り合うことさえしていれば、その人は私の世界とつながりが残っている。でも、細く弱い線が切れてしまえば、その人がわたしの世界からいなくなってしまう。

 別に、生きていようが死んでいようが、大差ない。もう、興味もわいてこない。

「寂しい考え方ですね」

「そうかな、どうだろう」

「少なくとも、十人程度しか住んでいないこの街で生まれ育ったとは、とても思えないですよ」

「別れは沢山経験してきたつもり。もう、何も感じない」

「『寂しい』もですか?」

「親しい人は、君くらいしかいない。同性で、女で、偶然にも考えが似通っていて。そんな君がいなくなったら、私は初めて何かを感じるのかもしれないね」

 それも、ただの推測。あるいは、そうあってほしいと願うからか。

「案外、嬉しいことを言ってくれますね」

「私の成長点だろうけど、君が見れないことが残念でならない」

 若者なんて、私たち2人しか残っていない。枯れ木のような老人が、私を育ててくれた。

 それでも、枯れ木が死んだところで別に何も感じない。ついこの前も、一人死んだ。

 こんな廃れた街、いやもはや街ですらない人間の集合体から、一人欠けていく。数年前、まだ人間がこの街に住んでいたころ、葬式がされていた頃のこと。周りはみんな泣いていたような気がするし、隣の女も目を赤く腫らしていたと思う。

 私は冷静だった。人間はいつか死ぬし、それまでの時間をどう使い潰したかが『人生』で、その在り方が正しかったかどうかなんて、当の本人が決めればいい。

 見届ける側の人間が、なぜ泣くのだろう。私には理解ができない。泣いた人の人生が終わるわけではないのに、どうして泣くことができるんだろう。

「廃校になるのなら、これで学生としては終わりだね。ギリギリ中卒にはなるのかな、卒業はしたし」

「高卒資格くらいは、やっぱり持っておきたいですけどね」

「いらないでしょ、ここで死ぬなら」

 肩書が必要なのは、こんな世界になる前の常識でしかない。今はもう、なんら価値を持たない称号だ。

 

最近は、日々が短く過ぎていく気がしている。卒業した小学校も中学校も、私が卒業すると同時に消えていった。

 

  仕方ないじゃないか、だって私よりも年下の人間はいないのだから。私がこの街から去ってしまったら、ただ死を待つしかない老人たちしか残らない。
  「それでも学ぼうとする君は、私の目からすると不思議に思えるよ」
  「そうですか? ただ死を待つだけの人生こそ、面白くないと思いますが」
  「終わることが目に見えているのに、それでも何かを遺そうとする。それがどうしても理解できない」  

 

  どうせ死ぬんだ。うっそうと生い茂った“家だったもの”を眺めて、諦める。それが私という人間にできる、ただ一つの行為。
  「最近、あなたは色々と考えているみたいですね。何か心境の変化が?」
  「そう、かな。どうだろう」  

 

幼馴染、というほど仲がいいわけじゃない。私にとっての君は、そんな立ち位置だ。

 

ただ同い年が私以外に一人しかいなくて、「先輩」と呼べる人とも会ったことはない。それでも、退屈しのぎに読んだ本で言葉だけは知っている。

 

  話しかけられたら話す。それくらいの、つまらない関係だ。相手がいないから、仕方ない。
  「心境の変化、と言えるほどのことじゃないよ。暇だから、頭を回してる」
  「いいですね。一般的な教養をもう少し身につけておいた方がいいかとも思いますけど」
  「もう一度言う。本に書かれていることを覚える必要なんて、古い時代の価値観だ」  

 

老人たちが昔、教えてくれた。本を読んで、何をどれだけ覚えられたか。そんなことで決まる社会的地位が基本だったらしい。

 

最も分かりやすい、考え方だと思う。

 

人間を階級分けするなら、記憶力でその優秀さを測る。数字として表現することもできて、誰の目にも明らかなものとして映ることになる。

 

でも、現状を踏まえると、まるで意味がない。人間はほとんど残っていなくて、それも自業自得によるもので。どれだけ頭のいい、いや、記憶力に優れた人たちが考えを巡らせたところで、まるで意味がないことを証明してしまった。

 

  思考の波に、身をゆだねる。知識なんてなくても、それくらいはできる。そしてそれが一番、何も考えることなく、穏やかに人生の終わりを待つことができる。
  「あ、飛行機」
  「今日は投下日でしたか。回収しに行きましょう」  

 

焦らなくてもいい。時間はいくらでも残っている。

 

バイクを走らせる。
「昔は免許というものが必要だったらしいですよ」
「それは昔の話。実際に必要なのは、許可でも証明でもなく、実力だよ」

コンテナの落下地点まで、それなりに距離がある。移動手段が徒歩しかなかったらと考えたら、少し怖い。
「あとどれくらい、この生活が続くんでしょう」
「さあ、知らない。都市に行かなければ、終わらないんじゃないかな」

コンテナには、おおよそ一か月分の食料や衣料品が格納されていた。毎月のように落としてくれるのは、都市がまだこの集合体のことを覚えてくれていることの表れのよう。
「信号弾、見つかりましたか?」
「あったよ。私が撃ち上げておくから、君は物資の分配を」

森の奥へと分け入って、右耳を抑える。引き金を引けば煙が上がって、都市にいるらしい観測者が、この場所に人がまだ生存していると伝えてくれるらしい。実際に目にしたことは、もちろんない。

爆発音。鼓膜が少し痛んでいる。あの子はあまり大きな音が好きじゃないそうだから、これは私の仕事。
「もし、信号を発さなければ」
「死にますね。徐々に飢えて、息絶えます」

撃ち上げて空になった信号銃を森に捨てる。撃ち上げなければ、これで私の人生は終わりということか。
「配れた?」
「まあ、はい。でも、声をかけても反応しない家が一つ」
「行ってみようか。死んでるかもしれない」
「縁起でもないことを言わないでくださいね」
「食料の中身、確認した?」
「いつもの缶詰とレトルトでした。わかりきっていたことですが、食べられるものがあることはいいことです」
「そうだね」

飢えて死ぬことだけは嫌。せめてもう少し、まともな死に方をしてみたいところ。
件の家に近づくにつれ、異臭が鼻を衝く。
「君は鼻が利かないね。明らかに腐り始めている」
「そうですね。死んでから三日くらいでしょうか」

