波間に響くトライトーン

 人を愛したことは、ある?

 なら、その人を人生最期まで愛すると決めたことは?

 人間はもちろん、いつか終わる。

 だから、限りある時間を悩みながらも使って、最期まで走り切ろうとする。

 誰のために時間を使うのか。それが『自分』だけなのか、あるいは『愛した人』だけのためなのか。それはまあ、個々人によると思う。

 じゃあ、もしもの話をしよう。

 もしも、愛した人が……あなたの時間から消えてしまったら?

残響

 その日は、雨だった。

 「年に数回もないほどの豪雨になる」なんて言いながら、深刻な面持ちの天気予報士を、私はテレビ越しに笑っていた。こんな事態になるとは、ちっとも想定していない。

「あーあ。もうちょい対策しとけばよかったかも」

 ぼやきながら、傘を差す。正直、予報なんて当たらないだろうと馬鹿にしていたが、そのツケが回ってきたのだろう。

「制服びしょびしょだし、家に帰ったら干さなきゃね」

 隣を歩く優衣が、半分独り言だった私のつぶやきに反応した。

「琴葉、いつも制服を床に放置してるじゃん。あらかじめ言っとかないと、またドライヤー持ってかないといけなくなるから」

 耳が痛い。

「そんなことないよ。雨の日はちゃんと乾かしてるし」

「ふーん。じゃあ、半年前みたいに大変なことにはならないってことね。それはなにより」

 頭が痛い。半年前、雨で濡れた制服を洗濯籠に入れただけで放置してしまい、朝に慌てて二人で乾かしたことをまだ根に持っているのだろう。

「優衣がそんなこと言うなら、相合傘やめちゃおうかな」

「……からかいすぎた。ごめん」

「わかればよろしい」

 優衣の傘は、突風に煽られて壊れてしまった。今は私の傘をシェアしているけれど、それも私の機嫌を損ねなければの話。素直に謝る優衣を見て、少しだけ偉そうに返した。

 そんなやり取りがどうにもおかしくて、私たちは笑う。

「ははっ、こんなのがずっと続けばいいね」

「うん、そうだね」

 狭い傘の下で、私たちは自然と手をつなぐ。いちいち言葉にしなくても、私たちの心は通じ合っている。自信をもってそう言える。

 雨は未だ上がらない。

 ピピピッと、電子音が鳴り響いた。

 眠気に抗えない私は聞こえないふりを決め込む。でも、次第に大きくなっていく音が耳障りに感じてきて、枕元の時計を叩いた。

 静寂。カーテンの端から漏れ出す陽の光が、新しい朝の訪れを伝えてくれていた。物語の主人公みたいにキラキラした人種にはとてもすがすがしい気分なのだろう。言いたいことも分からなくはないけれど、朝が得意じゃない私からすれば、ただの憂鬱な時間が始まったに過ぎない。

 布団の中で無為な時間を過ごす。太陽が少しずつ高くなっていくにつれ、迫る時間に焦りが出る。それでも布団の中でぬくぬくと留まっているのは、朝に対する小さな反抗だった。

 空腹。口の中が苦々しい。起きなければ一日が崩れてしまう。名残惜しい気持ちがないどころかそれしかないけれど、私が抱える無駄なプライドがウザいくらいに主張を繰り返して目を背けられない。

体を起こす。目を開ける。少しずつ伸びて肩に届きそうな髪が、すこしだけ重たく感じる。胸元まで被っていた掛布団を、思い切り足元へどかした。寝起きの時間に合わせて起動するようにしたクーラーの効果で、夏だというのに肌寒い。

布団が恋しくなり、代わりのぬいぐるみを手に取った。こうすれば多少は欲求が和らいでくれる。単純な頭だなと、私ながらに思う。

フローリングに足を下ろす。足裏から冷えた熱が這い上がってきた。まだベッドの上にいたい欲を振り切って、さらにもう一歩。左側に残された温もりに飛び込んでしまいたいが、それは悪魔の囁きだ。

深呼吸。心の中で五秒数える。意を決し、私は立ち上がった。閉め切られ空気の通りは悪いはず、なのに頭が妙にすっきりするのはなぜだろう。そんなふとした疑問に気を取られる時間はない。今の私がやるべきことは他にある。

部屋を出てすぐ隣の洗面台に向かい、口を濯ぐ。起きて早々に味わうあの苦々しさが不愉快でたまらなかった。本当なら歯磨きまでしてしまいたかったが、動き出しが遅れた私に余裕なし。二、三回口を濯いだ私は、雑に顔を洗って部屋に戻った。

電気をつける。クローゼットを開ける。身長低めな私に合わせた高さの突っ張り棒に引っ掛けたブラウスとスカートを手に取り、さっさと着替える。

中学校への入学祝で貰った姿見。振り返ればもうすぐ四年と半分。木製のフレームは少し日に焼けて変色しているが、変わらず私の全身をありのまま映している。鏡に前に立った私は、折れたスカートの裾をきれいに直した。

 部屋にただ一つしかない窓。遮光カーテンを開けば、部屋が自然の光で満たされていく。ようやく頭が働いてきた。

 時刻は七時半。壁掛け時計は正確な時を絶えず刻んでいる。優衣が迎えに来てくれる時間までには、もう少し時間がある。とはいえ、いつでも家を出ることができるから、特段やることもない。

「優衣に怒られるかもしれないけど、まあいっか」

 ベッドに身を投げる。私の彼女は「制服が皺になるからダメ」なんて言うけれど、「その背徳感がいいんじゃん」と反論したくなる。そんなことを言った日には、丸一日は口を利いてくれなくなりそうだが。

 なんだか眠たくなってきて、目を閉じそうになった。起きなきゃ、起きなきゃと、心の中の真面目な私が囁いてくるけれど、その程度でどうにかなるものじゃない。

 冷房が効いた部屋で毛布に潜ると、なぜか幸福感が増す。隣の寂しさを埋めることができたなら、世界中で一番幸せだろう。

 横になる。ぬくもりに包まれた私は、瞼を閉じた。

「ねえ琴葉、遅刻するよ?」

うたた寝していた私の耳に、透き通った声がした。寝ていても人の声は意外と聞こえるんだなと感心しつつ、誰の声かなと考えてみる。眠たくて目は開けられないけれど、耳で聞いて考えることくらいはできる。

(今聞こえてきた言葉は、私の名前と「遅刻するよ」の二つ。家で私の名前を呼ぶのは両親くらいしかいない。さっき七時半だったことを考えると、仕事に行ったお父さんは絶対違うからお母さんしかいないけど、あんな声してたっけ……?)

 恐る恐る目を開ける。光を目に慣らしてから少しずつ動き出そうと思い、枕代わりにしていた毛布に顔をうずめようとする。

 しかし、私の頭が敷いていたのは、毛布ではなかった。感触が違う気がする。

「ねえ琴葉。私の膝は枕じゃないし、毛布でもないよ」

 二度目の声。聞き覚えのある、私の大好きな声。

「……なんで優衣がいるの?」

 びっくりして、思わず見開いてしまった。眩しい光が目に刺さって、少しだけ痛い。

「おはよ、琴葉。ぐっすりだったね」

「優衣、なんで私の部屋にいるの?」

 起き上がろうとした私の肩を、優衣は優しく押さえた。私に膝枕することが気に入ったらしい。

「家の前で待ってたんだけど、全然出てこなかったし。どうせ寝てると思ったから、チャイム鳴らしちゃった」

「だからって、わざわざこんなことする必要ないんじゃない?」

 私の部屋にいる理由は、なんとなく想像できていた。でも、寝ている私を起こさないよう気を付けながら、膝枕をする理由にはなっていない。

 疑問の眼差しを向けられ耐えられなくなったのか、彼女は目を逸らしながら呟いた。

「……だって、かわいかったんだもん」

「ねえ、ごめんって」

「……」

 駅へと続く長い一本道を進む。私が二度寝したせいで、遅刻は必至。どうせ間に合わないから焦ってもしょうがないと、ゆっくり歩く。

優衣は終始無言。よほど恥ずかしかったのだろう。不機嫌というか、『近寄らないでください触れないでください』オーラを全身から纏っている。

 普段なら絶対言葉にしてくれないことを言ってくれて、舞い上がってしまった。元を辿れば私が悪い。本当は隣で話したいけれど、無言の圧が怖くて踏み出せない。優衣の出方を伺うため、一歩後ろに位置取った。

熱風が、私の髪を撫でていく。もう少し風が強かったら、せっかく整えた髪型が台無しになるところだった。

(あーあ。どうやって機嫌直してもらおうかな。)

 つかず離れずの距離は変わらず、ただ時間だけが過ぎていく。

**

 涼しい風が、私の頬に触れた気がした。

 人肌のぬくもりも、熱に宿る優しさも、感じない。私の心を満たすことはない、絶対的空虚。

 でもそれがいい。それが好きだ。私の心を満たしてくれるのは、世界中でただ一人だけなんだということを、再認識させてくれる。

 放課後を告げる鐘が鳴ってすぐ、私は屋上に入り込んだ。

 高校に入学してから一年。バイトも部活もせず、かといって受験に取り組むわけでもない。クラスメイトからは「つまらなそう」なんて陰で言われたこともある。

 ここは、私自身を晒け出すことのできる場所だ。息が詰まりそうな枠の中からはみ出せる、数少ない場所。誰からも否定されず、肯定もされない。私が私であるために必要な時間。

 背中を預けた柵の向こうから、無数の大きな声がする。青春時代を謳歌する同級生の姿は、想像するだけで目がつぶれそうになる。

 僻みとか妬みじゃなく、素直に羨ましい。胸を張って人に言える何かに打ち込めるだけのこだわりが持てるだけ、恵まれていると思う。

 両耳から流れる音楽は、最近流行りのロックバンド。ギターもドラムもおなじようなこうせいばかりで、正直違いが判らない。

 変わり映えのない人、音。流行なんていう曖昧なものにしがみつく作り手はたくさんいて、売れ筋のメロディに縛られている。

 世界中にはたくさん音楽を作って奏でる人がいて、それぞれに色がある。それなのに、均一化された音の作りを迎合するような人がいるがために、〈売れる音楽〉を作ってしまう。

「つまんないよね。最近の音楽って」

「……優衣、いつからいたの」

「十分くらい前かな。ずっと見てたのに、全然気づかないんだもん」

 優衣は当然のような顔をして、私の隣に座ってくる。柵の根元の僅かなコンクリートを椅子代わりにすることに、抵抗はなさそうだった。

「それで、琴葉は何聴いてたの?」

「クラスの子がお勧めしてくれた曲。ロック系だけど、どこかで聞いたことあるような感じがして、そんなに好きじゃない」

「ふーん」

「何その反応」

「ううん。私が思った通りだったなってだけ」

 優衣はそれ以上、話を掘り下げようとはしなかった。

 会話が途切れても、気まずい空気はない。私たちは同じ空間で時間を共有できればそれでいい。思い出したかのように言葉を投げ合えば、それで満足だった。

「そういえばさ」

 空が少しずつ赤くなってきた頃、優衣が口を開いた。普段は何も喋らずに解散することもあるのに、優衣が話題を振ってくるなんて珍しい。ほんの少しの新鮮さを覚えながら、耳を傾ける。

「今日、琴葉のために曲を作ってきたんだけど……、聴いてくれる?」

「え、聴く絶対聴く」

 イヤホンを取り、優衣の肩に密着する。柔らかい花の香りがした。

「ね、ねえ琴葉、そんなに近寄らなくてもよくない?」

「いーの、いーの!」

 今更そんなことを言われても遅い。私の定位置は優衣の肩で、そこから動く気は毛頭ない。

 説得に失敗した優衣は諦めたのか、スカートのポケットからスマホとイヤホンを取り出した。イヤホンの真っ白なコードは、悲惨なくらい絡まっている。

「優衣、ここ最近イヤホンほんとに絡まるよね。前はすごく上手に持ち運んでたのにさ。」

「あはは……」

 苦笑いしながら、手元でイヤホンを解く。その光景がなんだかおもしろくて、私は彼女の手元を眺めていた。

 手持ち無沙汰で待つこと数分。優衣がようやく解き終わったようで、寄りかかっていない左側用のイヤホンを渡された。

「それじゃ、いくよ」

「やっぱり、優衣が書く言葉は綺麗だね」

 聴き終わり、一番最初に出た感想。彼女は本当に、綺麗な言葉を書いてくる。

「私はこういうの、苦手だからさ」

 私には真似できないほど、洗練された文字の並び。他人に伝えることだけを目指して選ばれた言葉には一つの無駄もなく、優衣の感情・情景が、私の五感全てに刺さる。

「そう? ありがと」

 それなのに、一番伝えたい人には伝わらない。私は彼女の作る曲を高く高く評価しているのに、当の本人はどこか遠くを見つめている。

「でも、なんだか少しだけ、優衣っぽくない歌詞な感じがしたかな。なんというか、一般人目線が加わったような気がする。ドラマとかに影響された?」

「え、そう? 最近はドラマも映画も見てないから、影響受けるようなこともないと思うんだけど」

 さっきより少しだけ暗くなった茜色に照らされて、少しだけ顔が赤く見える。

「じゃあ、何か変わったこととかしたの?」

「な、何にもないよ。琴葉の……気のせいだと思う、かな」

 それまで遠くを見つめていた優衣の目が一瞬泳いだのを、私は見逃さなかった。さっきは夕陽に照らされているだけかと思った頬も、それだけが理由だとは思えないほど濃くなっている。

「なになに、もしかして優衣、照れてる?」

 そんな顔をしている優衣が珍しく思った私は、ほんの少しだけからかってみることにした。

「べ、別に、そんなことないから」

「ほんとに? 顔、赤くなってるけど?」

「あ、赤くなってなんかないよ⁉︎」

「いやいや、どこからどう見ても……ねえ?」

 優衣は慌てて、私はそんな優衣を見て笑う。これがいつもの、私たち二人の日常。

『こんな日がずっと続けばいい』なんて、少女漫画の主人公みたいなお願いをする必要はない。私と優衣、私たちだけが信じていれば、他の誰も必要ない。

***

「また今日も雨かぁ」

 窓の外、絶えず降り注ぐ雨の音。人間の息遣い。私の声。秒針。紙に走る鉛筆の音。

 耳を澄まさなくても、自然に聴こえてくる。普段の、騒音に塗れた世界では気がつかないような音まで、細部まで、すべて。

 教室。居心地はそれなりに良い。蒸し暑いを通り越した熱を持った湿気を除けば、という条件付きだけれども。腰に届きそうなくらい長い髪と背中や首筋の間に篭る熱が、鬱陶しい。

