光
眩しい光で目を覚ます。
空の上で迎える朝。
快適とはいえない目覚めに顔を顰め、重たい頭を引き摺りながらベランダを目指す。
上層から眺める景色は、受け入れることはできても、慣れることはない。
(たしか、鳥瞰って言うんだっけ……)
床に這う冷たさは、もはや痛みに近い感覚を与えてきた。
どこで役に立つのかも分からない。かといえ、役立たないと断言することもできない。
そんなモノが泡のように浮かんでは割れていく。
そこらへんに転がっている“偶然”が、寄り集まって手に入れた世界。
それは決して自分の努力ではなく、母親の努力だけで片付けられるものでもない。
世間的に見れば、およそ勝ち組と呼ばれる地位。
けれども過去に縋り続けている私にとって、拠り所を失って手に入れたモノでもある。
特段好きというわけでもないアンティーク調の壁掛け時計に目をやると、登校時間までは十分な余裕がある。
凍てつく寒さはおよそ秋と思えないもので、ひと月前までの突き刺さるような灼熱との変化は、人々に不調をもたらす。
現にクラスでは、毎日のように欠席者が出ている。
(羽織ものが必要かな…?)
空気を、吸って吐いて。
徐々に活動を始めてきた頭は、先程まで感じていた痛みを訴えない。
「それにしても、最悪な夢だったわね」
口から吐き出された言の葉を、受け取る者は誰もいない。
お気に入りのポットで、お気に入りのアールグレイを注ぐ。
ひとりぼっちにしては広々としすぎな空間は、空気の冷たさとはまた違った痛みを発していた。
シックなブラウンを飾るテーブルには、いつものように母親の書き置き。
手書きのはずなのに、何故か無機質に感じてしまう文字は、大した内容を示さない。
既に制服に着替え、いつでも家を出ることが出来る。
そんな時に飲むアールグレイだけが、心に温かさをもたらしてくれている。
壁掛けの大きなテレビでニュースを見ることもない。
真っ黒な画面をただ見つめ。
紅茶を口に運ぶ。
爽やかな渋みと、広がるモルティー香は、。
そんな虚無ともとれる時間をどれくらい過ごしただろうか。
音無き世界に、異質な振動。
机に置かれたスマホを見ると、そこには朝から見るには少し重い人物のメッセージ。
朝に相応しくない、大きな溜息をつきながら電話をかける。
少々早いかもしれないが、今の時間帯であれば繋がるだろう。
「もしもし。長崎です。すみませんが……」
救援物資の要請を出してから30分。
時刻はまだ7時30分だが、既読が1しかついてない。
平日で学校があるといえども、みんな夜型で朝には弱い。
(夕方に届いてくれたらいっかな…)
モコモコの水玉パジャマに身を包み、毛布を被っていても寒さを感じる。
掛け布団が擦れる音さえも頭に響き、身体は暑いのに悪寒を覚える。
両親は出張で,週末まで帰ってこない。
正真正銘のひとりぼっちは,孤独も寂しさも通り越した“何か”だった。
スマホをいじる気力も湧かず,ベッドサイドの壁を眺める。
頭を空っぽにする,黒髪ショートカットの女の子はそう言っていた。
(「空っぽの心は何も感じなくなる。だから,暗い気持ちも忘れられる。」か……。
何も考えないって思っていたよりも……難しいなぁ)
そうして,どれくらいの時間が過ぎただろうか。
どこを見つめるわけでもなく,何かを考えるわけでもなく。
広くも狭くもない,閉じた世界。
その扉をノックするように,音が鳴り響いた。
『千早』と書かれた表札。
インターホンを鳴らしたが,誰かが玄関に来る様子もない。
(どうしようかな。確かこの前の練習のとき,家族が出張でいないみたいな話してたから。)
愛音からメッセージを受け取って以降,何度か返信を送っていた。
しかし,呼び出した本人は何も返してこない。
コンビニの袋を片手に持ち,他人の家の前で途方に暮れる。
ポストの中に差し入れを入れて帰ろうかとも思ったそのとき,スカートのポケットが規則的に震えた。
画面には「愛音」の2文字。
呼び鈴が鳴っていた。
ドアまで行くほどの体力はない。
もしメンバーだったら…と考え、枕元に放られたスマホでメッセージを打つ。
(予備の鍵の場所は伝えたけど……
誰か来るまでこのまま寝ちゃおっかな……)
目の前がぼやけ始める。
人間誰しも、瞼の重さには勝てない。
手からスマホが滑り落ちるのと同時に、意識を手放した。
千早家に上がるのは、初めてではない。
けれども1人で来るのは初めてかもしれない。
他人の家に入るときはとても緊張する。
一種のプライベート空間に他人が入り込むのだから、それは当然だろう。
記憶を頼りに、彼女の部屋の扉を開ける。
桃色のロングヘアーをもつ彼女は、ベッドで寝息を立てていた。
(メッセージ送って、すぐ寝ちゃった感じかな?)