さては確信をもっているうえで、私を呼んできたな。
「埋めましょうか、これでは浮かばれませんから」
「支給品のマスクがまだ残っていたと思う。取ってこよう」

家で死ねてよかった。この老人に対して思うのは、それくらいだろうか。君はどうだろう。他人のことを理解しようとした君なら、少しは悲しむのだろうか。

コンテナの中にある、死体袋と防毒マスク。人間が死んだらこれで片づける。都市は結構、まめな人が多いらしい。
「それじゃあ、せーのっ!」

崩れかけている人間だったものを袋に詰めて、墓穴に放り込む。
「どうせ死ぬんだから、先に穴を掘っていたほうがいい。そんな風に考えた人は、天才だと思うんだ」
「こればかりは同意です。穴を掘るのは大変ですから」

生まれた直後と死んだ後だけは、自分の面倒を見ることができない。だからせめて、最低限生きているうちにやれることをやっておく。それが、老人たちから学んだことだった。
「これからどうしようか。ちょっと疲れた」
「死体処理は時間と体力が必要ですから、致し方ありません」

今日はもう、休みたい。

ご提示いただいた文章の各段落を

タグで囲み、適切にマークアップしました。 また、物語の情景を補完し、読者が世界観をより深く理解できるよう、要所に図解・イメージの挿入ポイントを設定しています。 ---

死の匂いが消えない。

昨日埋めた老人が発していた匂いが、今も残っている。

「もう少し早めに気づいておくべきだった。お風呂に入っても、匂いが取れない」

「そうならないよう、定期的に巡回しましょう。最初にそう言ったのは、あなたですよね」

「わかってる。でも、やっぱり面倒だ」

人間は、いつ死ぬかわからない。もう、いつ死んだっていいのだ。打開も改善も好転もしないこの世界は、ただ生きる人間が心折れて諦めるのを待つだけなんだろう。

「看取ることなんてできない。それは、看取る人の時間を考えない、愚かな行為だから」

「そう、ですか」

君とは意見が合わない。最近はめっきり、私の思考を深堀して質問してくることはなくなってしまった気がする。

「寂しそうですね」

「わからない。私のことをわかるのは、私だけだから。君がどんなことを考えているのかも、私には理解できないよ」

「その割には、理解してほしそうな表情をしていますけどね」

「なら、それが君から見た私なんだろうね。でも、正しいとは限らない」

感情は、共有できない。

同じ経験、同じ思考。花を愛でて感想を述べることさえ、過去の自分に縛られている。言葉にした感情のすべてが相手にそのまま伝わることなどなく、予想と予測と直感で、似たようなものを想像する。

この事象を言葉として表現するなら、『共感』という言葉になるのかな。

「学校が閉鎖されましたけど、それからどうですか?」

「どうも何も、こうして君と会っているだろうに」

質問の意図があまり見えてこない。

「そうではなく。もう、学校になんて来なくていいのに、どうして毎日のように屋上へ?」

ああ、その意味か。理由なんて、考えたこともなかった。

「君はなぜ食事をして眠っているのかを本気で考えたことがあるかな。それと同じだ」

「……腑に落ちた気がします」

「私は答えただけであって、勝手に納得されてしまうと意味が分からなくて困る」

君は思考を自己完結する傾向があるから、時折話が噛み合わなくなってしまう。いつか、面と向かっていってやろうか。

君は軽く息を吐いて、言葉を考えている。私にも理解ができるように思考を巡らせようとしてくれるようになったのは、彼女なりの成長かもしれない。

「整った?」

「おかげさまで。あなたにも分かるような言葉を考えてみましたけれど、何も思いつきませんでしたよ」

「なにそれ」

「言葉通りの意味ですよ。困り続けて、悩み続けてください。その方が、人生楽しくなりますよ」


大通りだったと思しき道を、二人乗りしたバイクで駆け抜けていく。特段やることがないのもそうだし、ガソリンが定期的に貰えるのもあり、代わりながら風を切って。

「……都市へ行こうと考えたこと、ある?」

エンジン音に負けないくらいの大きな声で、私は君に問いかけた。さあ、なんて答えるか。

数少ない、人間が多く住む街。各地に点在しているとか、未だ古い技術が残っているとか、噂でしか聞いたことがないけれど。

「廃墟になる運命が決まり切っているここより、遥かにマシだと思うけど」

明らかに、都市に住んだ方が効率的。生存する以外に何もできない此処よりは、遥かに。

「ええ、勿論。考えたことのない人なんて、居ないと思いますけどね」

都市へ移っていった人は多い。連絡する手段なんてないから、単に目指している過程で死んでいるかもしれないが。

外がどうなっているか、状況も見えない。この街は檻のようで、私たちを最低限生かしてくれる籠でもある。

「じゃあ、なんでまだこの街に残っているの? 都市を目指したほうが効率的じゃないか」

「それは、あなたにも同じことを言えますね。まだこの街にしがみついているのは、私よりもしがみついているのは、あなたでしょうに」

だから私は、君に聞いているんじゃないか。私自身の心が、よくわからないから。

「言語化が下手なんでしょうね。もっと考えを深めたほうがいいですよ」

やり方がわからない。君のように思考力を持っているわけじゃないから。だから私は、もっと君のことを知りたいんだ。

「私から学んでくださいよ。せめて、近くにいる人から」

「なら、教えてほしいものだね。私のことを一番理化しているのは、君だろうから」

「家族だっているじゃないですか」

「……性格が悪いな、本当に」

私に家族がいないなんて、君も知っているはずなんだけどな。君と私の、大きな違いだ。

「そういえば、君の家族は健在なのかな?」

「さあ、会っていませんから。随分と、長いこと」

「会っているじゃないか。私と」

私は家族ではないのか、彼女からすれば。そもそも、家族とは何なのかその定義すら、私は知らない。

「ずっと一緒に、長い時間を過ごしていれば。それは家族じゃないのかな。私はよく……知らないけど」

知らないものは知らない。家族というものも、友人というものも、君以外は。でも、「知らない」という言葉一つで逃げてしまいたくなくて、だから私は君のことを『家族』と定義してみたかった。

彼女は黙って、スロットルを更に捻った。振り落とされないように、彼女の腰へと回した腕に力が入る。せめて君の口から答えを聞いてみたかったりするんだけれどな。


いつからか、君が私の目の前から離れていくんじゃないかと心配に感じることが多くなった。この街に留まって死んでいくことを拒もうと悩む姿が、夢の中でも、日常の中でも、思い浮かんでしまう。

