らっきーせぶん

「ねえ咲季。」

 ある日の昼休み、わたしは隣のクラス——一組を訪問していた。

 一組の教室に入るのはとても新鮮だ。わたしの友達はみんな同じクラスにいて、他クラスを訪問する特段の理由がない。あるとすれば、手毬と話すために行くくらいだろうか。

 一組の教室の扉から教室内を覗くと、紺色の髪は見当たらない。わたしを見掛けた一組の子は「月村さんなら購買に走っていったよ」と教えてくれた。でも、別に今日の目的は手毬じゃない。

「咲季、いる?」

 目的の人の名前を、もう一度呼ぶ。返事がない。私の視界には彼女の姿が映っているのだけれど、私の声が小さくて聴こえていないのかもしれない。

「咲季。二位の人。」

「あーーーーーもう! 聞こえているわよ‼」

 咲季の甲高い声が教室に響き渡る。

「やっと返事してくれた。」

 窓際の席から扉の方へと近づいてくる彼女の顔は、なんとも複雑そうだ。

「條澤広、この前の定期試験のことで、またわたしを煽りに来たのかしら?」

 どうやらまだ、『二位の人』と呼んだことを根に持っているらしい。わたしからすればそんなに気にすることなのか不思議だけれど、佑芽と同じように勝負ごとに拘りを持っているのであれば、なんとなくわかるような気がする。

「わたしはそんなことしないよ、二位の人。」

「あんたねぇぇぇぇぇぇ‼」

 咲季の声はちょっと高め。でも、流石は佑芽のお姉さんで、大きな声を出されると鼓膜が痛くなる。

「咲季、ちょっとうるさい。」

 購買から戻ってきた手毬が、咲季をたしなめた。昼休みで騒がしいとはいえ、アイドルの卵が出していい声の大きさではないだろう。

 手毬に注意された咲季は、しゅんとなっていた。

「それで、わたしに何の用かしら。」

 とはいえ、それも一瞬。咲季は普段通りのテンションで、本題を質問してきた。

「咲季。今朝、佑芽が飲んでいたドリンクを、私にも作ってほしい。」



《放課後・学生寮のキッチン》

「お待たせしたわね。これが新作のSSDよ!!」

「うん。いただきます。」

 相変わらず虹色に発光している不思議な飲み物は、どうやらあまり評判が良くないらしい。千奈は一口飲んだだけで倒れてしまった。

わたしはこの独特な味が好きだった。これまで飲んできたどんな飲み物よりも独特な味がしていて、なおかつ身体にすごく良いらしい。プロデューサーはずっと「健康に気を使ってほしい」と言っていたけれど、これを飲めば本当に健康的な身体になれるかもしれないと思えてくる。

とはいえ、『良薬は口に苦し』という言葉があるように、何の苦しみもなく健康になれるわけでもない。

口の中に広がる、なんとも形容し難い味。これは一体なんだろう。アイドルがしてはいけない顔を自分がしている自覚はある。

佑芽はニコニコしながらこれを飲んでいたけれど、流石に理解が難しいかもしれない。

一気飲みすることはわたしの身体が耐えられないから、ひと口ひと口を味わいながら飲んでいく。咲季はわたしを見て笑顔になっていた。

「ねえ咲季。ちょっと飲むのに時間がかかりそうだから、椅子に座らない?」

「ええ、そうしましょう!」

 学生寮という用途に合わせ、共用スペースであるキッチンやリビングはそれなりに広い。フローリングに白い壁、暖かさを感じる木製のテーブルと椅子は、それなりに居心地がいい。