「そんなこと言ったって、梅雨なんだからしょうがないよ」

 少し離れた机に座り、鉛筆を走らせる優衣の声。至極真っ当、ぐうの音も出ない正論。私の愚痴も意に介していない。

「そうは言っても、さすがに限度があると思うんだよね。一週間はやりすぎじゃない?」

「琴葉、もう一度言うよ。梅雨だからしょうがないね」

「……。」

 優衣からまさかの正論を投げられた私は唖然としてしまって、返す言葉が見つからない。それを見た優衣は勝ち誇るようなこともせず、淡々と机に向かう。

 最近の優衣はどこか変な気がする。何を言っても反応が薄く、ぼんやりとどこか遠くを眺めている。そうかと思えば突然何かを書き始める。

 何を書いているのか問いかけても、優衣はただ微笑むだけで教えてくれなかった。

 なんだか、優衣がどこか遠くへ行ってしまうような気がする。

 底知れぬ不安でいっぱいになった私は、ぽつりとつぶやく

「優衣、どこか行っちゃったりしないよね……?」

 鉛筆の音が止まった。私は俯いて、必死に言葉を紡ぐ。恐怖と不安で壊れてしまいそうになりながら、突如として沸いた毒を吐き出す。

「なんだか、最近の優衣、怖いよ……? なにかあったの……?」

 優衣は、何も言わない。私の耳に聞こえるのは、変わらず降り続ける雨の音と、早まりつつある心臓の音だけ。

「優衣がどっかに行っちゃうんじゃないかって、すごく怖くて……」

 ぐちゃぐちゃになった気持ちを立て直そうとしても、暗くて重いものが押しつぶそうとしてくる。次の言葉を声にしようとしても、震えて上手く発せられない吐き出せない。

 涙が溢れそうになったのを無理やり我慢していると、いつの間にか席を立った優衣が、私のほうへと近づいてきた。

「ごめんね、琴葉」

 耳元で囁いて、私のことを抱きしめる。

「私がちゃんと、琴葉のことを見れてなくて、ごめん」

 優衣は優しい声で、私のことを強く抱きしめる。

「琴葉が不安になっちゃったのは、全部私のせいだから。私は琴葉に嫌われても仕方がないと思う」

 『そんなことない。』そう返したいのに、言葉を全然声にすることができない。その代わりなのか、抑えていた涙が溢れ出てきた。

「今ね、琴葉のために曲を作ってたんだ」

 私の涙で制服が濡れてしまっているのも気にすることなく、優衣は話をつづけた。

「いつもみたいな、誰かに届けるための曲じゃなくて、私が琴葉に送る曲」

 顔が熱い。火照っているのを感じる。さっきまで聞こえていた雨音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。

「琴葉のことを考えてると、出会った日のことを思い出してさ。あったかい気持ちになるんだ。琴葉は覚えてる?」

 覚えている。当たり前だ。まだほんの一年前のことを忘れるわけがない。返事の代わりに、優衣を抱きしめ返した。

「私は琴葉のことが好きだよ。それは変わらない。でも、上手に伝えられる自信がないから、音楽にお願いしようと思う。だから、待っていてほしいな」

 優衣が私だけのための曲を作っている。嬉しい感情と不安の涙で混乱してしまった私は、何も返答できなかった。

 あの後どうやって家に帰ったのかも、覚えていない。

ただ言えることは、払拭されたはずの不安が頭のどこかにいるみたいで、気分が悪い。

黎明

「あーつい。どうにかしてよ~、ゆ~い~」

 教室に、私の声がこだまする。声というより呻きといったほうが近いかもしれないけれど、そんなことはどうでもいい。

「そんなこと言ったってしょうがないでしょ。冷房の電源入れたらすぐに涼しくなるわけじゃないんだから」

 教卓に座って、下敷きを団扇みたいに扇ぐ優衣。顔は少し火照っていて、感じている暑さは私と同じなようだ。

 かくいう私も私で、天井に設置された業務用サイズの大きなエアコンの真下に陣取って、熱をもってどうにもならない身体を冷やそうとしていた。

「優衣もこっち来ればいいじゃん。すごい涼しいよ」

 そう言うと優衣は決まって、

「無理無理。身体冷えちゃって、逆に健康に悪いもん」

と、手をひらひら振りながら返してくる。

 今日は午前中で授業が終わりの日。クラスメイトは部活なりバイトなり寄り道なりと思い思いの午後を過ごすため、放課してから早々と撤収してしまった。

 そんな青春を謳歌する人々の流れに乗り切れなかった優衣と私は、教室に取り残されてだらだらと時間を過ごしている。

「そいえばさ、クラスの金子ちゃん。彼氏と別れたみたいだね」

「へー、そうなんだ。可愛いのにもったいない」

「可愛いけど、ちょっと自我が強いかなって思うときあるから、何とも言えないかな」

「あーたしかに。というか、琴葉ってそういうゴシップネタ好きだったっけ」

「ぜーんぜん、興味ないよ。でも、金子ちゃんは私から見てもかわいいなぁって思うし、ちょっと気になっちゃった」

 生産性ゼロの、他愛もない会話のキャッチボール。女子高生らしいと言えばらしいのかもしれないけれど、私たちには似合わない気がする。

「……優衣、私が言うのもなんだけど、似合わないね」

「確かに。私たちみたいなクラスの日陰者には、もっとふさわしい話題があると思うよ」

 優衣の発言には少し棘がある。

 あまりにも暑くて、すぐに喉が渇いてしまう。机の上に置いたペットボトルのお茶は、もう半分しかない。とはいえ、熱中症になってしまっては元も子もないからと、喉を潤そうとまた手を伸ばす。

「琴葉、最近授業に出てないでしょ」

 お茶を流し込んでいる最中に、優衣が突然爆弾を投げてきた。驚いた私は思わず咽てしまう。

「げほっげほっ。ちょ、いきなり何の話?」

「今日、担任の先生から呼び出されたよ。琴葉が全然授業に出席してないから心配だって。どうせ、クラスが離れているから私にバレないと思ってたんでしょ」

 焦っているのが自分でもわかる。優衣が言っていることは概ね事実だ。朝に教室の前で別れてからずっと、屋上や空き教室で時間をつぶしている。

 それにしても、担任は余計なことをしてくれたなと思う。私の事情も何も知らないから直接言わなかったのかもしれないけれど、わざわざ優衣に告げ口するのは卑怯だ。

 なんて返答しようか迷っていると、先に優衣が口を開いた。

「ま、卒業できればいいよ。琴葉にだって事情があると思うし、そこに他人の私が口を出すのは違うからね」

「ゆ、優衣がそういうこと言うなんて珍しいね。ちゃんと授業に出たほうがいいみたいなこと言うのかと思ってた」

 予想外の発言。私が咄嗟に用意した言い訳が、一瞬にして用無しとなってしまった。

「そう? ま、私が触れるようなことじゃないからね」

「……本音は?」

「んー。琴葉が私に相談してくれなかったことに文句を言いたいかな」

 返す言葉がない。最低限、優衣に相談すればよかった。

「ま、そんなこと言ってもしょうがないからね。ほら琴葉、言い訳していいよ」

「……やっぱり優衣、怒ってる?」

「んーん。全然怒ってないよ。ほら、話してみて?」

 優衣の満面の笑み。機嫌の悪さが明らかに出ている。その矛先が授業を飛んだことに対してなのか、相談しなかったことについてなのか、はたまたどちらにも向いているのかはわからないけれど。

「言い訳というか……なんというか……。ちょっと悩み事が、ね」

 当たり障りのない回答。これが一番自然で、これ以上は誰も突っ込んでこないであろう、無難なライン。

「ふーん。琴葉が悩むなんて意外かも。なにかあった?」

 でも、優衣はたやすく超えてくる。たった三か月の間柄でも、まるで親友みたいになってしまったから。

「別に、なにかあったとかじゃ、ないけど……」

「全然、私にはそう見えない。琴葉と出会ってからそんなに経ってないけど、私は琴葉のことを知っているつもりだよ」

 なんだか、少し腹が立ってきた。たかだか短い時間で私を理解したつもりになっている、優衣の姿勢に。

 でも、それを言ってしまえば、この関係はおしまい。そんなのは私も望んでいない。

 沈黙。気まずい空気が、教室に立ち込める。お互い何も言わず、動きも止めて、まるで時が停止したみたいに。

 黒板上に置かれた時計。その秒針が何百回も動いたころだった。黙り続ける私を見かねたのだろうか。優衣が先に動いた。

「…なーんか空気が重くなっちゃったし、帰ろっか」

 軽く言って教卓から降り、カバンを手に取る。ただ普通の、自然な行動。そんなのはこの三か月で見慣れていたのに、今の私には直視できるものではなかった。

「ほら、琴葉も帰るでしょ?」

 その声になんて返したのか。そんなことはもう、覚えていない。

 『なんて説明すればいい?』の自問自答を繰り返し、どれくらい経っただろう。わからない。これ以上は優衣に心配をかけたくなくて、でもこれ以上は自分の心が耐えられそうになくて、八方塞がり。

 抱えているのは恋の悩み。高校生ならよくある話で、大したことのようには見えないのかもしれない。世間一般の価値基準ではそうだろう。

 それは、私が好きなのが同性の人だから。目の前に立っているあなただから。

 出会ったのは春。それから三か月の間に、頭の中は優衣で満たされてしまった。透明な声の響きも、飾らない性格も、音楽に対する真摯な姿勢も。そのすべてが愛おしくて、たまらない。

それが普通じゃないこと。常識から外れたこと。そんなのはわかりきっている。私の感情と、社会の普通。ぶつかり合ってどうにもならない。

 クラスメイトから投げられた『最近、誰かに恋でもした?』という言葉が、私の心の奥深くに刺さっている。誰かにバレてはいけない。この感情は隠さなければいけない。少なくとも、優衣だけには絶対に。そうしなければ、友達としての関係ですら消えてしまう。

 だから私は、教室に行くのをやめた。この気持ち、感情に整理をつけなければ、また誰かに指摘されてしまうかもしれないから。その準部が整うまでは、できる限り誰とも会わないようにしよう。そう決めていたのに。

 いっそのこと、この気持ちを彼女にぶつけてしまうのはどうだろう。友達なんだから受け入れてくれる。そんな保障、どこにもないのに?

 終着点はまだ見えない。自問自答の果て、正解はどこにあるのだろう。もしないのなら、ここで覚悟を決めてしまうしかないんじゃないか。

 友達という関係を失いたくはない。けれど、これ以上自分に嘘をつき続けたくはない。答えの出ない問いかけが、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざっている。

**

帰り道。私の一歩先を歩く彼女の背中に向けて、私は振り絞った声で精いっぱい、投げかけた。

「ねえ。このあと、あいてる……?」

 どうせいつかは向かい合わなければいけないもの。早いか遅いかの違いでしかない。だからせめて、自分が一番傷つかない方法で。

 私の問いかけに振り返った優衣は、少しだけ驚いた顔をして、ただ一言「わかった。」と返してくれた。

行き先は聞かれなかった。なのに、私が行こうと思っていた場所と同じみたいで。驚いた顔をしていたあたり、もしかしたら同じことを考えていたのかもしれない。

何はともあれ、退路は断たれた。行き当たりばったりなのは前提で、それでも私自身を殺さない最善策。

 いつの間にかもう、目的地が目と鼻の先に迫っている。

 私の部屋を一言で言うなら、『殺風景』が最も適切なんだろう。

 真っ白の壁と天井。机も椅子もベッドも、どこのホームセンターでも売っているようなシンプルなもの。客観的に自分の部屋を見ることなんて、生きてきた十五年間で一度もなかった。これも優衣と出会った変化なんだろうか。

 二人でフローリングに座り、ベッドフレームを背もたれにする。冷房機から途切れることなく届けられる冷たい風が気持ちいい。

仲良くなってから何度も何度も家に呼んでは、適当におしゃべりしているけれど、なんだか今日はぎこちない。

 なんて切り出そうか考えていたはずなのに、完全に忘れてしまった。静まり返った自分の部屋が、監獄のように感じる。

 優衣は私の左隣で、足を伸ばしていた。でも、決して寛いでいるわけじゃない。私が話すのを待っているのだ。

「あ、えっと……その……」

 肝心な時こそ上手くいかない。漫画や小説みたいな奇麗な言葉が、何にも出てこない。空想と現実のギャップは想像よりも大きくて、その事実がさらに私の自信を削っていく。

 しどろもどろになるのが気まずくて、壁を見つめる。これが逃げだというのは頭では理解しているつもりなのに、どうにも直視することができない。

 突然、私の視界が左に倒れた。頬に柔らかいぬくもりを感じる。

「……? ……⁉」

慣れない感触。事実を事実として認識できていない。

「膝枕するの、琴葉が初めてなんだ。枕を提供する側っていうのも、結構面白いね。」

 処理落ちしている私に気づいているのかいないのか、はたまた見て見ぬふりをしているのか。優衣はこれが自然だとでも言わんばかりに、さらに言葉を続ける。

「……最近、琴葉に元気がないなって。なんだか思い詰めてるみたいな感じがしてて、ゆっくり話がしたかったんだ。」

 優衣の手が、私の髪に触れた。冷たくて温かい、不思議な感覚。

「無理に話してほしいわけじゃない。でも、話してもらえなかったことが理由で、琴葉の隣を離れるつもりもないから。」

 優しく撫でられ、居心地がいい。さっきまでの戸惑いはどこかに消えてしまった。

 優衣の声は普段と変わらず柔らかい。でもその裏には、『何があっても離れない』という固い意志があるみたいだった。

***

 逡巡。気づけば空は赤くなっていた。

 私は仰向けになって、優衣の顔を見上げる。

「優衣、あのね」

 髪を撫でる手が、止まった。

「私、優衣のことが好きだよ」

 声が、木霊する。

「優衣のことが好き。誰よりも」

 自然と滑らかに次々と、音となって溢れていく。

「優衣に出会ってからずっと、私は優衣のことが好きだった……。でも、この感情を優衣が受けいれてくれるのか、自信がなくて……」

 感情が昂っているのがわかる。抑えていた気持ちが濁流となって、歯止めが効かない。

「私は、優衣の隣にいたい。隣を歩いていたい。だから…」

 気持ちが涙に変わり、目元から零れ落ちそうになって。言葉がうまく言葉にならないもどかしい。ただ『好き』と伝えるだけなのに、どうして上手にできないんだろう。ぐしゃぐしゃになった顔を見られたくなくて、顔を腕で覆い隠そうとした。

 しかし、優衣はそれを拒むみたいに、私の腕を優しく取って握り締めた。ほんの少し、暖かい気がする。

「琴葉。ありがとう」

 優衣の声。戸惑いも躊躇いもない、澄んだ声。

「私ね、嬉しいんだ。今まで誰にも『好き』だって言ってもらったことがなくて。だから、どう返したらいいかもわからないけど……。」

 一呼吸を置いて、さらに続ける。

「琴葉、覚えてる? 私の作った曲を、すごい褒めてくれて。それが本当にうれしかった」

 たった三か月が遠い昔のように思える。濃密なんて表現が陳腐に感じるくらい、優衣との時間は大切だった。それはもちろん、今も変わらない。

「琴葉、私も好きだよ。私も琴葉の隣、ずっと居たい」

 優しく告げられた告白。それは涙交じりのものだった。

****

 私は多分、夢を見ていたんだろう。

 長い、永い夢だった。

 楽しくて、懐かしい感覚。それは現実と見間違うくらいに、幸せを具現化したものだった。

 でも、少し変にも思う。夢は、脳が記憶を整理する過程で見るもの。どこかでそう聞いたことがある。それが本当ならば、私が見たものはもっとぐちゃぐちゃになっていなければいけないのだ。夢はどこかで整合性が取れなくなってくる。何の脈絡もなく別の記憶が差し込まれて混ざりあい、混沌としているはずなのだ。

 何者にも邪魔されない、二人だけの世界。それは確実に存在している。現実に酷似していた夢の景色が証明しているのだから。

 ある日、飛び起きた深夜。気分が悪い。

 頭が痛い。突き刺すような痛みがする。全身の震えが止まらない。

 喉奥から這い上がってきた不快なナニカで、今にも吐きそうになった。ベッドサイドに置かれたタンブラーに手を伸ばす。飲み干そうとしたけれど、上手く喉を通らない。もどかしい。