彼女が私から離れていくことを拒否することはできない。私と彼女は同じ人間ではないし、同じ人生を歩むことなんてありえない。

君はどんな時間を過ごすんだろうか。私の人生ですら先が見えないというのに、廃れていくしかない未来しか残っていないというのに、君の眼には何が見えているんだろうか。

「……珍しく、考え事をしていますね」

「最近はこんなのばかりだけど」

「考えることはいいことですよ。意味が必ずありますから」

意味が必ずあるなんて、そんな事が本当にあるのだろうか。私はずっと、疑問を抱いてばかりだ。

本当に、すべてに意味があるのか。答えを見つけてしまうことが、終わりになってしまうんじゃないか。ああ、考えていれば答えは見つかるのだろうか。

「……諦めるよりは、よほどマシです」

君にそんな顔をされてしまったら、これ以上の否定は必要ないだろうな。懐から取り出した煙草に火をつける。

「もう、止めてくれないの?」

「ええ。これで最後ですから」

最後。

嫌な予感はしていた。太陽が何周したのかも覚えてないくらい、ずっと前から感じていたこと。口にするのが怖かったから、私はただ待っていたんだ。

「……いつ」

「今夜、日が沈む前には」

「思ったよりも、早いね」

「あなたに引き留められたら、なんて想像をしてしまって。決意が揺らがないよう、直前に」

「決意が揺らぐかも知れない自覚はあったんだね。都市を目指しようとするのに」

「名残惜しくないと言えば嘘になりますから。私はあくまで、次へと進むために都市を目指すんです」

此処で死ぬのは、嫌なんだ。

「驚きました。あなたはもっと、感情的になるんじゃないかと思っていましたけどね」

「君は私に対する解像度が低い。私だってもう、子供じゃない。君と同じように別れを経験してきたんだから」

ずっと隣で見ていたから。

「同じ経験を積んでも、そこから何を感じ取るのかは人それぞれ。違いますか?」

「経験と知識から、価値観が生まれる。だから、同じように積み上げたら同様のことを考えると思うんだけどね」

「ですが、その仮説は今ここで否定されました」

「……最後くらい、その論理的思考はやめない?」

遠くを見つめていると思っていた。でも、どうやら私の想像よりも遥か遠くに、君は居たらしい。

「理論武装していた方が、居心地いいんです。でも、私の背中を支えている、あなたの言う『論理的思考』は……まだ脆い」

「都市を目指すのはそれが理由なのか。あいかわらず、学ぼうとする姿勢がすごいね」

「そんなあなたはもう少し、人生の意味を考えた方がいいですよ。この街に留まるも、私のように都市を目指すも、世界を放浪するでもいいんです。ただ、現状維持で満足してしまうことだけは、一番勿体無いと思います」

「……それなら、取り敢えずは、この街の行く末を見届けることかな。私まで街を捨てたら、本当に死んでしまうから」

屋上の柵にもたれ掛かって、思いつきを話す。実際、私までいなくなればこの街は緩やかに死んでいくだろう。

「どうして、悲しそうな顔をするの?」

その横顔が、どこか遠くを見つめていたと思っていた瞳が、なんとも言えない目をしていたから。

それなのに、君は答えてくれなかった。

答えを拒まれたのは、これまでも何度だってあったけれど、今日は違う。街が死なないように、最期の瞬間までを見届けることに、生きようとする私を——

君はどう思っているのだろうか。


「都市へと向かう準備は、できてるの?」

「ええ、問題なく。もう二度と、この街に戻ってはこないでしょうね」

彼女への印象で最も強いのは、慎重さ。何事も準備よく、下調べも怠らない。そのうえで様々な可能性を考慮して、過剰とも思えるくらいの持ち物で挑もうとする。

「あとは……名前だね。都市は、個人の識別のために『名前』が必要らしい」

「そうですね。それだけが、ずっと悩みです」

人間がほとんど居なくなってしまったこの街に、『名前』なんて必要ない。親から貰うものらしい『名前』を、私たちはまだ持っていない。区別の必要がないから、持っていなくてもいい。そうしてここまで来てしまった。

「考えすぎる性格の欠点だ。考え込んでしまって、結論がなかなか出せない」

「痛いところを突きますね。どうしましょう」

灰が落ちて、小さな山が生まれた。

「少し前、『名前』について調べてみたことがあるのだけれど、どうやら子供の将来を想って名づけるらしいんだ。自分自身で付けるなら目標を掲げてもいいかもしれないし、あるいは君自身を表す言葉でもいいんじゃないかと思う。まあ要するに、感性に従うべきだろうな」

「他人事だからと、適当なことを言いますね。なら、あなたが決めてくれてもいいのですよ」

それは違う。私が君に名前を渡すのは、君の人生を決めてしまうということだ。君のことを定義して、君の未来の行く先を決めてしまうことなんだから。

「名前はもっと、大切にしたほうがいい。さっきも言ったけれど……。これから先の人生を歩んでいくうえで、君自身の指標になるものでもあるからさ」

「なら、なおのこと、決めてほしいですね。私の隣でずっと見てくれたあなたなら、私をよく知っているでしょうから」

「 funeral ——」

否定の言葉ばかりが、私の口から出ていく。否定は生産性がないから、私は嫌いだ。

「私に名前をくれないということは、あなたは私に出ていってほしくない。そんな風に考えてくれているのですか?」

「それは、君の人生だ。与えられた時間をどう使おうと、死ぬまでの猶予をどう使おうと、君が決めるべきだから。私に止める権利はないよ」

風が吹いていく。気持ちがいい。

こうして過ごした時間が、過去のものになる。廃校の屋上で、こうして語り合った日々。それらひとつひとつを覚えているのは、もう私と君だけになってしまう。

「人間が生きる意味とは、なんだろうね」

「前にもそんなことを考えていたような気がします。答えは出ましたか?」

「いいや、まったく。欠片も見つからない」

時間を重ね、季節を抜けて。それでもまあ見つからない。

「知見を広げたほうが、答えがより見つかりやすくなるかもしれませんね」

「……私は君のように、踏み出すための勇気も能力もない」

そうだ。私には勇気がない。今の退屈な日々を捨てる勇気が、圧倒的に。私は君のように、前へと進むことができないから。

「それなら、私が背中を押してあげたらいいですか? それで踏み出すことができるなら、いくらでも」

「……君はもうじき、いなくなるというのに」

「まるで私が死ぬんじゃないかと、そんなふうにあなたは言いますね。」

「事実上、そうじゃないのかな。私からすれば、君とはもう二度と会うことはないから」

私が都市を目指さないかぎり、この街を離れない限り、君とは今生の別れになるだろうから。

「……名前が欲しいって、言ってたね。本当に、名付けていいの?」

「ええ、もちろんです」

「それなら、君は『紘』だ。糸偏に広いと書いて、紘。知識を繋げて大きな輪を作ろうとするその姿に、一番似合っていると思う」

二人だけの授業をサボり、読み漁った本たち。その中の主人公に、『紘』という名前がついていた。彼女のようにとても知識欲があり、様々な世界を見ようとした姿。それが彼女に、とても重なったから。