今の季節にしては少し厚手すぎる布団。
それに包まる彼女の顔はとても苦しそうで。
目尻に浮かんでいたその雫は、どこか自分のことのように感じて。
夢を見ていた、そんな気がする。
両親も、クラスメイトも、みんな私の周りから離れていって。
手を伸ばして引き留めようとしても、泡のように崩れて消えていく。
承認欲求の強い私にとって、注目を浴びなくなることは、それは生き地獄。
誰も私のことを見てくれない。
私の想いは、届かない。
そんな世界に、突然差す暖かな光。
(もう、どうでも……)
いいや、なんて思っても、どこか諦め切れない自分がいる。
最後の最後の希望に、手を伸ばした。
魘されていた彼女の手を、思わず私は握っていた。
本当は、少し様子を見て帰る予定だった。
けれども、いつも太陽のように明るい彼女が苦しそうにする姿を見捨てて家に帰ろう、だなんて考えることはできなかった。
ベッドに腰かけて、熱を帯びた手を握る。
よほど嫌な夢を見ているのか、爪が肌に食いこんでいた。
(ちっちゃい頃、お母さんにこんなことしてもらったなぁ……)
空いていた左手で、規則的に布団をぽんぽん叩く。
幼い頃にしてもらったその行為、やはり効果があったのか、少しずつ彼女の力が弱まっていった。
どれくらい眠っていただろうか。
かなり熱が引いたのか、朝の不快感は改善していた。
「あ、おはよう。愛音ちゃん。
調子はどうかな?」
思いもよらない声を耳にして、咄嗟に目を開ける。
眩しい電灯は、少々刺激が強かった。
徐々に目を慣れさせていくと、そこに人の輪郭があった。
「……そよ、りん?」
愛音ちゃんが起きてから、少しの間慌ただしかった。
彼女の所望するプリンは、常温で放置してたおかげで温まっていて。
彼女のパジャマも下着も、汗でびっしょり濡れていて、それらの替えとタオルを用意して。
最初は「自分でやる」と言っていたけれど、起き上がるのも辛そうな彼女を動かすにはいかない。
着替えて片付けて、ようやく落ち着いた頃には、既に12時を回っていた。
愛音ちゃんはクッションを集めて、身体を起こす背もたれにしていた。
冷えピタを貼っている姿は、少し面白い。
「どう?少しは良くなった?」
「まあまあかなぁ……。まだ頭痛いし」
そう言いながら、彼女はプリンに手を伸ばす。
来た時よりも顔色は良いが、本調子でないのはみてとれる。
今日は元々オフ。
燈ちゃんは部活動の報告会があり、立希ちゃんはRiNGでのバイト、楽奈ちゃんは……よくわからない。
かくいう私も、定期演奏会の練習があるけれど、学校を休んだ時点で考える必要は無い。
「そよりん、助かったよ〜。
朝から調子悪くて、何も食べてなかったからさ〜。」
「そっか。美味しいならなによりだね。」
吹奏楽の譜面を眺めながら、相槌を打つ。
2人きりになるのは久しぶりだ。
バンド練習以外で会うこと自体、あまりない。
もし会っても誰かしら一緒なことが多かった。
どこか緊張している自分がいたことに驚いていた。
そう、この気持ちは緊張だ。
プリンを美味しそうに食べる彼女の顔を見つめることが出来ないから、楽譜に目を落とす。
彼女が甘えてきても、頭を撫でることに躊躇する。
それらは嫌悪が由来じゃない。
緊張している、としか言いようのない感覚。
燈ちゃんや立希ちゃん、楽奈ちゃんには感じたことのない違和を覚えているのは、1度彼女のことを酷く傷つけてしまった負い目から来るものだろうか。
そんな"得体の知れない何か"の答えは、案外すぐ見つかるかもしれないし、一生かけても見つからないのかもしれない。
「そよりん」
いつもの甘ったるい声で呼び掛けられる。
まだ熱はあるのか、吐く息が少し荒かった。
「そよりん、今日はありがとね。
学校サボってまで来てくれてさ。」
意識してしまったからだろうか。
彼女の発する音は、頭の中で反響を始めた。
自分の肌が紅潮していくのがわかる。
「……。」
何か返答しようにも、上手く頭が働かない。
顔を直視してしまうと、自分の緊張がバレそうで。
「もういっこ、頼みたいことがあるだけど……」
「……なぁに?」
辛うじて発声できた3文字。
それまで見ていた楽譜を床に置き、彼女の方へ振り返る。
この紅くなった顔が、彼女に気づかれないことを祈って。