 どうにか全部飲みきって、タンブラーを元に戻す。不快感は和らいだが、指先の震えは未だ治まらない。

 次に襲い掛かってきたのは、猛烈な孤独感。寂しいなんて言葉が軽く思えるほど、一人でいることに対する異常なまでの不安感。だんだんと上手く息が吸えなくなって、目がチカチカしてきた。

 聞こえるのは私の荒くなった息遣いと、暴れ狂う鼓動。明らかに普通じゃなくて、余計に焦りが出る。

 耐えられなくなって、ベッドの隅に追いやられていたサメのぬいぐるみを引き寄せる。少し手を伸ばして、胸元まで持ってくる。たったそれだけの行為で、息切れと疲労が凄まじい。

 抱きかかえ、顔をうずめる。このままだと本当におかしくなってしまいそうで、崩れてしまった平常心はなかなか戻りそうにない。ぬいぐるみなんて、気休めもいいところだろう。

 それでも少しは好転するんじゃないかと期待して、さらに力を込める。ぬいぐるみからほんの少し、優しく柔らかい匂いがした。

 どれくらいの時間が過ぎたのか。そもそも何時に目が覚めたのか。私にはわからない。ほんの一瞬の出来事にも、数時間が流れていたようにも思えて、不思議な感覚だった。

 いつの間にか、周りの音が聞こえるようになっていた。少しずつ平常心を取り戻せているということなんだろう。

 部屋の壁の向こうから、激しい雨音が聴こえる。今夜は豪雨だと、ニュースか何かで見たような気がしなくもない。

 ようやく落ち着いた身体に、どっと疲れが押し寄せてきた。そのくせ目はすっかり覚めていて、何もできない虚無の時間が図らずとも訪れる。

 何もする気が起きなくて、仕方がないから目を瞑った。でも、それは間違い。視界を塞いだことで鋭くなった聴覚は、絶え間なく降り続ける雨の音をさらに増幅させた。耐えられないほどじゃないけれど、あまり好ましくない感覚が嫌になる。

 ふと見たスマホの待ち受けには、もうすぐ四時の表示。起床時間まであと三時間もあるのだから、二度寝しても差し支えないだろう。

 さっき見た夢は気のせいだ。現にもう、私の記憶からは薄れ始めている。

そう。

今の私は変わらず幸せで、何も問題はない。決して、あるわけがないから。

薄明 —— 某月某日、空は秋晴れ。

 ピピピッと、電子音が鳴り響いた。

 眠気にあらがえない私は、聞こえないふりを決め込む。ただでさえ、深夜に目が覚めているのだ。もう一度寝てもバチあたりになることはないだろう。でも、次第に大きくなっていく音が耳障りに感じてきて、枕元の時計を思いきり叩いた。

 静寂。カーテンの端から漏れ出す陽の光が、新しい朝の訪れを伝える。物語の主人公みたいにキラキラした人種には、とても清々しい気分になるのかもしれないが、あいにく今日の私はそういった感性を持ち合わせていない。

 布団の中で無為な時間を過ごす。太陽が少しずつ昇っていくにつれ、迫ってくる時間に焦りが出る。それでも布団の中でぬくぬくと留まっているのは、数時間前の気分の悪さが今も少しだけ残っているためだった。

 空腹感。口の中が苦々しい。けれど、食欲も湧いてこない。今食べても味を感じられるかどうか、そもそも身体が受け付けてくれるかどうか心配になる。

 とはいえ、そろそろ起きなければ間に合わない。名残惜しい気持ちが勿論あるけれど、遅刻はそれ以上に面倒くさい。

 体を起こす。目を開ける。伸ばしていた髪はいつの間にか肩を超えていて、背中を半分ほど隠していた。そのせいか、かなり重い。

 胸元まで被っていた掛布団を、思い切り足元へどかした。寝起きの時間に合わせて動き出した冷房のせいか、夏だというのに肌寒い。

 なんだか布団が恋しくなって、代わりのぬいぐるみを手に取った。動く時見たのに気分がころころ変わって鬱陶しい。というか、ついさっきまで抱きしめていたというのにまだ足りないかと、欲の強い私が嫌になる。

 フローリングに足を下ろす。足裏から冷えた熱が這い上がってきた。まだベッドの上にいたい欲を振り切って、さらにもう一歩。左側に残されたぬくもりに飛び込んでしまいたいほど体が重たいが、それをしてしまえば今日一日が無駄になってしまうだろう。

 深呼吸。心の中で五秒数える。意を決し、私は立ち上がった。眩暈でも起こすかなと思っていたけれど、案外私の身体は丈夫みたいだ。とはいえ、全く問題がないということもない。頭も少し痛いし、手足のだるさは見逃せるほど軽くはないのだ。

 無理をしないと心に決めて、部屋を出る。扉を開けて廊下に出て、すぐ隣の洗面台で口を濯ぐ。起きて早々に味わう苦々しさが不愉快でたまらない。朝ごはんも食べないと決めたこともあり、歯磨きまで敢行することにした。

 三分くらいで終わらせて部屋に戻った私は、電気をつけてクローゼットを開けた。身長低めな私に合わせた高さの突っ張り棒に引っ掛けたブラウスとスカートを手に取って、手早く着替える。

 中学校への入学祝でもらった姿見は、もう五年半も一緒に朝を迎えている。木製のフレームは年を重ねるごとに日焼けして、変色していた。見た目が変わってもまだまだ現役。鏡の前に立った私は、制服に不備がないかを確認した。

 部屋にただ一つしかない窓。遮光カーテンを開けようかと思ったけれど、今日はできるだけ光を浴びたくはないほうが強くて、そのままに。

 時刻は七時半。そろそろリビングで待っていようと、床に放置されたリュックを背負う。クーラーと電気を消し、私は部屋を後にした。

 階段を下りてリビングに入ると、ソファに横になる。両親はもう仕事に出かけていて、家には私一人だけ。

 特段やることもない私は、天井を見上げてぼーっとする。換気目的でつけっぱなしの扇風機が首を振り、定期的に私の脚へ風を届けてくれていた。

 ゆっくりと眠れなかったせいだろう。とても眠い。このままだと本当に寝てしまいそうだ。

「早く優衣が来てくれたらいいのに……」

 だれに伝えるでもない、ふわふわとした願い。もちろん誰もいないのだから、返ってくるはずもない。どうやら私は思ったよりも疲れているのかもしれない。

 うとうとしていると、ピンポン。ベルが鳴った。

 眠たい目を擦りながら、のそのそと起き上がって玄関に行く。正直面倒くさいが、私しかいないのだから仕方ない。

「はーい。どなたですか……って」

 扉の前に立っていたのは、私の待ち望んでいた人。私が心の底から愛している人だった。

「あー、えーっと、おはよう。琴葉」

 大急ぎでリビングに戻り、鞄を持って外へ出た。

「もっと早く来てよ! 遅れちゃいそうじゃん!」

「そ、そんなこと私に言わないでくれない⁉」

 二人で学校に向けて走る。間に合わないことはないけれど、普段は余裕をもって登校していたせいで、自然と焦りが出てしまう。

 元を辿れば、普段早く家に迎えに来てくれる優衣を当てにしていた私も悪いのだが、今それを冷静に考えることはできない。半ば八つ当たりみたく、優衣に文句を言ってしまう。

 優衣はそんなの気にしていないかのように、私の一歩先、二歩先を早足で進む。私よりも身長が高いのだから当然だけれど、埋められない歩幅が遠い。

「ゆい、ちょっと走るの、はやい!」

 聞こえているのか聞こえていないのかわからない。けれど、もしかしたら優衣も焦っているのかもしれないから、返事がないことくらいで不機嫌になるのはよくないと、私は勝手に納得した。

 空はどこまでも青い。もし羽があったなら私はどこまで飛べるのだろう。もし空を飛ぶことができるなら、優衣と一緒にいろいろなところを見て回りたい。

 夏も終わり、季節は秋。まだまだ暑いけれど、私の胸の中にはたくさんの期待で溢れている。いつの間にか、悪夢のことなんてきれいさっぱり、私の頭の中から消え去っていた。

薄明 —— いつだって此処は、私たちの居場所だった。

 学校に着くなり、優衣と私は早々に別れてしまった。

 ホームルームまでにはまだもう少し時間がある。机でゆっくりするのもいいけれど、なんだか教室に入る気になれない。

「……しょうがないよね。うん。しょうがない」

 つぶやいて、言い聞かせる。そうすれば大抵のことは忘れられるし、心に落ちた暗いものも瞬く間に軽くなっていく。それがいつ身に着いたのか、覚えていないけれど。

 廊下の端。階段へと向かう。教室とは反対方向だからか、近づくにつれて人の数は減っていく。進んでいくにつれ、なんだか日常から離れていくような感覚が私の心に浸食していく。

 重い。息苦しい。一刻も離れたい。ここに居てはいけない。生存本能とも呼ぶべき声が、頭の中で叫んでいる。

 階段を一段上っていくたびに、その声は大きくなっていく。それがなんだか嫌になって、踏み出すペースはどんどん速さを増していった。

 空を見上げる。その行為に、私は特別な価値があると思っている。時がたつにつれ、鮮やかな街並みが灰色一面に変わっていく。見慣れた景色は徐々に姿を消していき、いつしか同じ街とはいえなくなってしまうだろう。

 でも、空は違う。何年も何十年も何百年も何千年も前から、この空は変わらない。青々とした世界は広大で、私という存在がいかに無力で矮小な存在なのかを見せつけてくる。

 そんな現実を突き付けてくると同時に、空想の機会を与えてもくれる。『空を想う』ということは、普段生きていくうえではあまり重視されていない。それどころか、現実を直視しろと諭されてしまうこともある。しかし、私にとって『空を想う』ことは、私という存在を新たに見つめなおすことのできる瞬間でもあり、心を休めることのできる数少ない時間でもあるのだ

 穏やかな秋風が、私の髪を撫でていく。

屋上に来てから、どれくらいの時間が経っただろう。晴々とした空の下では、時間の進みが歪んでいる気がする。早くも遅くもどちらでもない、そもそもそういった時間の流れという概念自体が限りなく排除された空間でもある。背中に伝わる鉄柵の低温だけが唯一、私を現世につなぎとめる命綱だった。

猛暑と呼ぶべき夏は終わり、冬へと移行する準備が始まっている。まだまだ残る日中の熱と、日没と同時に訪れる冷気。今は釣り合っていても徐々に天秤は傾いて、そこかしこからありとあらゆる夏の痕跡を消し去ってしまうのだろう。それが自然の摂理であったとしても、なんだか恐ろしく思えてくる。

空を見上げ、目を瞑る。記憶の底には今でも夏が刻んだ爪痕が残っていて、私の拠所になっている。

 仮に冬が訪れて、世界からすべての夏が消えてしまったとしても、少なくとも私だけは覚えていたい。

 屋上、二人で過ごしたあの時間。その一瞬一瞬は、私の体に心に魂に、刻まれているのだから。

**

 無心で空を見上げていると、私の頬に冷たい何かが触れた。

「お・は・よ」

「ひゃあ冷たっ!」

 冷たさを感じた方向に視線を移すと、優衣が隣に座っていた。その顔はいたずらを仕掛けた小学生みたいな笑顔をしている。

「あはは、ごめんごめん。びっくりした?」

「もちろん! 私がぼーっとしてるときにそうやって……」

「まあまあ。そのお詫びみたいな感じで、はいこれ」

 優衣は少しも反省してないような風に、ポケットから缶コーヒーを渡してきた。こんなので機嫌が取れる安い彼女じゃないという姿勢を見せたいけれど、欲には勝てない。

「ん、ありがと」

 プルタブを開けて、一口。かすかな苦みが口の中に広がった。

「で、琴葉は何でこんなとこにいるのかな?」

「あー、えーっと、その……」

 今聞かれたくないことナンバーワンの質問が飛んできた。正直、確固たる理由があるわけでもない。なんて答えるか、言い訳するか。動揺で目が泳いでいるのが、自分でもわかる。

 優衣はそんな私のことをじっと見て、まあいっかと缶コーヒーに口をつける。

「別にサボったらダメとかなんて言わないけどさ。留年だけはしないでよね」

 なんだか夢かどこかで見たことのあるような会話に、デジャブを覚えてしまう。やはり、『私の中での優衣』と『現実の優衣』に差異はないみたいで、少し安心した。

「ふーん。優衣がそんなこと言うなんて、珍しいね。意外かも」

 優衣は私の発言に少し驚いたような表情をしている。いつでも優衣は私のこと総てを見透かしているみたいだったから、余計に意外で面白い。

「そんなに不貞腐れないでよ~。優衣は真面目だし、私が授業に出なかったら怒ると思っただけだから。」

「別に、私はそんなことで怒ったりしないよ。誰にだって気分が乗らないことはあるだろうし」

 そう言って、優衣は空を見上げた。

 互いに一言もしゃべらない、ちょっとした静かな時間。空気は澄んでいて、瑞々しさまで感じてくる。

空を切り裂く飛行機の音。近くを通りすぎていく車のエンジン音。校庭から聞こえてくる掛け声。

屋上を支配する沈黙。静寂。この場所を邪魔する物は者は、何一つ存在しない。世界は私たち二人を中心にして回っているとまで錯覚してしまうくらいに純粋で透き通っている。

 空っぽになった頭の中に浮かんできた、一つの疑問。

この空この場所この空間。いったい優衣は、空を見てどんなことを考えているんだろう。

追憶 —— あれは、春の陽が差す屋上のこと

⼊学式は正直、退屈だった。世間⼀般での評価としては、⼊学式とは素晴らしくめでたいもので、盛⼤に祝われるべきことらしい。現に、両親だけでなく親戚までもが私の⾼校進学に喜び、鞄だったり服だったり現⾦だったりと、さまざまな贈り物をしてくれた。

けれども、当の本⼈たる私⾃⾝は、家から近いからなんていう、なんとも⾃堕落で⾯⽩みもない理由で⾼校を決めてしまったために、この祝い事を他⼈事のように感じてしまっているのだ。

整然と並べられたパイプ椅⼦に座って、誰だかよくわからない⼤⼈たちの話を聞く。周りを不⾃然にならない程度に⾒渡してみると、近くの⼈と⽬配せしてみたり、スマホをこっそりいじってみたり、私と同じように周りを⾒渡してみたり……。⾼校⼀年⽣とはいえ、まだまだ⼗五歳。⻑話を苦痛に感じることは⾃明の理だった。

ちらほらと、中学時代に⾒たことのあるような顔がいた。とは⾔っても、みたことのある程度で名前はおろかクラスも部活も何も知らない。しかしそれは私だけの可能性もあるから、もし話しかけられたら⾯倒だな、なんて⼼の⽚隅に芽⽣えていた。

その時、誰かと⼀瞬だけ⽬が合った気がした。遠⽬で顔はよく⾒えなかったけれど、その⼈は確実に私の視界に⼊っていた。漆⿊という⾊が最も似合うであろう、美しい髪。芸術品のように整った顔⽴ち。そして、吸い込まれそうになるほど綺麗な瞳。私の持つ⾔葉では表現しきれない。そんな姿が、私の脳裏に焼きつく。