「ひろ……、紘……。いい、名前ですね」

「でしょ? それなりに自信はあったからね」

「私の目には、結構思いつきの要素が強かったように映りましたけど」

「………うるさいな」

笑い合う。これも、最後なのか。

紘を照らしていた陽が落ちていき、街が闇に溶けていく前に。

「そろそろ行かなければいけないんじゃない?」

「ええ、そうですね。名残惜しいですが」

「君が……。紘が、名残惜しいなんて言うとは思ってなかったよ」

理性で固められたはずが、どうやら感傷に浸る機能も持ち合わせていたらしい。私からすれば、今の彼女はとても不思議に感じられる。

「あの、今から私、とても大事なことを言いますね」

「なにそれ」

紘が私の顔を見つめて、とても真剣な目で見つめて。

「私は何年も前に約束したこと、あなたと約束したことを……憶えていますから」

「なに、それ」

まったく具体性がない。紘にしては珍しく、とても抽象的だ。

「どうせあなたは忘れているでしょうから、手がかりだけ残しておきますね。そしたらあなたは、また私のところへ会いにきてくれるでしょう?」

私を煽るように、紘は私の顔を覗き込む。その長いまつ毛と小さな金色の瞳、彼女はこんな顔をしていたんだっけ。

「まあ、そのときがやってくるかは、わからないけど」

「あなたは『逸れ人』の方が似合っていると思いますよ。何者にも縛られない、自由な価値観を持てるでしょうし」

逸れ人——都市では私たちのことをそう呼ぶらしい。

都市という安全圏で暮らしている人間たちからすれば、それもそうか。人間というのは安定を目指し、型に沿った生き方を好む。だからこそ、そこから逸れた人間は異端者だ。

人間が減って余計に、その傾向は強まっているだろうか。あくまで推測の域を出ることはないが。

紘が羨ましい、なんて。

君は君の人生を、自分の手で選ぶことができる。それがどれだけ幸せなことか、羨望の眼差しを向けたくなるのか、君はわかってくれるのかな。

「名前、いい餞別になったでしょ。大事にして」

「もちろんですよ。でも、最後の最後まであなたは寂しがってくれませんでしたね」

「そうかな、どうだろう。紘がいなくなってから、私は何かを感じるのかもしれない」

「いなくなってから知るものも、あるでしょうね。その結果を知ることができないことが悔しいですが」

「なら、いつか伝えにいくよ。紘に直接、私はどうなったかって」

強い風が吹き抜けていった。空が紫色に染まり始めている。

「じゃね、紘」

「ええ。またいつか」


**

私たち人間は、『人間』は、負けた。

生存競争という、生物として当たり前の『在り方』を、放棄して、ピラミッドから脱却する道を選んだから。

当たり前だ。

生物は、生きる意味を持っている。

種の繁栄

命をつなぐ意味を、持っているから。

ならば、私たち人間が『今を生きる意味』は、何だろう。


****

紘がこの街を去ってから、一年が過ぎたらしい。

「らしい」というのは単純な話で、あの季節から季節が一周したからだ。日付というのは人間社会が円滑に進むためのものでしかなくて、自然は必ずしも必要としない。強いて言えば、地表へと降り注ぐ熱量の変化が自然にとっての時間だろう。

変わらない日々だ。高校を卒業することもできず、古くからの話し相手も去り。遂に天涯孤独となったというのに。

ああそうだ、季節よりかはまだ正確に、日付を確認する手段はある。毎月のように落とされる物資満載のコンテナは、私が辛うじて掴み続けている外界との繋がりだ。

紘を見送って、私は独り。

この街が好きだからじゃない。老人たちの面倒を見なければいけないという、使命に駆られたわけでもない。

この街でまともに生きているのは、私だけだ。

私がいなくなれば、街は死ぬ。その存在価値が、消えてしまうから。そしたらここまで生きてきた先達たちの足跡も消えてしまうから。いずれ終わるとしても、せめてその終わりくらいは、見届けてみたいと思う。

「そしたら、何か変わるのかな」

こうして独り言を口にしていないと、私の心が壊れてしまう気がする。紘がいたことのありがたみを、今にして感じる。

終わりを見た後の人生を、考え続けている。

老人たちは皆、家から出てこない。扉を叩いて鈴を鳴らして、ようやく扉が少し開いた。やせ細った骨のような腕が伸びてきて、物資の入った袋だけを取っていく。

生きる意味を見失うと、こうなる。

植物のように、何事も成すこともなく。ただ、人生という時間に『無意味』という意味を与えていくだけの、植物未満の枯れ木だ。

人生を謳歌して、その結果が自然へと還り始めた光景で、何千年と積み上げた長い歴史がたった数十年で消えていく。目撃したときの無力感に蝕まれ、生きる意味を見失う。

彼ら彼女らの終わり方は、簡単だ。

息を止め、時間を止めて、命を止める。最後に残るのは、元『人間』の肉塊だけ。あとは私が袋に詰めて、墓穴へと放り込む。それでようやく、人生が終わる。

ようやく自由が手に入った枯れ木とは違って、私には何も残らない……とまでは言わないけれど。

荷物が消えていれば生きているし、残っていれば死んでいる。窓を割るなり扉を壊すなり、そういったくだらない知識と技術と経験が、私の中に積みあがっていく。

ただ、それだけの日々だ。


漂うように、毎日を生きる。

街を散策して、浸食した植物が付ける花々や果実を眺め、たまに火を放って抗ってみる。でも、限りある燃料がもったいなくて、中途半端にやめてしまう。

屋上で空を眺めることもある。まったく形の違う雲を見て、ああ別に感想を抱くことはないんだけど。空が明るくなってから暗くなるまでの変化を、ただ漠然と眺め続けている。

図書館で何十回も読んだ本に目を通して。反復作業のように思えるけれど、これが何度読んだって面白い本もあるのだから余計に面白い。私が生まれる前の、ちゃんと文明が存在していた時代のことを知るには、数少ない文献を漁るしかないから。それでも全部の中のほんの少しの少しでしかないのだろうから、人間が歩んできた歴史の長さに驚かされる。

思う。

これが私の人生の形か。「なんとなく」で選んだ現状維持は、つまらない結果しかもたらさないのか。

考える。

「生きたい」と願って生まれてきたわけじゃない。ある日突然三十年ほどの時間を与えられて、「今日からお前は人間として生きろ」と言われて。

滅びる道しか残されていないというのに、悲惨な道しか提示されていないというのに、「希望を持て」と言われる。変な話じゃないか、先人の歴史があっという間に飲み込まれていく様を眼前に置かれ、まだ足掻こうとするなど。