既に愛音ちゃんはクッションを端に避け、横になっていた。しばらく起きていたこともあり、体力的にも限界が近いのだろう。
ぽんぽん、とベッドを叩く音。
甘えてくる2つの瞳は、どこか寂しそうだった。
1度深呼吸をして、足元から頭の方へ移る。
それを待っていたかのように、彼女は腰に手を伸ばしてきた。
「冷えピタ、あったまってるよ。
新しいの持ってくるから、一旦離して?」
抱き枕にされることは想定済みだった。
体調の悪いとき、人恋しくなることはよくある。
しかし、普段通りとは到底言えないような熱を発するこの状況では、熱を下げることが先決だと思う。
けれども、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、私に一層しがみついてくる。
「そよりん、ひんやりしてるから、きもちいい。」
「それ、褒め言葉?」
冷え性なことは私自身、いちばん分かっている。
だから、人一倍、肌の手入れには力を入れていると自負している。
そこそこ気にしていることをそれとなく言われ、若干イラッとしたが、相手は病人。
平熱である私の方が彼女よりも冷たいのは当然なことだし、この熱では頭もまともに働いてないだろう。
愛音ちゃん本心からの言葉であることに間違いない。
しばらくすると、背後から寝息が聞こえてきた。
腰に回された腕はそのままで、動こうにも動けない。
起こしてしまうと可哀想だが、いつ起きるかも分からない。
このままでは、彼女が起きた頃には私の腰はお亡くなりしていることだろう。
どうしようか、と少し考え、後ろを振り返る。
先程まで彼女が背もたれにしていたクッションたち。
そこから大きいものを1つ拝借して、抱き抱える。
以前、体調を崩して愛音ちゃんを抱き締めていたことがあった。それと比べてしまうと見劣りするが、心に平穏が訪れてきたことは確かだった。
夢というのは不思議で、確実に見ていたはずなのに起きてしまえば忘れてしまう。
覚えていても、ほとんどは気分が悪くなるものだ。
この景色に見覚えがある。
今朝、私が見ていた夢の景色だ。
母親の努力と運が重なって、周りの世界は一変した。
たしかに、生活は豊かになった。
今まで買えなかったものに手が届き、挑戦したかったことにも挑戦できて、心にも余裕が生まれていたと思う。
しかし、それと同等に、それ以上に、苦しかった。
それもまた事実だ。
ひとりぼっちの家で、自分のノートの名前を書き換えていく作業は、これまでの自分を捨てていく感覚に近かったのかもしれない。
生きてきたこれまでの時間を否定していく苦しみは、小学生の女の子には耐え難くて。
それに反して、母親は仕事の成功を喜び、報告してくる。
そんな想いのギャップはねじれにねじれて。
弾けた。
夢の中の、幼い私は、母親に言い放つ。
『おかあさんって、じぶんのことばっかりだね。』
また同じ夢の繰り返し。
そんなこと思ってない、と言い聞かせても心の奥底ではそんな気持ちを抱えていたのかもしれない。
小さい頃の私が言う度に、後悔と苦痛が刃を立てる。
けれども、今回は違った。
桃色の光。
光は少しずつ人の形になって、罪悪感で泣きじゃくる私を包み込む。
それは、温かくて、優しくて。
彼女は耳元で囁いた。
『もう、大丈夫。』
インターホンを押す。
誰も出てこない。
連絡をして20分経っているのに、そよちゃんからの返信がない。
「燈、どうする?」
後ろから立希ちゃんの声。
「あのんも、そよも、ねてる?」
抹茶飴をほおばりながらの、楽奈ちゃん。
「と、とりあえず、おうちの鍵はあったし……
このままだと困っちゃうから……はいろっか、なんて」
玄関前に置かれた植木鉢。
その裏に予備の鍵があることは、朝の連絡で知っていた。
ゆっくりと扉を開ける。
見慣れたローファーは、おそらくそよちゃんのもの。
しっかりと戸締りをして、もしかしたら寝てるかもしれないと、足音を立てないように、あのちゃんの部屋に向かう。
おそるおそる、ドアを開くとーー。
「ともり?」
「燈、大丈夫?」
背後からヒソヒソと、2人が話しかけてくる。
「ううん、大丈夫だよ。」
そう返しながら、私はドアの奥の様子を2人に見せた。
私たちはそのまま家を出た。
また30分後くらいに戻ってこよう。
扉の奥、千早愛音の自室では。
お互い寄り添いあって、2人は夢の中。