初めての感覚は、式典が終わり教室に戻った後も続いていた。担任を名乗る教師の⾃⼰紹介とこれからの抱負を語り、配布物を渡していたけれど、そんなことはどうでもよかった。

今の私を⾔うなれば、⼀⽬惚れという状態に近いのだろう。⼀瞬⽬が合ったという、初対⾯以下のはずの⼈に対して、並々ならぬ感情を抱いてしまっていた。そんなことは空想上の話だと思っていたけれど、案外現実も捨てたものじゃないと思う。

 それから⼀週間も経った頃にはようやく授業が始まって、⾼校⽣というながそうで短い三年間が動き出す。とはいいつつ、やっていることは中学校の延⻑線でしかない。確かに勉強の難易度は上がっていたけれど、まだまだ困るような内容でもなかった。

早急に解決しなきゃいけえないのは、誰とこれから友⼈関係を築いていくのかだった。⼀週間もあれば、ある程度クラス内でのグループ分けが進んでいる。これからクラスの中⼼に⽴ちそうな陽キャグループ、サブカルチャー趣味で固まっているのだろう集団、そしてそのどちらにもまだ属していない中間層。

互いに棲み分けができている現状が続けば、⼤した問題も怒らずに平穏な⽣活ができるかもしれない。まだまだ中間層が多数派閥の今、なるべく早く属する集団を決めてしまいたいのだ。

そんなことを考えながら、屋上で昼⾷を摂る。春の陽気に照らされた空の下で、⼀⼈黙々と息をする。それがたまらなく⼼地いい。

元々、私は⼈⾒知りなのだ。初めて話すような⼈と、何を話題にすればいいのかがわからない。勇気を出して取り上げた話題で、相⼿が微妙な表情になってしまったらどうしよう。考えれば考えるほど、よくない妄想で頭が⼀杯になってしまう。それが怖くて、⼊学してから未だに誰とも話したことがなかった。

「はあ……」

思わずため息が零れてしまう。話のネタになればいいなと、中学の⼊学祝いに買ってもらった愛⽤のエレキギターを持ち歩いてみても、その収穫は⾔わずもがな。軽⾳部に乗り込んでみようかなと思っても、その明るい空気に圧倒されて諦めてしまった。

⼀歩を踏み出しきれず、待ちに徹してしまう。そんな⾃分を変えるというのが私の⽬標だったのに、そう簡単に⼈の本質は変わらないことを実感していた。

購買で買ったパンを⾷べ終えた私は、せっかくだからとギターを取り出す。⻘春ドラマにありがちな、屋上でギターを弾くシーン。そんなベタな展開に憧れていた時期もあったなと振り返ってみる、

記憶に残ったメロディーを拾い上げ、無作為に形にする。もちろんアンプはないけれど、屋上という⼩さなステージに響く程度の⾳は出る。私⼀⼈で楽しむならそれで⼗分だった。

**

順⾵満帆とは⾔えない⾼校⽣活に慣れてきた、四⽉の三週⽬。

四限終わりのチャイムと同時に、私はギターケースを抱えて教室から出る。廊下を⾛らない程度に急いで抜けて、屋上を⽬指した。

たった⼀週間なのに、私の⾼校⽣活の⽇常になっていた。屋上は決して広くはない。だからこそ、誰かが集団で来ることもない。邪魔される可能性が⼀番低く、私の⼼の拠り所の第⼀候補だった。

重厚な扉を開けると、綺麗な⻘空が出迎えてくれる。生温かい⾵が吹いてきて、私の体を温めてくれた。

安全柵に寄りかかり、ギターを弾く。漆⿊のボディは空の⾊とミスマッチかもしれないけれど、逆に空から⾒たら私が⼀番⽬⽴っていることになるんじゃないかと思う。⾳を奏でることで得られる快感に溺れるため、さらに⾳を鋭くしていけば、私の存在が確固たるものになった気がした。

「ねえ、あなたは、その、ギター弾けるの……?」

突然聞こえた声に驚いた私はその⼿を⽌め、声の主を探した。とはいっても、たいして広くもなく真っ平らな灰⾊の世界には、隠れられる場所なんてない。

「あ、えと、ごめんなさい。屋上にきてみたら、綺麗な⾳がしたから……」

校内へと通じる唯⼀の扉、その前に彼⼥は⽴っていた。

私との距離は四メートルも離れていない。それでもはっきりとわかる⼩柄さ。やわらかい⾵に揺れる、肩まで伸びた美しい⿊髪。そして、なんでも⾒透かしてきそうな澄んだ瞳。 どこかでみたことのある顔、特徴。頭の中で瞬くように流れてきた記憶。それはまさしく、新たな⽣活の始まりを彩ってくれた⼈だった。

「あ、えと、隣に座ってもいい、ですか……? 」

「え、あ、はい。⼤丈夫ですよ」

平常⼼を保とうと、私は躍起になっていた。思いがけない⼀⽅的な再会だったからこそ、慎重に⾔葉を選ぶ。その不⾃然さが彼⼥に伝わっていなければ、とりあえず及第点だ。

しかし、当の彼⼥は私なんかに⽬もくれず、お弁当を⾷べ始めた。⼿持ち無沙汰になってしまった私はどうしようかと考えた結果、何事もなかったかのように装ってギター演奏を再開することにした。

⼀曲を通しで弾くことはせず、様々な曲のサビなどに絞る。メロディーの雰囲気だけは統⼀しようと決めていたが、集中していればいるほどジャンルの広がりに際限がなくなっていった。

ひとしきり弾いて喉の渇きを潤す。ペットボトルのお茶を半分ほど⼀気に流し込んで、⼤きく息を吐いた私は、隣の少⼥が何かを書いているのが⽬に⼊った。

彼⼥に興味以上の感情を抱いていた私は、刺激しないように細⼼の注意を払いながら話しかけることにした。

「ううん。あやめ……私の妹が音楽を作っていて、それの影響で書いてみてるだけで……音楽にするなんてそんなものじゃないんです……」

私の視線がノートに向いているのに気付いたのだろう。⾒ますか、と彼⼥はノートを渡してくれた。私は黙々と、そこに刻まれた⾔葉たちを読み込んだ。

「その、私がその詩に、音を付けてもいいですか……? 」

思わず私は、変な質問をしてしまった。⽬の前で不思議な顔をする彼⼥に向けて、さらに⾔葉を続ける。

「あなたの詩に、私はその……感動して……。だから、あなたの詩を実際の音に乗せてみたいって、そう思ってしまって……」

我ながら、すごいことを⾔ってしまった気がする。今の発⾔は完全に不審者そのものだった。嫌われても⽂句は⾔えないだろう。

「その、気持ちは嬉しいんですけど、今日はもうあんまり時間がなくて……」

ああ終わったなと、私は⼀瞬前の⾃分を恨みそうになる。そこに予想外の⾔葉が続いていた。

「だから、また明⽇ここで、会ってくれませんか……? 」

そう話す彼⼥は、頬が少し⾚く染まっていた。そして、私の返事を待つまでもなく、屋上から去っていってしまった。

予鈴がなり、呆然としている暇なんてないことに気づく。⼤急ぎでギターをケースに片付けながら、名前も聞くことができなかったと後悔した。

「ま、明⽇ここにきて聞けばいい、かな」

独り⾔を呟いて、ケースの蓋を閉めた。

薄明Ⅲ 変わらないものなんて存在しない。

 目を開ける。風の心地よさに、いつの間にか眠っていたみたいだ。

どこか懐かしい春の香りが、胸の奥にほんのりと残っている。

ポケットのスマホを見ると、午後の授業も終わる頃。一日分の授業を丸ごと休む羽目になるとは、完全に想定外。学校には来ているのに欠席扱いになるこの状況は、一周回って笑いが込み上げてくる。

隣にいたはずの優衣の姿はどこにもない。大方、寝ている私を起こすのが申し訳なくてそのまま授業にでも出たのだろう。優衣はたまに、気を使っているのか使っていないのか分からないことを平気でする。

いつからこんなに堕落してしまったのだろう。中学生の頃はもう少しまじめに授業を受けていたり、クラスの友達と楽しく話していたはずなのに。どれもこれも優衣と出会ってから、私の生活が変わっていったように思う。

今の状況が幸せかどうかを定義づける必要はあんまりない。今が幸せかどうかなんて、疑う余地もないのだ。

私には優衣がいて、優衣には私がいる。それで何の問題があるというのだろう。私の人生にはもう優衣が必要不可欠で、優衣が隣にいない未来なんか考えられるわけがない。

今日はなんだか、とても気分がいい。学校という鬱屈とした場所に閉じこもっているなんて、時間を無駄にしているとしか思えない。

そうだ! まだ空は明るいのだから、気分転換をしに行こう。優衣と一緒に行った場所を巡れば、残っているモヤモヤも消えるかもしれない。今の時間なら、水族館くらいには間に合うだろう。

早速、私は荷物を抱える。優衣も誘おうか迷ったけれど、今日の優衣は何だか忙しそうで、無理に私の御機嫌取りにつき合わせてしまうのも、なんだか申し訳ない気もする。

 一言、「出かけてくるね」とメッセージだけ送り、私は屋内に戻る。もうすぐ一日が終わってしまうけれど、なんだか良い日になりそうだ。

 校門を抜けると、一気に開放感が訪れる。屋上はそんなにでもないのかと言われればそんなことはないと言える自信がある。しかし、屋上はあくまでも学校。一応は立入禁止なのだから、見つかってしまうかもしれないドキドキ感と切っても切れない関係にある。空から遠くなってしまったけれど、本質そのものが変わったわけではない。

制服を着た人たちを避けながら、駅へと続く大通りを歩いていく。

人混みは得意じゃない。人が酸くなるまで優衣とお喋りするくらいには嫌いだ。でも、なんだか今日は足が軽い気がする。水族館に一人で行くというだけなのに、なんだか浮かれた気分になっている。

 よく使う地下鉄。けれども今日は上らずに下る。行き先が違うホームに立つのはとても新鮮で、これから小さな旅が始まるような気になれる。

閉館時間を考えるとどうにか間に合いそうではあるけれど、寝不足なことを踏まえると、一抹の不安が拭えない。気にしたところで仕方ないのだから、そうならないよう強く念じておくことにした。

ホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ私は、空席の一つに腰掛ける。到着まで十分。この間に寝てしまうようなことさえなければ大丈夫。

急ぎ足で歩いたからか、暑さも相まって疲れてしまった。なんだか瞼がとても重たい。でも、今ここでうたた寝してしまうほどの時間的余裕はない。

(ほんのすこしだけ……いいよね……)

 天使と悪魔がせめぎあった結果、ほんの少しだけ眠ることにした。

追憶 —— あれは、雪の降りしきる街のこと。

 夕方。澄んだ空気が街に立ち込め、息を吸えば胸の奥まで酸素が行き渡る感覚。頭がなんだか冴えてきたような気がする。

 住宅街。車一台分の幅しかない道を歩くのは、私一人だけだった。時間がそれほど遅いわけではないけれど、小中学生が今から遊ぶには少々憚られる時間帯であることを考えれば、ごく自然な気がする。

 考えてみれば、私の住んでいる街はかなり良いんじゃないだろうか。都会、なんて称号を貰えるくらい⼤層な街ではないが、県庁所在地のある本物の都会にも近いという、悪いと⾔えるほどではない程度の⽴地。最寄りのコンビニも徒歩五分圏内で、最寄りの駅へと向かうことのできるバスが、そこそこの頻度で運⾏されている。⼩中学校も住宅街からかなり近く、登下校に無駄な時間を割かなくていい。

強いて難点を挙げるとすれば、最寄駅という割には徒歩で⼀時間を要求してくることくらいだろう。バスに乗り遅れてしまえば、たどる末路は想像するまでもない。

カーディガンのポケットに入れておいたイヤホンを耳に当てる。冷えた空気でひんやりとしたクッションが、少しだけ心地いい。

 冷たい風を肩で切りながら、私は軽い足取りで駅へと向かった。

 駅前の大きな樅木の下で、身体を震わせる。

 この日のために用意した厚⼿のコートも、新調したマフラーも、あまり意味をなしているようには思えない。ただひたすらに冷たいだけの夜⾵が私を襲った。

 スマホを触って時間でも潰そうかと考えたが、それはあんまり実現できそうにない。ポケットに忍ばせたカイロがなければ、⼿が悴んでまともに操作もできやしない。

ショッピングモールに逃げ込んで⾵を避けるという案もあるけれど、ものすごい人混みが形成されている。そんなところに無闇に⾜を踏み⼊れてしまえば、待ち合わせ場所の近くにいるのに遅れてくるとかいう間抜けな状況になるかもしれない。優衣なら笑って許してくれそうだけれど、流石に格好がつかなすぎる。

 今日は十二月二十五日。今までの私にとってはただの恒例行事でしかなかったけれど、今年は違う。一か月以上も前から計画して準備して、待ち侘びていた。そんな日に遅刻なんてしようものなら、恥ずかしさで逃げ出してもおかしくない。

 周りをみると、私と同じように誰かと待ち合わせをしているような雰囲気を纏った⼈が数多くいた。年に⼀度きりの聖夜に合わせ、試⾏錯誤を重ねたのだろう。装飾品の⼀つをとっても、⻑く迷っていたに違いない。

 周りに比べて浮いていないだろうか。お互いの気合いの入れ様に差があって、微妙な雰囲気になったらどうしよう。その結果、後日に別れ話を切り出されてしまったら、この先立ち直れる自信がない。

「ごめんごめん、遅くなって」

地下鉄へと続く階段から、待ち望んでいた⼈物が現れた。⾊違いのコートとロングスカートに⾝を包んだ彼⼥が、⼩⾛りで向かってくる。その姿はまるで小動物さながらで、正直とてもかわいい。私は彼女を向かい入れるため、ポケットから⼿を出して⼩さく前で広げた。

 電飾で暗闇が彩られた街の中を、⼿を繋いで歩いていく。

「琴葉ってさ、積極的なところあるよね……。さっきもほら、みんな⾒てるところで抱きしめてくれてたし」

「嫌だった?」

「ううん、嬉しいけどさ。ちょっと恥ずかしいというか、なんというか……。」

冷たい外気のもとで⽩くなっていた彼⼥の肌が、少しずつ紅潮していくのが⼿に取るようにわかる。普段は先⼿を取っているせいなのか、後⼿に回った時の反応が⾯⽩い。

「ふーん。じゃあ、もうしない」

「え、ちょっと、そこまで⾔ってないじゃん!」

優衣が望むことはしてあげたいし、嫌がることはしたくない。それが偽りなき本⼼ではある。

しかし、回数を重ねていくにつれて抱きしめられることに対して抵抗がなくなっているようにも感じている。好きなことを好きだと素直に⾔えないところが、どうしようもなく愛おしい。

サンタクロースのコスプレをした集団が、ちらほらと道の端にいる。近くの居酒屋やカラオケなどからすれば、今夜は稼ぎ時なのだろう。クーポンを配ってみたり、⼀⽣懸命お店のアピールをしてみたり。多種多様な⽅法で、いかに加⼊客を増やそうとか画策しているのが⾒て取れた。

ずっと⼆⼈でいるせいか、話題がほとんどない。私は特に気まずいということもないのだけれど、右⼿をつなぐ彼⼥がどう思っているのかを考えてみると、やっぱり何か喋っておいたほうがいいのかもしれないとも思う。しかし、半年も交際しておいて不甲斐ないが、彼⼥との距離感だったり話し⽅だったりとか、基本的なことがまだ掴めていない。