じゃあ、漂うように生きることが正しい人生か。

それも違うような気がする。果てしなく生産性がなくて、本当に死を迎えることだけを待っているだけだから。

コンテナから物資を回収して、その度に何度、信号弾を撃つかどうか迷っていた。信号弾を撃てば、都市が死んでいなければまた一か月後くらいに補給があるだろう。しかし、もし私が生きることを諦めれば、信号弾を撃たなければ、残された限りある食料をやりくりして緩やかに飢えていくのだろうか。

人間が死ぬのは、動けなくなったとき。もういなくなった老人が言っていた気がする。食べることも、しゃべることも、考えることも、できなくなる。それが『死』であるんだと、何年か前に語っていた記憶がかすかにある。

ある日突然死ぬなんて、今を生きる人間たちからは消えたようなものだ。ただゆっくりと体が蝕まれ、前兆のようなものを感じ取ったうえで、覚悟を決めて死ぬ。

しかしどうも、人間は死ぬことを嫌がるらしい。本能に由来するのか、どれだけ辛くともなかなか死を選ぶことができない、と。

惰性で生きて、漂うように生きて。今はそれが当たり前。

人間の数が減少傾向に入ってから、すこしずつ蔓延してきたらしい価値観。繁栄していたころ、文明がまだ機能していたころは、どれだけ生きづらい世の中だったのだろう。

生き急ぐように、生きていたのだろうか。

寿命が今よりも長いことは知っている。けれど、その当時を知っている人間はほぼすべて灰になった。あくまで想像の範囲でしかないけれど。

「何が楽しくて生きていたのだろう。追われるように生きてきて、それを充実した人生と定義しているなんて、ただ心を擦り減らして生きているだけじゃないか」

言葉にして見ると、結構酷い。そういった人間たちがたくさんいたからこそ、私が今この場に立っているというのに。


さらに季節が一周した。

暖かな春の季節、何十回とこなしてきた死体処理が、ようやく終わりを迎え——。この街に生きる人間は、とうとう私だけになってしまった。

何も変化はない。老人たちは生きることを諦めていたから、家から出てこなかったから、紘がいなくなってからの約二年と、何も変わらない。

私がよく立ち寄っている場所、家や学校の屋上などは、まだ『私』の痕跡が残っている。それでも、少しずつ壊れ始めている場所は出てきていたりして、自然に還るのも時間の問題。

この街はまだ、生きているのか。この問いへの答えは、まだまだ出せそうにもない。

私という人間がまだ、しがみついているから、生きていると言えるんじゃないか。それとも、『人間の集合体』という意味で『街』という言葉を使うのであれば、人間が一人しかいない今この現状は、死んでいると言えるんじゃないのか。

少なくとも、私がこの街から離れたら、街は確実に死ぬ。数年で街があった痕跡は土に埋もれて、私がここで生まれ育ったことが忘れられていく。

ここから、どこへと歩いて行こうか。

この人生は、終着点までの退屈しのぎに飢えている。意味を持っていないから、何をどうしようと、何を選んでも、自由だ。仮に、この街に停滞して心中したとしても。

ここで死を待つこと。それが一番、簡単だ。何も感じず、何も考えず、歩み出すこともなく、ただ時間を無意味に費やすこと。これがもっとも単純で簡単で容易で、つまらない。

紘が都市を目指した理由が、ほんの少しだけ掴めた気がした。彼女がこの街で何を感じ、何を選ぼうとしたのか。

ただ、彼女にとっての正解を選んだだけだった。それぞれの人生の正解を、正しいか間違っているか関係なく。選択を諦めて停滞することが、人間として最低限度未満の行為であること。それだけは避けたくて、紘はこの街から都市へと旅立っていったのか。

合っているか間違っているかなんて、関係ない。答え合わせは、死んだときにはじめてわかるような気がする。

屋上で寝転がって、たった一人の街を歩いて、いろんな本を飽きるくらい読んで。それが私の人生の正解なのかもしれない。あるいは、もしかしたら別の、選択が。

「ならせめて先に、人生の答え合わせだけをしてくれないか」

叶うはずもないのに。


紘の家に入ってみた。

誰も住まずに二年も経てば、完全に家は死んでいる。紘から管理を頼まれていたわけじゃないからいいのだけれど、やはり実際に家が息を引き取ったあとの残骸を見ると、堪えるものはある。

誰も住む人がいない、役割を失った家。役割を全うし、徐々に自然へと還る準備が進んでいるようで、部屋の床に壁に天井にと、所構わず蔦や根が生え始めている。

でも、紘はまだ死んでいない。この家の家主であった紘は、私の目の前から去っていっただけであって死んだわけじゃないのだ。

「自己矛盾だね。紘がいた頃の私は真逆の考えをしていたはずだから」

結論として、私は実際に紘がいなくなったことで変化があったのだと思う。あまり実感はわいていないけれど、人間との交流が恋しくなったり、誰かと話して笑いあい、言葉を交わしたくなる。

人間の変化には、大きな離別が必要なのかもしれない。大切な人や物と離れることで、考えの指針が変化するのではないか。それくらい、私のこれまでの時間を語るには紘が必要だったことがわかる。

「都市には規則があるらしい。他人の物を勝手に盗んではいけないとか、人を殺してはいけないとか、昔から存在するらしいけれど」

最近は独り言が増えてきたように思う。独り言を呟いていると、思考の整理が捗るような気がするから。

「その中には、他人の家に勝手に入ってはいけないというのもあるらしいけれどね。しかし、私以外に人がいないこの街では、私を規則違反として糾弾できないんだ」

守らなければいけない規則も、人間が円滑に社会で生きるためという役割があるらしいと聞いた。逆に言えば、私のような『逸れ人』と定義されるような人間は所属する社会すらないのだから、誰かのための配慮なんて必要ないんだなと感じる。

ゆらゆらと揺れる蝋燭の明かりを頼りに部屋の探索を進めていると、ひときわ大きな扉があった。見るからに作りもしっかりとしていて、どうにもただの居室には見えなくて。扉だけじゃない、壁も頑丈なようだ。

玄関から一番奥、まだ入ったことのない部屋の扉。紘はたしか、書斎だと言っていたような覚えがある。

新たな家が建てられることなんて有り得ない話だから、おそらくこれは何十年も前の家。ということは、人間がこうなるまでの一部始終を眺めてきたということになる。最盛と衰退をこの地で見つめ続け、遂には街が死ぬ一歩手前まで来てしまった。

少し歪んだ扉のノブに手をかけて、意を決して思い切り捻る。鍵はかかっていなかった。

足音を忍ばせながら、ゆっくりと部屋に入る。虫が湧いているくらいの覚悟はできているけれど、もしかしたら得体のしれない生物がいるかも知れないのだから、せめて老人の家から拝借した猟銃くらいは持ってくるべきだっただろうか。役立つかどうか、というよりは安心感がここでは大切だから。