「それで、新作SSDはどうかしら?」

 向かい側に座った咲季が、輝かせた目で問いかけてくる。

「うーん……。もしかして、素材が変わった?」

 以前と比べれば、まだ変な味がしない。千奈が常飲するには命がいくつあっても足りないが、比較的穏やかな口触りがする。

「流石ね、篠澤広! 今までのSSDは散々な味の言われようだったから、少しだけ改良を加えてみたの。」

 正解だった。秘密の変化に気がついてもらえたからか、上機嫌な咲季。佑芽と話しているときの咲季は笑顔が絶えない印象だが、その時に見せる表情に近い気がする。

「わたしは……こっちの新しいほうが好きかな。」

 頻繁ではないとはいえ、やはり飲むなら味の最低保証は欲しいところ。

 季節の変わり目は肌寒い。それは初星学園も例外じゃなく、徐々に衣替えを検討する頃合いだった。咲季は窓の外を眺めながら、「時間が過ぎるのも早いわね……。」と呟く。

「咲季もそういうこと、思うんだね。」

 意外だった。彼女のストイックな生活の中に、季節を感じるほどの余白があったのか。

「広はわたしのことをなんだと思っているのよ。わたしだって、空を見上げてセンチメンタルな気持ちになることくらいあるわ。」

 咲季は微笑みながら、わたしに返答する。でも、視線は変わらず窓の外。頬杖をつきながら、ゆったりと時間を見つめている。

 咲季がこんな風にくつろいでいるのは珍しい。せっかくならと、わたしは今まで思っていた質問をしてみることにした。

「ねえ。咲季はどうして、佑芽のためにいろんなサポートをしているの?」

「その質問に対する答えは一つよ。わたしの大事な妹だから。」

 咲季の視線が、わたしへと向く。『問うまでもないことをどうして質問するのか』とでも言わんばかりの瞳。

「でも、咲季は佑芽のライバルでもあるんでしょ?」

 咲季が佑芽に行うサポートはすごい。彼女は実の妹に対する純粋な愛だけで動いている。わたし自身に兄弟姉妹がいない分、想像するだけでは真の理解ができない。

 わたしの言葉に、咲季は首を傾げた。

「わたしはね、私に勝ちうる存在に勝ちたいのよ。それがたとえ、実の妹でもね。」

「ふうん。」

 いくらでも深掘りすることができそうな気がした。けれど、それは彼女たち姉妹の中だけに留めておいたほうがいいと思って、次の言葉が出てくる前に流し込んだ。


 飲み干したコップを流し台に持っていき、丁寧に水で濯ぐ。いくら身体がよわよわと言っても、わたしにだってコップを洗うことくらいならできる。

「ごちそうさま。それじゃ、咲季にお礼しなきゃ、ね。」

「別にお礼なんていらないわよ。むしろ、美味しかったって言ってもらえて、わたしの方こそ感謝したいわ。」

 外はすっかり日が暮れて、もうすぐ他の生徒が帰ってくる頃だろう。

「ねえ咲季。ちょっといい?」

 咲季は椅子に座ったまま、わたしの方を見ていた。

「咲季はそのまま座ってて。」

 不思議そうに見つめる彼女のもとへ、ゆったりと歩み寄っていく。咲季のことなど視界の端で気にも留めず、わたしは彼女の後ろに回る。わたしが一体なにをするのか、咲季は首を傾げていたけれど、そんなことはどうでもよくて。


彼女の背後に回ったわたしは、大きく腕を広げて抱きしめた。


「??????!!?!?!?」

 腕の中で、咲季が混乱しているのがわかる。なんの脈略もなく後ろから抱きしめたのだから、それは当然だろう。

 でも、別に咲季は驚きだけで抵抗することはなかった。わたしの貧弱な力では高が知れているのだから、わたしが力加減を誤っていないことは確かだけれど、せめて何かしらのリアクションをとると思っていた。

「わたしが抱きしめて、咲季は何を感じているの?」

 わからない。だから、質問してみる。

 わたしが同年代の女の子と接する経験が浅いから、そこに知的好奇心が芽生えてしまった。

 咲季はわたしの問いに対して、一呼吸おいて。

「さあ? 何かしらね。」

 はぐらかされた気分。誰かに挑まれたことは数多くあれど、今日は不思議な感じがする。

「逆に聞くわ。なんであなた、わたしのことを抱きしめたの?」

 黙って考えていたら、彼女の方から仕掛けてきた。

「……なんとなく、かな。」

最初はなんだか、姉として頑張っている咲季を励ましたかったような、そんな気がする。でも今のこの感情がそうかと言われたら、なんだか違うような気がする。

「そう……。なら、わたしも同じように返すわ。なんとなく、心地がいいわね。」

 なるほど。必ずしも答えを求める必要がないというのは、ちょっと不思議な感覚だった。単なる感情の発露に基づく行動に対して理由を求めることは、もしかしたら無粋なのかもしれない。

鎖骨周辺に回したわたしの右手に、咲季の頬が触れた。

「……最初は驚いたわ。あなたが抱きしめてくるなんて、思ってもなかったから。」

 わたしの突発的な行動だったから。

「佑芽とよくハグをするけれど、あの子はあくまでも妹。同学年ではあるけれど、本当の意味で同い年ではないわ。」

「咲季が心地よく感じているのは、なんで?」

 咲季の身体を包み込んだまま、左手で彼女の右頬を優しく触る。

「同い年って胸を張って断言できる人とするのは、初めてだからもしれないわ。『姉』としてではなく『同級生』として接することができて、肩が少し軽くなった気がするの。」

 安心感。一時的にプレッシャーから解放されて、力を抜いて息をすることができる。


「ねえ咲季。ちょっと立てる?」


以前、どこかのネット記事で見たことがある。

ハグをするときの身長差は七センチくらいがちょうどいいらしい。


「これ、入りづらくない……?」

「ど、どうしよう……。清夏ちゃん。」

 共用スペースと廊下を隔てる扉で、あたしとリーリヤは目撃してしまった。

 レッスンを終えて帰宅したら、咲季と広が抱きしめ合っているなど、誰が想像できるだろうか。幸いにも、あたしたちくらいしかまだ寮に戻ってきていないようだが、流石にこの不可思議な空間に割って入るほどの勇気はない。

 隣にいるリーリヤも、あたしと同じように考えているようで、二人の邪魔をしないよう、静かに部屋に戻った。

(今度、咲季っちにそれとなく聞いてみよーっと。)


「……ねえ」

「なによ。」


 気になったことを、問いかける。


「『おねえちゃん』って、どんな感じ?」


 わたしには、いないから。


「そうね……。」


 咲季が、優しく、嬉しそうな声で。


「とーーーっても、いいものよ。」


 そうなんだ。はじめて知った。