「ねえ、また難しいこと考えてるでしょ。」

「……なんでわかったの。」

優衣はとにかく察しがいい。隠し事も悩み事も、すべてその⽬で⾒透かしてくる。そして、解決できるどんなことでも踏み込んで、引き受けて、悩んでくれる。少し強引なところもあるけれど、私のことをいつも考えてくれているところに惹かれていた。

「ねえ、⼿をつないでてもやっぱり寒いからさ。それよりも……」

そう言って無理やり、繋いでいる私の手ごと、私のコートのポケットにねじ込んだ。

 呆気にとられる私の表情を⾒て、さらに⾔葉を続ける。

「これなら、もっとあったかいよ?」

そんなことを⾔いながらも、マフラーで隠したその頬が⾚くなっているのが⾒えていた。私のことをリードしてくれていても、時折見える可愛いその⼀⾯。彼⼥の中では隠せているつもりになっているようだから、これは私の心の中にしまっておこう。

「そういえば、晩御飯のこと決めてなかったね」

「あ、確かに。どうしよっか」

「でさ、その……優衣が良ければ私の家、来る?」

「え、いいの? ほら、琴葉のお⺟さんたちとか、おうちにいるんじゃ……」

「私の両親、クリスマスに合わせて旅⾏に出ちゃってて。外で⾷べてもいいんだけど、どこも混んでる気がするし、混んでないお店って⼤体⾼いし……」

「えーっと、じゃあ……、そういうことなら?」

 勇気を出して提案した甲斐があった。私の家に呼ぶことなんて日常ではあるけれど、今日は特別な日。普段とは比べ物にならないほど緊張していた。

 優衣は不意に立ち止まって、私の耳元に近づいてきた。私の方が低身長だから、少し屈む必要がある。

「じゃあ、今夜は……二人っきりってことかな?」

「…………‼」

 今度は私が赤面する番だった。まさかの返答に、私の頭が追い付いていない。

 私なんかよりも優衣の方が遥かに上手だったことを、あらためて思い知った。

**

 駅から歩いて⼗分ほどの場所にある、⼩さな⽔族館。今日はそこが⽬的地だった。

都市部からそこそこ近い場所にあるうえに、今日は人通りも多い。それにもかかわらず、ほとんど⼈の気配がない。看板も掠れてしまっていて、ぱっと⾒ではこれが何の建物なのかさえもわからないだろう。

駐⾞場もないので、ここへは徒歩で訪れるしかない。免許をとれない私たちには関係のないことだけれど、ある種のテーマパーク的⽴ち位置にある⽔族館がこれでいいのかと、⼼配になってしまう。

錆びれた外観に似合わず、⼊場は電⼦チケットだった。

「ねえ、払ってもらって本当にいいの?」

「うん、私が⾏きたいって⾔い出したんだからさ。琴葉は気にしないで」

そう⾔って、結は私の分のチケットも⼀緒に通した。なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになったけれど、これ以上粘ってしまうと逆に彼⼥のことを傷つけてしまうかもしれないと、ありがたく受け取ることにした。

 中に入って感じたのは、水族館の異質な構造であった。

⽔族館のほとんどは壁⼀⾯の⽔槽がいくつかに区切られ、順路に沿って配置されている。しかしこの場所は、細かく区切られた⼩さな部屋の中央に、天井まで伸びる細⻑い⽔槽が⼀つだけ置かれていた。順路を指し⽰す看板の奥に⾒える景⾊も全く同じ。唯⼀違うことといえば、展⽰されている⿂の種類だろうか。

天井から降り注ぐ光は⽩。壁も床も真っ⽩で、どことなく私の部屋みたいだなと、既視感を覚えた。外の暗闇とのギャップで、私の視界が点滅する。

⽔槽の中を泳いでいるのは、おおよそ印象の薄い⿂たちばかり。シグリッド、ハタ、カサゴ、ハゼ……。聞いたことはあってもよくは知らない⿂たちが、その⼩さな世界で⽣きている。

私たち以外には誰もいない。この⽔族館に勤めているはずの職員さえも、私たちは出会わなかった。そもそも、この⽔族館はだれが運営しているのだろう、なんて妄想じみた思考が巡っていく。

「あれ? 優衣?」

さっきまで隣にいたはずが、いつの間にかどこかに消えてしまった。普通に考えてみれば私を置いて先に進んでるとしか考えられないのに、怖い妄想をしてしまった影響で、どうにもそんな⾵に思えない。不安になって、無意識に進む足が速くなっていく。

暗闇を怖く感じるのは、⽣物の本能として当たり前のこと。しかし、⽩い光で照らされて闇とは無縁なこの部屋に対しても、恐怖に近しい感情を抱いていた。ほとんど変わらない部屋を⾒続けているせいなのかもしれない。

***

角を何度も曲がった先の部屋に、彼女は⽴っていた。

その部屋は今までとは違って明るさが絞られ、今までのものとは⽐べ物にならないほど巨大な⽔槽が鎮座している。ここまで通り過ぎてきた空気感とは明らかに違う、そんな雰囲気。

⽔槽には、⼤きなサメがたった⼀匹。優雅に泳ぐその姿を、⽔槽のさらに奥に置かれたライトが淡く照らしていた。

優衣は歌っていた……ように思う。いや、違う。優衣は『詠って』いた。

遠目で見づらいけれど、胸の前に握った⼿を置いているその姿は、彼⼥が詠っているときの仕草だった。⼀体どんな詩を詠んでいたのかは、部屋の⼊り⼝からではほとんど聞こえない。けれど、そのあまりにも集中している空気に圧倒されて、Jまするわけにはいかないと近づくことができなかった。

 一通り詠い終わったのか、優衣が私の方に振り向いた。

「どこから聴いてくれてたの?」

「あーっと……ついさっき、かな」

「⼊り⼝からじゃ聞こえなかったでしょ。こっちまで来ればよかったのに」

「いや、なんか……邪魔したら悪いかなって」

「別に邪魔なんか思わないけどね~。ま、いいけど」

水槽のガラスの表面に、私たちが映る。明るさのせいか、表情はよく見えない。

「さっきのって……?」

「あーあれ? あれはね、私が書いたやつだよ。私の妹、音楽作ってるから、今度音をつけてもらおうと思ってて。」

「そうなんだ。優衣ってたしか、双子だもんね。同じ学校だっけ?」

「そうそう。クラスも違うし、そもそもあんまり学校に来ないタイプだから、そんなに印象ないかもね」

 優衣はいつも、妹さんの話をするときには寂しそうな声になる。けれど、私に何があったのか聞いても微笑むだけで何も答えてくれない。

「ねえ、優衣。ありがとう、一緒にいさせてくれて」

 私の知らないところで、優衣は悩んで苦しんでいるのかもしれない。なんだかいつか私の手の届かないところに行ってしまいそうで、そんな不安が浮かんでは消えていく。

 もっと私を頼ってほしいなんて、そんな救世主みたいなことをしたいわけじゃない。優衣の背負っているものが私に背負えるのかもわからないのだから、むやみに『私に話して』『私を頼って』なんて言えやしない。

 だから私は、優衣の隣に立って、寄り添うことを決めたのだ。彼女が吐き出したくなった時、そばに私がいられるように。

「……こっちこそ、ありがとう。琴葉が隣にいてくれるから、まだ生きていられるよ」

「そんな大きなこと、私はなんにもしてないんだけどね」

「ううん。私は琴葉から、たくさんのものをもらってるよ。琴葉には感謝してもしきれないし、今は私の生きる意味そのものになってる。」

「なにそれ。彩愛、ちょっと重くない?」

 ⾃由に泳ぐサメを眺めていると、左袖を⼩刻みに数回、引っ張られた。⽔槽から視線を移すと、マフラーの奥で複雑な視線を向ける彼女がいた。

「……サメに嫉妬でもしたの?」

恐る恐る質問してみても、返答はない。

しっかりと袖をつかんだままの優衣の右⼿をやさしく握り、私のほうへと引き寄せる。それを待ち望んでいたかのように、⾃然と腰に⼿をまわしてくるところが、とても可愛い。

「水族館なんだから、しょうがないじゃん。でしょ?」

「それはそうなんだけど……そういうことじゃない」

 腰に回された手が、少しだけ強くなった気がした。

「今日は優衣が甘える側? なんかちょっと新鮮かもね」

 優衣はやっぱり、何も答えてくれない。彼女はたまに、言葉では語ってくれないことがある。

「そうだね。今は私たちだけの時間だもんね」

 視界の端を、大きな影が横切った。

薄明 —— 懐かしき音

「次は〜終点、四浦海岸〜四浦海岸~。お出口は~右側で~す」

 耳に飛び込んできたのは、終点への到着を知らせるアナウンス。

 完全に寝過ごしてしまった。それどころか、市まで跨いでしまっている。今から最寄り駅まで引き返したところで、ここまで意味が完全に失われてしまう。

 偶然にも遠方まで来てしまったのだから、街を散策するのもまた一興なのかもしれない。

 周りを見渡しても、車両内には誰もいない。なんだか別世界に迷い込んでしまったような、不思議な雰囲気が漂っている。でも、なぜか恐怖というか困惑というか、そういった負の感情も湧きあがってこない。

 ドアが開き、たった一人だけのホームに私は降り立った。電車は早々とドアを閉め、元いた場所へと引き返していく。

 ここからでさえ、微かに波の音が聞こえてくる。なんだか懐かしいような気がしてならない。忘れてはいけない、かけがえのない思い出。記憶の奥底にしまい込んでいたことが、手の届きそうなところにある気がしてもどかしい。

「ま、思い出せないんならしょうがないよね」

 簡素というかギリギリ役割を果たせるだけの改札擬きを通り抜け、私は海岸を目指して進んでいく。

追憶 —— あれは、日差し照りつける砂浜のこと。

夏は嫌いだ。

海岸に向かう道をダラダラと歩く私は、何度⽬なのかさえもわからない嫌悪感を露わにする。⾒渡す限り、鬱蒼と茂った⽊々と収穫までもう少しのような畑しかない。

夏休みが目前に迫った日曜日。高校生として遊べるのは今年が最後なのだから、全力で楽しみたい。とはいえ、この暑さを考えるとできる限り屋内で過ごしたい。

いろいろな計画を練るため、調べ物をしながら部屋に引きこもる午後三時。⼀本の電話が舞い込んだ。電話をかけてきたのがただのクラスメイトだったなら、適当な理由を付けて断ればよかった。しかし、そう現実は⽢くない。

「私さ、思うんだよね。夏に好き好んで外出するような⼈は頭がおかしいって」

「それ、もしかして私に対する嫌味だったりする?」

「……別に、そんなことないけど」

私を炎天下に連れ出した張本人の問い掛けを軽々と避ける。

 元を辿れば、優衣が泣きそうな声で電話してきたことが始まりだった。熱波が到来するなか、彼女のことを見捨てるわけにもいかない。葛藤の末、私は大急ぎで身支度を済ませたのだ。その結果、予想通りといえば予想通りではあるけれど、今この灼熱地獄を味わうことになっている。

「クーラーが恋しいなぁ」

「すごく気持ちはわかるよ」

「私からクーラーを奪ったのは、誰だっけ?」

「それは……」

茹るような熱気。⽌まることも知らない汗。乾きに乾いた喉は掠れ、もはや痛みまで感じている。熱中症対策が⽢かったという、たった⼀⾔で⽚付いてしまうような理由で病院送りにされることだけは御免被りたいところだ。しかし、こんな何もない道の途中では飲み物さえも調達することができない。相当にうんざりしてきた。

「ねえ、琴葉。私のでよければ、飲む?」

思案に耽る私を⾒かねたのか、⼀歩先を歩く彼⼥がペットボトルを差し出してくれた。

「ん。そうする」

⼀旦⽴ち⽌まって、もらった⻨茶を少しずつ飲む。冷たい麦茶が少しずつ、私の全身に行き渡っていく。

⼀呼吸おいた私たちは、再び歩き出した。ここで⽌まっている場合ではない。 けれどもやはり暑さには敵わず、歩くスピードがなかなか合わない。⾜元ばかり⾒ていたが、気分が陰鬱となってきた。少しの間だけ、視線を前⽅に向けてみる。

私の⼀歩先を歩く彼⼥の、⿊く輝く後ろ髪。⾜を進めるリズムに合わせて揺れる漆⿊に、思わず⽬を奪われてしまう。

周りの景⾊は何も⾯⽩くはないし、夏に外に出ること⾃体⼤嫌いだけれど。

こんな夏も、ありなのかもしれない。

浜辺で裸⾜になり、彼⼥は詠う。多分、それは妹が作った曲なんだろう。その表情は、どこか楽しそうで、悲しそうで。一年以上も⼀緒にいるはずなのに、どこか遠いところにいるような気がした。

砂浜に置かれた⽊製のベンチに座って、海を眺める。少しずつ気温が落ちてきて、快適とまでは⾔わないまでも過ごしやすい時間になってきた。絶え間ない汗もようやく引き始め、くつろぐ余裕まで⽣まれている。

ベンチに横になりたい衝動と、ロングスカートとはいっても無防備すぎないかと、少々悩んでしまう。さながら天使と悪魔が囁き合うかのように。

「どうしたの、珍しくぼーっとして」

「あ、ううん。海が綺麗だから⾒惚れてて……。そんなに珍しい、かな」

「珍しいと思う。私は久しぶりに⾒た気がするよ。ほら、いつもなんかこう、難しい考えてそうな顔してる印象だからさ」

普段から私は、難しい顔をしていたのだろうか。⾃覚症状があるわけでもないし、他⼈の視点というのはとても⼤事だなと、しみじみ思う。

私の右隣で、⾜に付着した砂や塩⽔を丁寧に拭う。視界の端に⼊るその動作は、波打ち際まで⾏った後の始末としては普通かもしれない。しかし、彼⼥の⼀挙⼿⼀投⾜が妙に気になって仕⽅がなかった。

「もう、いいの?」

「満⾜したし、とりあえずいいかな」

「そっか」

もう少しだけ聴きたかった。そんな本⾳をぐっと飲み込む。頼めば喜んで再演してくれそうだが、そんなことは恥ずかしくて⾔えるわけがなかった。

 ⼆⼈で海を⾒る。

⽿に⼊るのは、寄せては引いていく波の⾳だけ。

無⾵で無⾳。海岸沿いの県道を通る⾞も、歩道を歩く⼈間も、存在しない。正真正銘たった⼆⼈だけの空間がそこにあった。

⻄陽が徐々に⽔平線へと近づいていく。それに合わせてか、彼⼥が⼝を開いた。

「琴葉さ。もしかして、悩み事でもある?」

「……なんでそう思ったの?」

「いや、なんかこう……パッとしない感じがして。深い根拠があるわけじゃないし、気を悪くしたなら謝るよ……」

時々、優衣は変なことを言う。唐突でびっくりすることもあるけれど、私にその自覚がないことまで当ててくる。ありとあらゆるものを見透かしそうな色素の薄い瞳には、一体何が映っているのだろう。

「そっか。うん、確かにそうかも」

 一度、深呼吸。頭が冴えてくる。特段何かがあるわけじゃないし、優衣に話すほどのことじゃないのは分かっている。でも、隠し通さなければいけないほどの内容でもないから、話して少しだけ楽になってもいいかもしれない。