ギィッ、と音がして。

「あれ……?」

思ったよりも新鮮な空気が流れ込んできた。

薄く埃を被りつつも、想定以上に綺麗だった。壁一面の棚に並べられた本棚、綺麗に並んだ背表紙に、目を奪われる。入り浸っていた学校の図書室より狭い分、書籍が眼前へと迫ってくる圧迫感を覚えた。

一冊ずつを読んでいくとしたら、どれくらいの時間が必要なのだろう。無限に吸収することができるのではないかと思えるくらい、膨大な知識が私を取り囲んでいる。

背表紙だけでもと、斜め読み。最盛期を迎えていた時代の本が、ぱっと見だと多いように感じる。これまで私が取り込んできた知識がまだまだちっぽけなものであったのだと、より一層自覚が強まった。私の知らない、私が少し知りたかった、興味関心を寄せたくなった時代の存在を、更に実感して。

私がやりたかったのは、これなのかもしれない。

世界を眺めて、色々なことを知って。消え落ちていく歴史の欠片をひとつずつ拾い集めていく。ああ、それなら学校の授業ももう少しちゃんと聞いておくべきだったな、なんて。

紘ももしかしたら、私と似たようなことを感じていたのかもしれない。

換気扇が未だに動いているのを見るに、彼女が定期的にここを訪れては整備していたのだろう。街の発電所は機能を停止してから時間がとても経っているし、辛うじて動かしているインバーターがあるとはいえ、電気を受け取る側がしっかりしていなければ当然動きもしない。

手間がかかることは身にしみて理解できる。その面倒な手間さえ惜しむことがなかった紘にとって、この場所はとても大切だったのだろうか。この場所で、積み上げられた知識を吸収して、興味が湧いて、もっといろんなことを知ろうとして、都市へと旅立っていったんじゃないかなんて。本人から答えを聴くことなんて出来もしないのに。

棚をなぞるように視線を動かしていくと、一際目を奪うほどの存在感を放つ本を見つけた。

言葉の意味が書き連ねられた……そうだ、たしか辞書というのか。同じくらいの分厚さ、重厚感だ。優しく棚から取り出してみると、明らかに他の本よりも品質の良い紙が使われている。たまにコンテナに積み込まれていた紙の束はすぐに劣化してしまうけれど、その兆候は見られない。

「これ、いつ頃の地図かな。だいぶ古そうではあるけど……」

開いてみると、いつの日か授業で見せられた地図が何枚も何枚も綴じられていた。驚いて表紙に戻ると、もう掠れているけれど、かろうじて『地図帳』の文字だけは判読できた。

裏面を見ると、どうやら『国土地理院』という機関が発行したらしい。どうせもう、存在していないだろうが。

小学生のころ、紘と街の地図を作ったことがある。目印を立てて、紙に印をつけて、街の輪郭もよくわからないまま。空から街を見下ろすなんてことができたらよかったのに。

あんな簡素で幼稚なものに比べて、この地図はとてもしっかりしている。とても精巧に作られたもののようで、それが何枚も重ねられ、本になっていた。とはいっても、街でさえ空から見た姿など知らないから、これらが本当に正しいのかは知らないが。

街と思しきページは、すぐに開くことができた。確証はないけれど、紘が何度も開いたり印をつけている場所だったから。

私が知らない時代の街の姿だ。ページに描かれた大小さまざまな広さの図形は、それぞれの家なり建物なりがあったということだろうか。今の荒れ果てた景色とは比べ物にならないほど、発展していたのだろう。

何枚も何枚も、丁寧に丁寧にめくっていく。本の厚さからして、蝋燭が燃え尽きるまでに目を通せるかは微妙な時間。持ち主はもういないのだから持ち出してしまってもいいかもしれない。でも、少なくともこの場所で紘が大切に保管していたこともたしかだから、あまり気乗りしない。

高々と伸びていた白い蝋はあっという間に短くなった。この街から出たことのない私にしてみれば、ただの図形と線が描かれただけの紙束でしかないはずなのに、見たこともない、想像もできないはずの景色がどんなものかと妄想が膨らんでいく。ieなのか、学校なのか、倉庫なのか、はたまた別の用途のためのものなのか。

本を読んだだけで世界の殆どを把握できるだなんて、微塵も思ってはいなかった。でも、私が想像していた以上に広がりがあって、世界中に数多くの知識が散らばっていて、今この瞬間に輝きが鈍くなっていく。仮に知識が失われたとしても、その根源である人間がすべていなくなったとしても、世界は『自然』という形で変化することなく美しく在り続けるんだろう。

「見てみたい」

感じてみたい。可能であるなら、私が生まれてきたのだから、死ぬ前に知ってみたい。誰もが知っている景色でも、誰も知らない景色でも、記憶に刻み込みたい。

ああそうか。

紘は私と同じように、まだ見ぬ景色に惹かれたのだろうか。この小さな街よりも外側の、限りない美しさに。

『じゃあね』と言ったけれど、もう二度と会うことはないと思ったけれど。結局私は、紘と似たような道を歩むことになるらしい。もし紘に会うことが叶ったら、彼女は私を見てどんな表情をしてくれるのかな、なんて。

ずっと考えていた、人生の意味。生きる意味、死なない意味。まだ見つからない。

探してみようか、残りの時間を使って。たった一人で生き抜くことは同じでも、色んなものを目にして耳にして、聞いて感じて声にして、記録に残す。それが新しい、やりたいことなのかもしれない。

紘に会いにいくのが目的じゃない。私が歩んだ道の先に、たまたま会えたらいいとだけ。

果ての先に何があるのか。地図の先に、道の先に何があるのか。どんなものが見えるのか。

でも、空は繋がっている。答えを知っている。だから、歩んでみてもいいじゃない。

「紘。私はようやく、やりたいことを見つけられたみたいだよ」

人生の意味を探す。それが私の、街の終わりを見届けた私の、次の道かもしれない。

最後のページの余白に行き着くと、手書きで書き加えられた文字列が刻まれていた。

「いつかの約束。もしも生きることを諦めたくなったら、この世界で一番高くて広くて綺麗な場所で、一緒に星を見よう」

ああ、これか。紘が最後に言わなかった、私と交わしたという約束。

「……よくこんなの、憶えていたね」

文字を見て、ようやく思い出した。

何年も前、私と紘の二人で学校の屋上に寝転がり、空を見上げた夜のこと。あの日、たしかに私は紘と星空を見に行くと約束したはずだ。時の流れというのは残酷で、古い記憶は錆びついていく。