「優衣って、将来のことって、考えたことある……?」

「将来、かぁ。なんか総合の時間に考えたことあった気がするかも」

「そういえば、そんな授業もあったね。でも、そうじゃなくて」

「わかってる。この前の進路面談でしょ?」

「……優衣は本当に私のことをよく知ってるね」

「琴葉の彼女になってから一年経つからね~。それくらいわかる」

「じゃあ、このあと私が優衣にどんな相談するかもわかる?」

「んー。琴葉と進路の話はしたことなかったし、全然わかんない」

「まあ、そうだよね……」

「ねえ琴葉、なんでちょっと嬉しそうなの?」

「え? あー、優衣でもまだ私のことで知らないこともあるんだなって思ったら、これからもたくさん話せるなぁって」

「そっかそっか。進路ねぇ……」

「優衣は何かもう決まってるの?」

「まーったく。進路のことなんて、何にも考えてないよ。これは真⾯⽬に。特別、やりたいことも今のところないし、親からあれやれっこれやれって⾔われてないからさ。あーでも、迷っているんだったら公務員がいい的なことは⾔われたかな。ほら、私のお⺟さんって警察事務だからさ。確かに公務員なら路頭に迷うことなく将来安泰、って感じはするよね。でも、聞いててなんだか刺激が少ないように感じたんだよ。新しいものを⽣み出すこともないし、今あるものを改良して社会を良くしようっていうんじゃなくて、社会が円滑に回るようにするための仕事っていうかさ。全部社会にとって必要なことなのはわかるんだけど、多分私には向いてないんじゃないかなって気がして……。今も勧められてるけど、曖昧にして誤魔化してる」

 優衣はたまに、まくしたてるように話すことがある。その時はたいてい、彼女の感情が一番乗っているときだ。

「なーんだ。やっぱり優衣はちゃんと考えてるんだね。うらやましいかも」

「まあね。でも、高校生でいられる時間には限りがあるし、これからもたくさん楽しいこととか待ってるのに、先のことで悩んでてもしょうがないかなって思うんだよね。今は不安よりもワクワクの気持ちが勝ってるから、今この瞬間を全⼒で楽しんでみたい、かな。その⽅が⼈⽣楽しいと私は思うし、もしかしたら楽しかったことが将来の選択に繋がるかもしれないじゃん?」

 こういうとき、彼女は私よりも遠いところにいるんだなと、少し感じてしまう。軸足のない私にとって、足場がきちんと固まっている彼女が本当に。

「琴葉」

「……なに?」

「私はどんな進路を選んだとしても、一つだけ決めていることがあるから。それを先に、琴葉だけに宣言してみようって思ってる」

「それはね、琴葉とずっと一緒にいることかな」

薄明 —— 封じ込めていた記憶の扉

夕方の海、いつ見ても綺麗だなぁ……。誰もいないから静かだし、めっちゃ落ち着ける。こういうとこがいいなあって思うよねぇ。秋だしちょっと寒いけど、さっき自販機でホットコーヒー買ったし、これで少しは暖がとれたらいいなあなんて。

 せっかくだから優衣に写真送りたいな。夕日もちょうど沈んでるし、めっちゃきれいな写真送れば少しくらいはいつもの優衣に戻ってくれるかもしれないし?

 メッセージアプリを通じて写真を優衣に送った私は、砂浜に降りることにした。

秋⼝の海岸は、想像よりもずっと寒い。カイロ代わりのホットコーヒーは、吹き付ける潮⾵であっという間に冷めてしまった。

海岸を沿う道と砂浜を隔てる柵に体を預けて寄りかかる。県道だというのに、通⾏量はほとんどない。つまり、この景⾊は私だけが独り占めしているということかと、深く考えなくても当たり前のことが頭に浮かぶ。なんだか⾯⽩い。

せっかくここまで来たのだからと、意を決して砂浜まで⾏くことにした。学校指定のローファーで歩くのは少し抵抗感があるけれど、ローファー越しの砂浜の感触という好奇心が買ってしまった。

ここしばらくは秋晴れが続いていたことで、県道に近い場所の砂は乾いていた。それらを踏み締めていくたびに、ジャリジャリと歩きにくい感触を与えてくる。

ベンチに座り、耳を傾ける。規則正しく揺れ動く波の⾳が、私の⿎膜へやさしく何かを訴えかけてきた。

遠くの⽅に⽬をやると、⼤量のコンテナを積んだ船がダラダラと海を進んでいた。この果てしなく広がる海の上だと忘れてしまいそうになるが、船に積まれているエンジンはとても巨⼤で、仮に⾃動⾞に搭載でもして⾒れば空も⾶べるらしい。そんなに性能が良くてもあ⻲のようなスピードしか出ないという現実を⾒ると、やはり⾃然の⼒は偉⼤だなとしみじみ思う。

無⼼になって海を眺めていると、時間の感覚が壊れてしまいそうになるのはなぜだろうと、。同じ箇所を⾒つめているからなのか、⼀定の周期で響く⾳が⽿に届いているからなのか。そのどちらもなのかもしれないし、どちらでもないのかもしれない。

 空に黒が塗られ始め、少しずつ水面が見えなくなっていく。確かにそこにあるはずなのに視認できないというのは、なんとも不思議なことだと思う。

 そんなことより、今日はなんだか眠気が酷い。碌に寝られていないのだから仕方がないのだけれど、足元さえおぼつかない状態で改札に戻れる気がしない。

 風邪を引きそうな気がするけれど、これ以外に解決策が思いつかない。もうどうにでもなれと、ベンチに横になった。

追憶 —— 残響

「そろそろ雨降りそうだし、今日は帰ろっか」

 海を眺め満足した私と優衣は、大通りへと続く階段を昇る。

「そういえば、琴葉。折りたたみ傘って持ってきてるの?」

「あー、忘れちゃった……」

「仕方ないなぁ……。天気予報見てないの?」

「全然見てなかった。ごめんけどありがとう」

 嘘だった。本当はカバンの中に折りたたみ傘は入っている。「持っていない」なんていうのは、優衣と一緒の傘に入る口実に過ぎなかった。

——雨音。衝撃。轟音。

日常なんて、酷く脆く、あっという間に壊れてしまう。

閑静な住宅街にある、普通の交差点。ついさっきまで隣を歩いていた彼女は、鉄の塊に押しつぶされていた。

——鉄の匂い。焼けるような痛み。

血溜まりに沈む彼女の身体を、思わず抱きしめる。

 血なんて言葉さえ生易しい。先程まで全身を流れていた液体が、体外へどんどん流れていく。

徐々に熱を失い始め、人間が肉塊へと変貌していく無常な現実に、私は泣き叫ぶ続けることしかできない。

——悲鳴、怒号。

騒ぎを聞きつけたのか、多くの野次馬が集まり始めていた。

何か大声をあげている人もいるみたいだったが、現実を受け入れられない私の頭は、それらの雑音さえも処理できない。

——サイレンの音。

 私のせいだ。優衣の傘に入っていて、そこに車が突っ込んできて、それを優衣が庇った。庇ってくれた。

——声にならない呻き。

 ありえない。優衣がこんなことで死ぬはずがない。これは何かの間違いだ。これはただの夢なんだ。悪い夢なんだ。

——優衣が、呟いた。

 それはとても小さく弱々しく、いまにも消えてしまいそうなほどに薄い。周囲の騒々しさで聞き取れなくてもおかしくない。それなのにどうして、彼女の声は鮮明に耳に残っている。

「      」

**

 頬に、一筋の線がついた。

極彩

 『篠宮優衣』という人間を、私はよく知らない。

 双子の妹、なんていうのは、良くも悪くもただのステータス。双子だからと言って性格は同じじゃないし、心が通じ合っていて互いの考えていることがわかるわけでもない。

 所詮、私と姉の関係は、ほとんど同じ見た目でほとんど遺伝子が同じなだけの他人でしかないのだ。互いに影響を与え合ったりすることはあるけれど、誰を好きになって、誰を嫌いになるかまで、姉の影響を受けたいとは思わない。

 世間にとって、双子というのは珍しいらしい。物珍しい目で見られることは日常で、吉兆の象徴だと指を刺されたこともある。

 優衣は全然気にしていないようにふるまっていたけれど、私の心は少しずつ削られていった。世界中、すべての人間が、私たち姉妹をフィルター越しに見ているんじゃないかと思った。

 捻じれてしまった性格が人間関係に無視できない悪影響を与えたのは、想像に難くない。いつの間にかフィルター越しに世界を見て、人に対して言葉の棘を刺す。そんな私と友達になってくれるような人なんているわけもなく、私はずっと一人で過ごす。

 社交的な優衣と比べられ比較され、苦言を呈される。そのたび私は無視と反抗を繰り返す。無限に続くやり取りに疲れた私は、他者との間に壁を作った。その内側でただ一人、私の存在価値を証明すればいい。

そう心に決めて何年も経ち、優衣との距離も離れていった。離れた、というより私から離れていったというのが正しい。

 優衣は眩し過ぎた。私なんかと比較にならないほど社交的で、誰からも慕われている。真逆の人生を送る彼女のことが目障りで、そんな些細なことで劣等感を覚える自分が嫌いになる。

 だんだんと自分の考えがはっきりとした中学生の頃には、優衣に対する嫌悪感が手に負えないほど肥大化していた。それまではどうにか感情を抑えつけられたのに、今では一方的な憎悪へとなり果てている。

 出来る限り優衣に近づかないようにと避けているうちに、学校にも行かなくなっていた。何かするわけでもなく、ベッドに寝転んで天井を見上げる日常。時間を無駄にしているのは苦痛になるほどわかっているのに、何もする気が起きない。

 拒絶。身体が生きることを拒んでいる。食事も喉を通らず、起き上がることでさえ体力を使う。日に日に弱っていってることくらい自覚していて、逃げるようにスマホを眺め続ける。とはいえ、目から入ってくる情報も満足に処理できないのだから、本当の意味での『無意味』だ。

 生きているのか死んでいるのか、はっきりしない。『人間は考える葦』だというのであれば、思考を放棄した今の私は『人間』なんだろうか。今の私は、『生きている』と言えるんだろうか。

 両親は私の不登校に無関心だった。無関心というより、どう私と接したらいいのか分からなかったのかもしれない。学校に行くよう怒鳴ってくることもなく、それどころか学校の話題を出されたことは一度もない。私を最大限尊重しているように見えて、私の存在を否定されているみたいに思えてしまう。

 いつしか両親の声にはノイズがかかるようになった。何を話しているのかが理解できない。聞こえない。そのことに気付いた時にはもう、私は人間から外れてしまったのかもしれない。

 それでも私が辛うじて人間だと言えたのは、私が避け続けていた優衣のおかげだった。

「彩愛……起きてる?」

 ほとんど毎日、優衣は部屋の扉越しに話しかけてくる。私からの返答がないことなんて分かりきっているのに、彼女は馬鹿の一つ覚えみたいに一方的に話し続けてきた。

 内容は専ら学校のこと、部活のこと、友達のこと。嫌になる。同じ風に生まれ同じ量の時間を過ごしてきたはずなのに、どうしてこんなに人生は違うのだろう。

 いつでも優衣を突き放すことはできた。それをしなかったのはすべて私の選択だった。それは、私がまだ『生きていたい』と願っていたからだったのかもしれない。

「わたしって、なんなんだろう」

 久しぶりに出した私の声は、薄汚れていた。

 中学生になってから二度目の春が訪れた。普通の中学生にとっては、クラス替えとか後輩の存在など、大きく変わる季節だろう。

 私は変わらない。というよりも、一年という決して長くない時間を無駄にしてしまったことで、変わる機会を失ってしまったのが正確なのかもしれない。

 始業式があった日、優衣は扉の下の隙間から一枚のプリントを渡してきた。私の新しい担任から渡されたらしい。今更興味も湧いてこなかった私は、しばらく使っていない机の上に載せるだけして放置した。

 それから数日経った。いつものように、優衣が部屋の前で話しかけてきた。ただ、その日は様子が少し違うような気がした。

「彩愛……。今日、彩愛の担任の先生が、彩愛に会いたいって言ってきたんだけど……どうする?」

 耳を疑った。冗談だと思った。

不登校の生徒なんて今どき珍しくもなんともないし、そういうドロップアウトした人間は社会から虐げられると思っていた。実際、私が学校へ行かなくなったとき、最初は毎日のように連絡してきた教師もクラスメイトも、いつの間にか連絡が来なくなってしまった。どうせ今度もそうなのだから、会ったところで担任の貴重な時間を浪費するだけで意味もない。

「……わかった」

 違う。会いたくない。そう言いたいのに、口から出るのは真逆の言葉。

「うん。そう伝えとくね」

 訂正する間もなく、優衣は部屋から離れていった。いまから訂正しに追いかける気力もなくて、頭を抱える。

やっぱり私は、生きるのが下手なのかもしれない。

 約束の日。

久しぶりに部屋を出て、リビングで時間を待つ。部屋着で応対するのもなんだか格好がつかないからと、制服に袖を通した。ほとんど成長していないのか、着心地は変わっていない。

何を話しに来るのか。私の頭はそれでいっぱいだった。

≪なぜ学校に来ないのか≫

≪不登校なままだと進路の保証はできない≫

≪クラスはみんな、あなたのことを待っている≫

≪今のままでいいと思っているのか≫

 ざらついた言葉が脳裏に浮かんで消えていく。不愉快。気持ち悪い。そんなこと、私が一番わかっている。

 これはあくまで想像。でも、もし面と向かって言われたら、私はどうなるんだろう。もしかしたらもう、立ち直ることも難しいくらいに壊れてしまうかもしれない。それが私の運命なら、甘んじて受け入れるのも悪くない。

 終わりのない問いと回答は、リビングに響き渡る呼び鈴が遮った。

 第一印象は、『感情のない、植物のような女性』だった。

 これといった特徴もなく、善い人なのか、悪い人なのか、どうにも判断がつけづらい。

ダイニングテーブルを挟み、向かい合う。

「初めまして、篠宮さん。今年の春からクラス担任になりました」

 目が合っているようで合っていない。本当に人間なのかと、背筋がぞわっとした。

「今日は、これを渡しに来ました。以前、お姉さんを通じてプリントをお渡ししましたが、読まれましたか?」

 ……全く読んでいない。というか、プリントなんてもらっていたかも定かじゃない。動揺で目が泳ぎそうになるのを必死に取り繕う。

「一応、確認しておきましょうか」

 私は静かにうなずいて、先生は脇に置かれたカバンからプリントを探し始めた。

 先生は私のことなどお構いなしに、淡々と説明を続けた。不登校の生徒を相手にするなんて面倒だなんて表情も一切ない。これはあくまで業務の一環でしかないと言わんばかりの対応だった。

 なんだか気味が悪くなって、机の上に目を落とす。進路希望調査票と書かれた一枚の紙。まだ二年生、されど二年生。来年には受験を控え、そろそろ進路について考える時期なんだろう。

 私には希望なんてない。そもそも、半年以上も学校に行ってないのだから、将来を選択できる権利なんてあるはずがない。社会との親和性・協調性が欠けていることなんて、痛いほどの自覚がある。

 自己嫌悪が溢れそうになったところで、説明が途切れた。どうやら話は終わったらしい。

「ここまでで、質問はありますか?」

「い、いえ……とくには……。」

 咄嗟に聞かれた割には無難な回答。そもそも私は話をあまり聞いていなかったのだから、質問も何もあるわけじゃない。

「そうですか。わかりました」

 先生はそれだけ言って、席を立つ。荷物をまとめ、玄関へと向かおうとする様子を、私はただ見守るしかできなかった。

 ふと、疑問が私の中に湧き上がる。

 不登校の生徒の家に訪問するほど、教員というのは暇じゃないはずだ。それなのにどうして、少しも嫌な顔をしないのだろうか。

 私は急いで立ち上がって、玄関へと向かう。大川先生は玄関の扉にかけているところだった。先生は振り向かない。

 それでも私は抱えた疑問を投げかけた。

「なんで、私に登校しろって、言わないんですか……?」

 いつぶりに出したのかもわからない声は、想像よりかはきれいな音だった。去り際にようやく話しかけられた先生は、少しだけ驚いていた気がする。先ほどの説明口調だった時よりも穏やかに、言葉を返してくれた。

「彩愛さんがどんな人生を歩んでも、その選択があなたにとっての幸せならそれでいい。でも、もし後悔する気持ちが少しでもあるのでしたら、新しい何かに挑戦してもいいかもしれません。なんでもいいんです。考えた末に学校という環境が必要なのであれば、私は全力でサポートします。生徒であるあなたの幸せこそ、私の願いです」

 先生を見送って自室に戻った。胸の中にすっきりしない感覚が残っている。のどに引っかかった骨のような違和感は、時間がたっても晴れることはなかった。

「新しいことへの……挑戦……」

 頭の中で声が言葉が反響する。具体案なんて一つも浮かんでこない。それどころか、初対面の人間による去り際の言葉でしかない。けれど、走った衝撃は紛れもなく『本物』で、私の人生を大きく変えるきっかけになったのだ。

**

高校の入学式なんて、私は微塵も興味がなかった。

同じ学校に進学した姉が式典に参加すれば、当然両親も参加することができるのだから、私まで出る必要性があまりないように思える。しかし、前日の夜から部屋の前で「一緒に行こう」と騒いでいたのを無視することもできず、仕方がないからとおとなしくパイプ椅子に座っていた。

壇上でスーツを着た大人が、難しい顔をして難しい話をしている。まったく興味がない。頭の中で「早く帰りたい」が反響していた。

周りを見回しても、見知った顔は一つもない。中学校三年間、そのほとんどを登校していなかったこともあり、同じ中学から進学してきた人の顔すらわからない。あれから結局、社会性が身につくことはなかったけれど、上手く取り繕えば大丈夫と言い聞かせた。

 入学式がようやく終わり、教室に向かう。優衣とはクラスが違うので完全なアウェイ環境。入学前に書類が配られた時点で分かり切っていたことではあるけれど、目の当たりにするとプレッシャーが重くのしかかってくる。

 席に座り、周りを見渡す。既に幾つかのグループができていて、談笑を楽しんでいる。騒がしい。鼓膜が痛くなる。気分が悪くなってきた。

 閉塞。だんだんと、教室の広さが歪みだした。情報が濁流となって襲い掛かって、眩暈を起こしそうになる。ただただ幸いなことに、席は廊下側の一番後ろ。壁に寄りかかれるし、すぐ後ろの扉からいつでもすぐに居なくなることができるのは、好立地と評しても過言じゃない。

 今から教室を抜け出すか、それともせめてホームルームが終わるまでは耐えるべきか。二つに一つの選択に頭を抱える。

「あ、えと、だいじょうぶ……ですか?」

 机に突っ伏していると、私の近くで誰かに声をかけている人がいるみたいだった。傍迷惑だなと思いながら無視を貫く。

「なんだか体調悪そうですし……その、無理するのはあんまり……よくないかなって……」

 違う。話しかけられているのは私だ。あまりにも唐突、予想していなかったお誘いに、私は思い切り顔を上げた。

しかし、初対面の人とどんな風に話したらいいのか分からない。こういう時はなんて返答したらいいんだろう。いろんな言葉が浮かんでは消え、その度に『早く返さなきゃ』と焦りが強くなる。

「あ、えと、ごめんなさい!」

 最終決定、逃げるに如かず。

 どうしたらいいかわからなくなって半パニック状態になった私は、教室を飛び出した。

 廊下を早歩きで進んで、階段を駆け上がる。考えられる中で最悪に近い行動だろう。息が詰まりそうな空間から一刻も早く抜け出したかった。

 錆び付いた扉に手をかけて、勢いよく開ける。重たい鉄の塊の先には、青空が照らす屋上があった。

 開放感に大きく息を吸って吐く。新鮮な酸素が血管の端から端まで行き渡っている感覚が心地よい。教室に戻る気もなくなってしまい、私は扉を静かに閉めた。

 春の日差しを一身に浴びる。外に出ていなかった時期が長いこともあり、肌はあまり強くはない。けれど、適度に日光を浴びたほうが精神状態に良い影響を及ぼすらしい。しかしなるほど、少しずつ気分がよくなってきた気がしてきた。確かにこれはいいかもしれない。

 安全柵に寄りかかり、ブレザーの内ポケットからスマホとイヤホンを取り出す。音楽アプリと純正メモを起動して、イヤホンを耳に当てた。

 静寂の中に流れる音に、言葉を足していく。メロディーを作ることにはだんだんと慣れてきたけれど、作詞となると話が変わる。局の雰囲気に合う言葉を並べるというのは、簡単そうに見えて難しい。特に、語彙力と想像力はどれだけの経験を積んできたかで変わるのだから、私みたいに消極的な人生を送ってきた人種には難しいのだ。

 書いては消して、書いては消して。一連の流れをただ繰り返す。表現が思いついては、しっくりこないからとごみ箱に捨てていく。少しだけもったいないかもしれないけれど、言葉というのは一期一会。今回は縁がなかったのだからと諦めていく。

なかなか手が進まなくなり、空を見上げる。

思い返せば二年前のこと。当時の担任とした一度きりの面談を境に、私の人生は大きく変わったように思う。

音楽制作に手を出して、そこから色々なことを学んだ。インターネットを通じ、決して少ない人に評価してもらえた。同じように制作に携わっている人との繋がりもできた。

学校に行くことはほとんどなかったけれど、先生や両親に助けてもらって、どうにか高校に進学もできた。

人生のどん底から少しはマシなくらいまで這い上がれたはいいものの、人間の本質はそう易々と変わるものではない。優衣に対する拒絶感は薄まったけれどいまだに残っているし、同世代の人との交流経験は明らかに少ないという自覚もある。

上手く生きていける気は、あんまりしない。高校もどうせそんなに登校できず、大して成長することもないまま三年間が終わるのだろう。

思考がマイナスに寄ってきたので、視点を現在に戻す。考えたところで仕方ないのだから、今更どうにかできるようなものでもない。今はこの瞬間を無事に生き延びるだけで万々歳なんだからと言い聞かせる。

「みーつけた」

 突然、隣に人の気配を感じた。イヤホン越しに聞こえる声は聴き馴染みのあるもの。

「彩愛、なにしてんの。ホームルームは?」

 私よりもきれいな瞳、澄んだ声。私なんかよりも真面目なのだから、放っておけばいいのに。

「別に。優衣には関係ないでしょ」

 関係ないわけがない。優衣にとって私はたった一人の妹なのだから、心配しないほうが難しい。けれど、どうしてか。優衣の前では素直に感情を吐くことができなかった。

「まあね。確かに関係ないかも」

 そう言って、優衣は私の隣に腰を下ろした。

 予想外の返しに、私は少しだけ戸惑う。優衣が考えていることがわからない。その真意を探ろうとする前に、優衣はさらに言葉をつづけた。

「彩愛さ、さっきクラスの子に話しかけられて逃げたでしょ」

「……どうしてそのこと知ってるの」

「その子、彩愛を探してたんだよ。なにか悪いことでも言っちゃったんじゃないかって。今度謝っておきなね」

「……そうしとく」

 なんだか気まずくなって、空を見上げる。清々しい蒼は鬱屈とした私のことを嘲笑っているようだった。

***

 あれから一か月くらい経った日のこと。

 五月にはおおよそ不適切であると言わざるを得ない異常な熱気に負けた私は自主休校を決め、部屋で一日中パソコンとにらめっこしていた。

 知名度も少しずつ上がってきたこともあり、交流のある製作者の人たちと共同でアルバムを出すことになっていた。ここ一週間くらい、学校どころか家から出た覚えもない。まだまだ入学から時間もたっていないというのに、不登校の兆しは既に見えている。とはいえ締め切りも近づいているのだから、時間を割くほどの余裕もない。そう、これはしょうがないことなのだと、自分の心に言い聞かせた。

 カーテンを閉めてできる限り暗くし、冷房と扇風機をフル稼働させる。ただでさえ外は暑いのに、机に置かれたデスクトップパソコンが恐ろしいほどの熱気を放っている。生半可な暑さ対策では対処できない、さながら灼熱地獄。やりすぎなんてものでもないのだ。

「で、なんで優衣がここにいるの?」

 ブルーライトを浴びまくって疲れた私は、一度休憩しようとヘッドホンを外し、回転椅子をベッドに向ける。視線の先には、私のベッドに寝転んで漫画を読みふける優衣の姿。シャワーを浴びたばかりなのか、少し髪が濡れている気がする。

「え。だって彩愛の部屋、涼しいんだもん」

「自分の部屋で冷房つければいいじゃん。ただでさえ物が多いのに、人まで増えるのは冗談じゃないよ」

 優衣は足をパタパタさせながら、まるで自分の部屋かのように寛いでいる。なんだか腹が立ってきた。

「できるならクーラーついてる部屋は少ないほうがいいし、彩愛は今ベッド使ってないしさ。邪魔しないから居させてよ」

「そういう問題じゃないから。モニターに反射した優衣を見てると、なんかイラっとするんだよね。十分気が散るよ」

 わかっているのか分かっていないのか、あるいはわかっていて無視しているのか。優衣は全く部屋を出ていくつもりがないらしい。

 これでは全然作業が進まない。進む気がしない。大きくため息をついて、私は優衣に問いかける。

「それで、何か私に相談したいことでもあるの?」

 優衣は面食らったような顔をして、漫画からようやく顔を上げた。普段の印象からかけ離れた様子が、少し面白い。

「な、何言ってるの⁉ 彩愛に相談事なんて……」

「優衣は隠し事が向いていないね。一応私たちは双子なんだし、思い悩んでいることくらいわかるから」

 わかるわけない。優衣のことを知らない、知ろうとしてこなかったのだから、優衣が悩んでいる確証もない。けれど、優衣の様子に違和感を覚えたのは事実だった。

「……」

 優衣は喋らない。けれど、目が泳ぎまくっていることから動揺しているのは明らかだった。

 しばらく時間がかかりそうだなと思った私は、モニターに向き直る。いつでも優衣の話を聞けるように、ヘッドホンはしなかった。

 それから二十分くらいして、優衣が口を開いた。

「実は私、恋したかもしれない……。」

 なんだそんなことかと頭によぎったけれど、それは流石に人の心がなさすぎるので飲み込んだ。

「へー。女子高生らしくていいんじゃない?」

正直、色恋沙汰にはあんまり興味がない。恋愛をしたくないというわけじゃないけれど、私みたいな愛嬌のない女と付き合うようなもの好きはいない。いるわけない。

「で、優衣が好きになった人ってどんな人なの?」

 優衣がどんな人を好きになろうと関係ない。けれど、身近な人間が好きになったのがどんな人物なのかくらいは興味がある。曲のネタにでもなれば儲けになるかもしれないな、くらいに考えていた。

「えっと、驚かないで聞いてほしいんだけど……」

「いいよ。今更驚くようなことなんてないし。」

 なかなか言い出さなかった優衣がようやく話そうとしたので、メモを取るためにペンを持つ。いったいどんな相手なのか少しワクワクしていると、予想外の答えが返ってきた。

「実はその……女の子なんだ……私が好きになったのって……」

 ペンが落ちる音が、部屋に響いた。

 変わらない毎日に、変わらない環境。通う場所も徒歩圏内で、ほとんど外に出ない私でも知っているような景色だけが目に映る。

 思い浮かばないフレーズを放置して、ベッドに寝転び本を読む。とはいえ、解決していない問題を抱えていることに変わりはなく、頭の中でいろんな案が出てきて消える。そんな状態では本の中身も頭に入ってこない。

 悶々とした気持ちを晴らそうと、本を閉じて部屋から出ることにした。廊下の窓から差し込む西日が、私の網膜を焼く。目を細めながら階段を下りてリビングを抜け、玄関のドアを開けた。

 上下ジャージにサンダル。おおよそ女子高生とは思えない服装だけれども、どうせだれも私のことなんて気にしていないのだからどうでもいい。

 気の赴くまま、秋風に身を任せる。自然と足が向くほうへ進んでいけば、何か見つかるかもしれない。もし見つからなくても無駄足になることは決してない。どこへたどり着いたとしても、歩いた過程はどこかで活きてくる。ただ、それは誰が放った言葉だったかは思い出せない。

 少しずつ、空が暗くなっていく。足が疲れたということもあり、目に入った小さな公園で休憩することにした。

 周りを住宅に囲まれたこの場所は、ちょっとした異空間。灰色の人工物で満たされた世界の中で唯一、『自然』という名の自我を保っていた。

 どこを見つめるわけでもなく、街を眺める。錆びてボロボロになった仕切り柵に視点をやると、その向こう側に、優衣らしき人物の姿を見つけた。誰かと一緒に歩くその表情はとても楽しそうで、交際は上手くいっているのだろう。

 その光景に安心しつつ、少しだけ胸が痛んだ気がした。

****

 二度目の夏。私は天井を見上げていた。

 頭の中で反響するのは、『幸せってなんなんだ』という問い。次の合同アルバムのテーマだった。

 幸せの定義について、私は考えたことはない。使い古した国語辞典にも、広大なインターネットにも、その答えはない。かんがえたところで簡単に答えが出るようなものでもない。

 そもそも、『幸せ』というのは、どういった点において幸せなのだろう。環境、という一言で片づけてしまえばいいのかもしれないけれど、それでは少々味気ない。

 恋⼈、友⼈、家族、趣味、⾦銭、仕事、⾷事……。そのすべてを満たした時を“幸せ“というのかといえば、それも違う気がする。世間で幸福な⼈と称されている⼈にも、何かしら⽋けているものがあるはずだし、そもそも幸せのハードルが⾼過ぎてしまうようなきがする。

 じゃあ、何なら⽋けていても⼤丈夫なのかなんて質問にも、私には答えられない。終わりの⾒えない問題に頭を悩ませ、ついには匙を放り投げた。

 ふと、優衣の顔が思い浮かんだ。

優衣ならなんて答えてくれるだろう。モニターに表⽰された時間をみれば、まだ十七時。学校は終わっているだろうが、まだまだ家に帰ってくるような時でもない。そもそも、最後に優衣と直接喋ったのはいつだっただろう。優衣に交際相手ができてから、自然と距離を置いてしまっていた。

まずは⽂字でのやり取りから、と久しぶりにスマホを使うことにした。充電器につけっぱなしで何⽇も放置していたせいか、通知の欄が恐ろしいことになっている。とはいっても、迷惑メールか迷惑電話が⼤半で、私の知るような⼈から連絡はパソコン上で確認できるので、有益なものは実質何もない。

よくわからない番号からはじまる着信履歴を過去から遡って消していく作業。思い返してみれば、完全に⽬的を⾒失っていた。けれど、⾒失ったおかげで早く気づくことができたのかもしれない。