「他愛もない、と一蹴するのは簡単なこと。でも……、私にとってはただの約束でも、紘はそれを大切にしていた」

文字をなぞる。少しの掠れもなく、ただ紘の思い出を未来の私につなげるために。

「まさか、ね。紘がそこまで予想図を描いているわけがない」

明かりが消えた。

蝋燭が役目を終えて、私は暗闇に身を落とす。視界が消えても、紘が書き残していった言葉が浮かんでいる。それはさながら星のようだった。


*****

荷物をまとめるのに、随分と時間がかかってしまった。都市から迎えがあったらしい紘とは違い、私には移動手段がない。

そして何より、次の春を待たなければいけない。秋を越え、冬を耐えながら、街道へと降りていく。自殺と同等の危険でしかない。

そうやって理由をつけているけれど、私はこの街を殺したくないんだろう。私が去り、存在が不必要となった街がどうなるか、考えなかったことなど1度もない。誰ももう、この場所に来ることは無いのだから。

名残惜しい。

そう思えるだけ、私はこの街を愛していたのか。数千人もいたはずの街が、私の産まれる前から死に始めていたことに、忘れられ始めていたことに、憐れみを覚えてしまったのかもしれない。

理由など、なんだっていい。ただ、春になれば、あとコンテナが3回落ちれば、この街は死ぬ。その事実を噛み締めて、この街を殺すことを噛み締めて、歩き出さなければいけないことに、変わりない。

片っ端から、家を漁った。めぼしいものは何もない。強いて言うのなら、私がこの街を殺してしまうという、罪悪感だけだ。

「お、おもたっ! なにこれ」

建付けが悪くなった倉庫の扉を開けると、かれこれ何年も放置されていたバイクを見つけた。

「動くかな、どうだろう。鍵も残っているし、置いて出ていったわけじゃなさそう……」

誰がいつ、どこでどう死んだのかなんて、覚えていない。皆が心を閉ざし、誰とも関わることを辞めてしまった老人たちのことなど。

もう死にたくて、死にたくて、誰かと関わってしまったら生きてしまう。死を怖がってしまう。だから、孤独であろうとしたんじゃないか。季節三周分孤独を経験して、今はそう、納得している。


草が鬱蒼と生い茂るなかで、どうにか通れそうな道の跡。これを、獣道というんだろうか。言葉だけは知っていても、実際に目にしたことのないものが多すぎる。

最低限にしたつもりだが、バイクの荷台に積んだものは重量の許容を超えているような気がする。少なくとも、街道に出るまでは安心できない。

乾いた地面と踏みしめる。雨がしばらく降っていないおかげか、車輪がぬかるみに突っ込んでしまうこともない。ただ、草木の湿気で暑いくらいか。

「そろそろ、なんだけどな」

頼ることができるのは、どこへ続いているのかもわからない獣道。時間の感覚も麻痺し始めて、本当に街道へとたどり着けるのか、不安になってくる。


人間は発展して、死んだ。

これが私の知っている、簡潔な人類史だ。

私の生まれるずっと前、人間の社会はとても発展していたらしい。交通網が整備され、どこに住んでいても荷物が届く。『会社』という組織に属し、生活するために必要な物資を手に入れるため、あるいは人間社会をさらに発展させていくために、生きていたと聞く。 

人間が死んだ理由は、まあ詳しくは知らない。だってそれを知っている人のほとんどが、街に住んでいる枯れ木の老人たちだったから。たった一人しかいない教師ですら、「人間が減った」という事実を伝えることしかできなかった。

50年くらい前に、地球——私が今いるこの場所のこと——の汚染が限界を超えたらしい。動植物は数を減らし、人間はあらゆる病気に弱くなった。

でも、それで人間は変わらなかった。死なないよう、人間がみな死んでしまわないように、様々な人が手を取り合った。だからこうして、私が生まれ、紘が生まれ、生きることができている。

つまり、人間が死んだのは環境汚染が理由じゃない。外的要因じゃ、決してない。私はそう考えている。

じゃあ何が理由なのか。それを考えるための、旅かもしれない。

さて、私の人生はどこへと向かって進んでいこうか。紘と出会うために都市へと進んでもいいし、あるいは彼女とは全く別の方向へと舵を切ってもいいのかもしれない。結局、誰のための人生かと問われたら迷いなく「私のため」であるのだから、何を目的に据えてもいい気がする。

「どこか途中で死ぬくらいが、いいのかもしれないね」


日が沈む前に街道へとやってくることができた。腕がつかれているのを感じる。

しかし、ここで立ち止まっているわけにもいかないから、仕方ないので歩いてみようと思う。

行きたい場所もない。とりあえず、走らせてみようか。どうせ行く宛もないのだから。

とりあえず、なんとなくの感情任せで道を選んでみることにした. 感覚で、右を選ぶことにしよう。

バイクにまたがり、エンジンをかける。事故に巻き込まれるようなことなど、まあ凡そ無いだろう。仮に事故を起こしたら、助けられる未来は薄い。どうせ死ぬだけである。最低限、前方のライトは灯けておくだけでもいいかもしれない。

「燃料がもったいないんだよな、これ。適当なところで車なりバイクなりが見つかればいいんだけれど」

この旅は、今のところ終わりがない。漂うように動き続けるがために、いつどこでどんな目に遭遇するか分かったものでもない。街よりも外側の知識など、飽きるほど読んだ図書室の本くらいしかないのだから。それも、数十年前の。

物資の確保、寝床の確保。あらゆることを私自身の手で行わなければならない。人間がまだ別の生き物であった遠い時代と近い部分はあるかもしれないが。

なんにせよ、手に入れられるものがあれば何でも使う。つまらない死に方をするために、街を殺してきたわけじゃない。

そうだ、私は街を殺したんだ。家を殺し、歴史を殺し、街の息の根を止めてしまった。

バイクを走らせながら、今更にして重苦しいものが胸の内に圧し掛かってくる。

役割を失ったモノは、死ぬ。そんなのは当たり前のことだ。私の手で、故郷の存在理由を奪ってしまった。これが街の殺し方で、歴史の殺し方。ここまで歩んできた先人たちの思いも、積み上げられた時間も、私がいなくなり死んでしまえば、誰も覚えていない。

記憶はこうして死ぬんだろう。誰にも覚えてもらえないことが、他人の記憶から消えてしまった時が、人間の死だ。


「……お邪魔します」

完全に夜が沈んでしまったら外を走り続けるわけにもいかず。睡眠を取るため、元『街』であろう区域に立ち寄った。

人の気配は一切ない。おそらく、私が殺してきたあの場所と同じように、住む人間がいなくなったことで完全に死んでしまったのだろう。とはいえ、あくまで気配がないだけであって、『逸れ人』が息を潜めている可能性は十分に残っている。

見た目からしてまだ綺麗そうな家の近くまでバイクを押して、物陰に隠れる。火を使うときはできる限り周りを見渡すことと、空気の逃げ道を作ることを気にするし、寝るときには拝借してきた猟銃を胸の前で握りしめながら眠るように。どれもこれも、紘がその昔教えてくれたこと。

都市へと続くであろう道は、想定よりも劣化が激しい。地面はひび割れ、落石や倒木で塞がれてしまっていることも頻繁に遭遇する。そのたびに迂回を強いられたりすることが、とてもストレスだ。

日が昇ったらバイクを動かして、道を進んで戻っての繰り返し。死んだ『街』を見つけたら、物資の確保と休憩を取る。非常に不安定で、まったく先が読めない。

投下されたコンテナを見つけることも、だいぶ少なくなった。たまに家の中を覗いてみると、死体が置いてあることもある。首を吊っていたり、銃か何かを使って血だらけになっていたり、手段はどうあれ生きることを諦めたんだろう。私もこうなっていたかもしれないと考えると、不安定な今この瞬間の感じ方が変わるような気がした。


「お、珍しい。人間が来るなんて」

「……」

ある日のことだった。

『街』の跡地のような場所を見つけ、ふらふらと訪れてみる。まだガソリンに余裕はあるが、時間に余裕がない。死んでいるとはいえ、『街』の中と外では安全性が格段に違う。野生の動物に襲われて死ぬくらいなら、頭に銃口を突きつけたほうがマシである。

そうして転がり込んだガレージには、先客がいた。黒いワンピースに身を包み、焚き火の近くで暖を取っている女。表情は……暗くてよくわからない。

話しかけられ、頭の中が真っ白になる。反射的に猟銃を音の主へと構えることが出来たのは、奇跡と言えるだろう。

(バイクは隠してきた。でも、一緒に荷物も置いてきてる。目の前のこいつに仲間がいたら、バイクも荷物もタダじゃ済みそうにない予感がする)

三年ぶりに人間と対面して、警戒心は最大。同じ『逸れ人』であれば、物資の貴重さをよく理解しているはずだ。でもそれは逆に、私がこの女を殺してしまえば物資が潤うことになる。

「すごい警戒心だねえ。そんなに怖いかなあ」

「……このご時世で、人間を信用しろって?」

「それはそう。もしも同じ立場なら、同じように武器を取る」

でも、と言葉を切って、女が何かを手に取って、私に向ける。

「本当に警戒しているのなら、躊躇いなく撃つべきだねえ」

女が引き金を引き、発砲音が響き渡る。弾丸が私の顔の真横を勢いよく通り過ぎていき、木かなにかに着弾したようだった。

背筋が凍る。今のは確実に私を殺すことが出来て、敢えて外したんだろう。

「……どういうつもり?」

「あなたを殺すつもりなら、今みたいにすぐ撃っているという話かなぁ。話なんてするまでもなく殺しちゃったほうが、お互いに損がないよ」

一理ある。私が引き金を引けないのは、まだ人間を殺したことがないからだ。おそらく、本当の本当に追い込まれないと、眼の前の女にすら躊躇の感情が強く出るだろう。

「……ようこそ、終わってしまった場所へ。歓迎するよ」

ため息を吐いて、女は私を出迎えた。


隠していたバイクと荷物を回収し、女の住処に運ぶ。

「ガソリンならたっぷり余裕があるよ。食料品も同じくかなあ。独りじゃ消費しきれなくて、もったいないからねえ」

「……どうして、そこまで?」

ガレージに置かれた椅子に座り、私はにこやかに都合の良すぎる提案をしてくる女を見つめる。

「なにか裏があるなんて、そんなことないから安心してねえ。同じ『逸れ人』として、仲良くしよう?」

「……いつでも護身具に手が届く距離にいるのに、どうやって信用しろと?」

私以外の『逸れ人』と関わるのは人生初。警戒するに越したことはない。だがしかし、実際に私へ危害を加えようとするのなら、出会った当初に攻撃されているのも確かである。

女は顔の前で右手をひらひらと振って、笑った。

「ああ、これのこと? これはあくまで死ぬ危険のある事態に遭遇したら、だよぉ。『逸れ人』が徒党を組んで襲ってきたこともあるからねぇ」

「……『逸れ人』が襲ってくるんですか?」

「ということは、まだ出会ったことがないみたいだねぇ。こんな終末期、みんな『必死に生きてる』のさぁ」

必死に生きている。引っかかる言葉、飲み込めない言葉。

「ああ、そういえば名前を伝えていなかった気がするよ」

「私は、翠。よろしくねぇ」

Jade

女——翠は、しばらくここに滞在していくよう促した。

「私からしても、久しぶりの『逸れ人』だからねぇ。行先未定の旅なら、しばらく話し相手になってもらえたら嬉しいなぁ」

悪くない提案だと思う。未定というほど未定じゃないけれど、現状の私はこの世界を知らなさすぎるから、知ることができるのなら聞いておきたい。

「……わかった。よろしく、翠」

信用に足るのかは、別の問題だが。


翠はとてもよく喋る。

焚き火を見つめながら、とにかく色々なことを話題にする。私が翠に抱いている警戒心が解けるまで、翠は私の身の上を聞き出そうとしなかった。

「この街は、まだコンテナが落ちてくるよ。もう、私しかいないのにねぇ」

「……翠は、この街出身なの?」

「まさかぁ。『逸れ人』としてふらふらと彷徨ってたら、偶然コンテナの投下を目撃してねぇ。それからずっと、ここにいるよ」

翠が薪を火に焚べると、炎の揺らめきが大きくなった。

「この『街』に住んでいる人は?」

「全員死んだよ。そうじゃなかったら、コンテナを独り占めできないからねぇ」

それもそうか。貴重な物資が満載のコンテナを欲しがらない『逸れ人』は存在しない。私たちの生命線だ。

「都市について、翠はなにかしら知ってる?」

次は本題。少々話題を出すには早すぎる気がしないまでもないけれど、少なくとも

「……なるほどねぇ」

翠は合点がいったような面持ちで、更に薪を投げ込む。赤と灰の向こう先に、翠の姿が浮かんでいるように。

「こんなご時世に、『逸れ人』になる人間がいるだなんて不思議だったんだぁ。だって『逸れ人』同士、ある程度のコミュニティがあるからねぇ。それなのに初めて出会ったような表情をしていたのなら、なにかしらのワケアリなんじゃないかと想像するのは当然じゃないかなぁ」

「ようやくわかったよ。『都市』に行きたいのかぁ」

「都市のこと、知ってるの?」

私は私で、かれこれ一ヶ月は使用していない猟銃の手入れをしていた。といっても、せいぜい銃身を布で綺麗に吹き上げるくらいしか知らないが。

「翠がいいなら、よければ情報が欲し――」

声を遮るように、