いちばん新しい、今⽇の⽇付が刻まれた履歴まで辿り着いた。これだけ消して、優衣に連絡を取ろうと思った⽮先、私は気がついた。煩わしい通知に気を取られたくなくてミュートにしていたが、ここ三十分の間、⺟親からの着信が⽴て続けに⼊っていたのだ。

異様な光景。只事じゃない。何か良くないことでもあったんじゃないか。先ほどまで悩みなんて⼀瞬で吹き⾶んで、嫌な妄想が私の頭を占領していく。

 母に電話を掛けるとき、私の手は震えていた。

 最後に⼈の死に触れたのは、三年前だった。

私たち姉妹のことを孫のように⼤事に可愛がってくれた叔⽗が、持病の悪化で亡くなった。私に作曲を教えてくれただけでなく、パソコンやモニター、⾳楽ソフトまで買ってくれたから、よく覚えている。

私に⽣きる術を教えてくれた人。そういう、⼈⽣において⼤事な⼈にほど、早く死は訪れる。

棺に収められ、⽕葬場にて燃やされる。その間、結はずっと泣いていた。多分私も泣いていたと思う。でも、時が経つにつれて悲しみは薄れていく。

それは忘れていくからだ。⼈は必ず忘れていく生き物だから、百年という⻑い時間を⽣きていくことができる。どんなに苦しい記憶も、悲しい記憶も、忘れることで乗り越えられる。そんなことを何かの本で読んだ気がする。

それならば、どんな⼈でも死んで時間が経てば記憶から消えていってしまうのだろうか。

 冷たい鉄の板の上に寝かされた、優衣の身体。

その顔はとても穏やかで、ただ眠っているように見える。声をかければ⽬を開けてくれそうな⾃然な表情。なのに、どれだけ名前を呼んでも起きることはない。

それは変わりようのない、どうしようもない現実だった。

放課後の帰り道。恋⼈とともに歩いた最中に起こった悲劇。

居眠り運転による事故なんて、今の時代にはありふれているものになるけれど、その対象が私やその近しい⼈に⽛を剥いたのならば。⼈はどう感じ、私はどう感じるのだろう。

あれから何だかいろんな書類を書いて、気がつけばあっという間に葬式会場だった。⾒知らぬ⼈が泣いていて、私に哀れみの視線を向けてくる。それが不思議で仕⽅がない。

悲しいなんて感情を否定する気はないけれど、⾝内だから特別悲しいということは万⼈に当てはまるものでもない。不運・不幸、どうしようもないことに偶然巻き込まれてしまったのだから、『死んでしまって悲しい』以上の感情はないのだ。

今にして思えば、あの頃の私は感情が壊れてしまっていたのだろう。唯一の姉を亡くし、感情を処理することができなかった。その結果、他人事のような感想を平然と抱けたのだ。

*****

葬儀も終わり、いろいろと疲れてしまった。何日ぶりか、自室に戻るなりベッドに倒れこむ。柔らかな布団に包み込まれても、心にかかった霧のようなモヤモヤが薄れることはない。

区切りをつけようと、優衣の遺品整理をするという名目で部屋に入った。いつぶりになるのかも覚えていない。

部屋の主を失ってから二週間経たないくらいのはずなのに、うっすらと床に埃の層ができている。家というのは誰も住まなければすぐに劣化するというのは間違いじゃないのだろう。

部屋の中はよく整理されていて、⽚付ける物なんてほとんどなかった。ベッドに机に⼩さな本棚。できるかぎり物を減らしたような部屋は、年頃の⼥⼦⾼⽣が⽣活していたにしては、どこか不自然さまで感じてしまう。

棚に置かれていた本を一冊一冊丁寧に、段ボールの中へ詰めていく。本のジャンルに統一感はないが、色々なことに興味を持っていた優衣らしいと思う。

そんな雑多な山の中に、薄いノートが混ざっていた。タイトルはなく、しかし、かなりの年季が入っているように見える。

最初はなんだか見るのは申し訳ないかなと遠慮して、段ボールにしまおうとしていた。しかし、どうにも気になって無視できない。

片付けを放り出し、ノートをめくっていく。

書かれていたのは、優衣直筆の『詩』であった。

それは一つや二つだけでなく、おびただしいほどに。そのどれもが暗く陰鬱で、どこか別の人間が書いたようにも思える。けれど、言葉選びのセンスというか、そういった細かな特徴が優衣によって書かれたものだと直感に訴えかけていた。

私は優衣を避けていた。そのことに、彼女はどれだけ傷ついていたのだろう。まったく、想像もできない。なぜなら、優衣はそんな負の感情を私の前で曝け出すこともなかったからだ。

優衣は事故で亡くなった。それは紛れもない事実。けれど、仮にそんな不運に見舞われなくとも、自分で命を絶っていた。そう思えてならない。

黒く塗りつぶされたページをさらにめくり続けると、少しずつ内容が変わっていくのが見て取れた。時期的には、優衣に交際相手ができたくらいのことだろう。そこには自殺を匂わせるような表現なんて何一つなく、ただただ相手を想う言葉が綴られていた。

妹である私にも⾒せることのなかった、優衣の真意。それが今、私の⼿元にある。

どうして優衣が詩を書いていたのか、私にはわからない。でも、ここに綴られた詩を辿っていけば、今まで⽬を逸らし続けていた優衣の本⼼を、知ることが出来るのかもしれない。

そしてなにより、優衣の詩を曲として残そうと心に決めた。どれだけ否定したところで、優衣は私の双子の姉であり、その姉はもうこの世にはいない。彼女の痕跡を残すこと。それこそが、優衣に対する贖罪なのだ。

代鏡

「はあ……なんで私がこんなこと……」

大きなため息が住宅街に反響する。清らかな日差しに照らされて、こんな悪態をつく人間はあまりいないだろう。実際、通り過ぎていく小中学生たちは私の浮かない表情を物珍しそうというか不可解なものを見物するみたいに眺めていく。

今までの私なら、もう無理だと諦めて家に帰るだろう。三日くらい寝込んでもおかしくない。けれど、ここで帰ろうにも帰れない事情がある。

目の前の一軒家。玄関前は小綺麗に手入れされていて、住民はとてもマメな人物なんだろう。

表札に書かれた『鶴音』の文字。私の姉が、人生を変えてしまうほど愛した人の家。私自身、直接会うのは片手で数えることのできるくらいしかない。

どうしてこんなことになったのか、いま一度整理しよう。そうでもしないと上手くいく気がしない。

「なあ篠宮。簡単なことなんだが、ちょっと頼まれてくれないか?」

「いやです。そう言って簡単だった試しがありません」

 職員室。学生が来たくない場所第二位くらいに入りそうな場所。もちろん、私も来ないで済むなら来たくない。

 久しぶりに登校すると、校門で「やあ」と声をかけられた。ほとんど学校に行っていない私でも知っている、生活指導の先生。爽やかな雰囲気を纏った女性で、生徒からもそれなりに人気があるらしい。

そんな先生が私に声をかけてきた。既に嫌な予感しかしなかったが、無視したらさらに面倒なことになる。ならば少しはマシなほうを選ぼうと、おとなしく連行されたのだった。

「せめて話だけでも聞いてくれないか……? 先生、泣いちゃいそうなんだけれど……」

 泣いているその演技は、どう見ても下手だった。しかし、一介の生徒、しかも不登校気質ありの人間を出待ちしてまで呼び出してきたのだ。普通のことじゃない事情があることくらい、容易に想像できる。

「わかりました……。話だけなら聞きます」

 なんだか可哀想に見えてきて、仕方がないから話だけでも聞くことにした。どうせ私は不登校なのだから、面倒なことだったら逃げてしまえばいい。向こうもそれは承知なのだろうから。

 承諾の言葉を待っていたかのように、先生の顔は途端に明るくなる。生活指導の先生というともっと怖い印象があったけれど、こんなに表情が豊かなら確かに人気が出るのもわかる。

「実は、七月中旬くらいから登校していない生徒がいてね。篠宮にはその生徒の家に行ってみてほしいんだ」

「は、はぁ……。それで、なんで私が?」

 それはただの学生には荷が重いんじゃないだろうか。というか、そもそも私は訪ねる側ではなく訪問される側である。なおさら意味が分からない。

「もちろん、私もそうだしその生徒の担任をしている先生も、家庭訪問にいったよ。けれど、どうにも上手くいかなくてね……。それで、その生徒と関係性のありそうな篠宮さんに声をかけることになったんだよ」

「事情はよく分かりましたけど……私とかかわりがある同級生なんて、ほとんどいませんよ。自分で言うのもなんですが、ほとんど学校に来てませんし」

 まさか不登校のカードがここにきて活用できるとは思っていなかった。先生は困ったように頭を抱えてしまっている。

「……こういうこともなんだが、篠宮さんがダメだと先生たちも打つ手なしなんだよ。鶴音さん、精神的にかなり参っているみたいでね……。あの子の心に声が届けられるかもしれないのは……」

「いいですよ。わかりました」

 即答。即決。たしかに、これは私じゃないとできないことかもしれない。私以外に努められる人は、もうこの世にいないのだ。

 態度が大きく反転した私の様子に唖然としているところ申し訳ないとは思う。しかし、決めた以上は決意が揺らがないうちに。

「先生、弦音さんの家の場所、教えてください。そのお話、引き受けます」

**

 ああ、もう嫌だ。帰りたい。ポケットの中に入った二つの缶コーヒーを弄びながら、頭を抱える。『私にしかできないこと』はイコール『私がやらなきゃいけないこと』ではないのだ。

 あの時、どうしてやる気になってしまったのだろう。考えるまでもなく即答してしまった。それは簡単だ。先生の口から『弦音』という名前が出たからという、至極単純な理由。

 優衣の彼女だった人、という印象しか、私にはない。一応、優衣から惚気話という形で聞いたこともあるし、本人とも多少話したこともある。そこまでしても印象が薄いのは、単に私が人間に対してそこまでの興味がないからだろう。

 それでも、記憶の中から関連していそうな記憶を掬い上げて、歪ではあるけれどどうにか仕上げた。優衣の代わりになることは絶対にできなくとも、話を聞くことくらいはできるだろう。その先は……またその時になったら考えればいい。

 もう一度大きく息を吸って、吐く。

 どうにかなる気はやっぱりあんまりしないけれど、最低限私にできることくらいは為してみよう。

 表札を横目に敷地に入る。既にご両親は承諾済みで、私が来る頃には彼女一人になっているはずだ。

 呼び鈴を鳴らす——出ない。

 もう一度、呼び鈴を鳴らす——やっぱり出ない。

 やっぱり、本人にもあらかじめ言っておくべきだったのだろうか。でも、私は直接の連絡先を持っていないし、仮に持っていたところで、どんなことを送ればいいのかもわからない。

 最後に、もう一度だけ鳴らそう。登校時間までまだ時間はあるが、でてくるかもわからないのに長居しても仕方がない。

もし出てこなかったら、先生に連絡して学校に行こう。あるいは、連絡だけ連絡して家に帰ってもいい。秋とはいえ、まだまだ残暑はある。学校に行けるほどの体力が残っていても、行く先は教室じゃなくて保健室になりそうだ。

 人差し指で、もう一度ボタンを押す。

 しばらくすると、家の中から足音が聞こえてきた。ようやく気づいたらしい。部屋に引きこもっていると、なかなか外の音が聞こえなくなる。特に、心をやられてしまっているときなんかは、外に意識を向けることも難しいだろう。

 ドアの前で待っていると、鍵が開けられる音がした。どうせ服装は部屋着なのだろうから、わざわざ制服を着てくる必要はなかったかもしれないけれど、あいにく私は制服以外にまともな外出できる服を持っていない。

 扉が開かれる。最初の言葉は決めていた。あとは流れでどうにかしよう。

 しかしこの後、私の予想は何とも浅はかだったのだと痛感することになる。

「あーえーっと、おはよう。琴葉」

***

 気がつけばいつの間にか、学校に向かって走っていた。それも私ひとりじゃなく、琴葉と二人で。

完全なる想定外の連続。頭がまだ追い付いていない。

最初は家にお邪魔していろいろと話を聞くつもりだったのが、まさか学校に行くことになるなんて、予想できるはずもない。

その挙句、私を優衣と勘違いしているらしい。琴葉と一緒にいるときに事故が起きたはずなので、優衣がもう亡くなっていることを知らないわけがない。

とはいえ、彼女の自然な振舞いを邪魔するわけにもいかない。今の琴葉は、ギリギリのバランスで成り立っている。それは素人の目にも明らかだ。もし私が迂闊にペースを崩したりでもしたら、彼女の心は壊れてしまうだろう。あるいはもう、壊れてしまった後なのかもしれない。

「もっと早く来てよ! 遅れちゃいそうじゃん!」

「そ、そんなこと私に言わないでくれない⁉」

面倒なことに関わってしまった。だれかに責任を押し付けることもできない状況に、怒りというよりも後悔が湧いてくる。

 これからどうするか。そもそも琴葉にバレていないだろうか。もしバレてしまったら、あるいは違和感を持たれた時点でアウトだろうか。

そんな負の妄想が頭の中で渦巻きだしたせいか、少しだけ早歩きになってしまっていた。いつの間にか琴葉の声が背中のほうから聞こえてくるくらいの距離が離れていた。

「ゆい、ちょっと走るの、はやい!」

 文句が聞こえてくる。普段の私なら無視するかもしれないが、今は琴葉の彼女である『優衣』を演じ切らなければいけない。

でも、言葉がなかなか出てこない。こんなとき、優衣なら何て言葉を返すのだろう。

「先生。私には無理です。どうにかしてください」

 どうにか学校に着いた私は琴葉と別れ、一目散に職員室に向かった。相手は先生、何なら生活指導担当。けれど、言わなきゃいけないことはちゃんとあるし、はっきりと言わなければ伝わらないことでもある。

 扉を乱雑にノックすると、待っていたかのように先生が出てきた。少し驚いているような、いろいろと言いたいことがありそうな雰囲気だったが、まずは私の話を聞いてもらう必要がある。

「今の琴葉、素人にどうこうできる状態じゃないですよ。これ以上は専門家に任せたほうがいいと思いますけど」

 こんなにスラスラと言葉が出てくるのはいつぶりだろう。それくらい、私はこの件に対して文句を言いたかった。

 先生は頭をわしゃわしゃしている。次の発言によっては、私はもう二度とこの件に関わることはない。そうなったら手詰まりだから、言葉を必死に選んでいるのかもしれない。

 職員室には当然、ほかの先生もいる。けれど、誰も横槍を入れてこない。しかし当然だ。私自身も唯一の姉を亡くしているのだから、教員的には面倒ごとになることを避けたいのだろう。

————— 時間が過ぎたころ、ようやく口を開いた。

「……正直、先生としては驚いてるんだ。不登校だった生徒がある日突然学校に来るようになるなんて、ほとんど例がないんだ。それで、篠宮。鶴音の様子はどうだったんだ?」

「そもそも私、琴葉とそこまで関係があるってわけじゃないですからね。大して参考にならないと思いますけど」

「そこをなんとか頼む! 私たち教員側も、全然事態が把握できていないんだ。少しでも知っていることがあるなら教えてほしい!」

 そう言い、頭を下げてきた。私を見つめるその目には、期待と焦りが入り混じっていたように思う。

 そこまでされてしまうと、協力しなければ今度は私が人でなしと評価されかねない。心の中でため息を吐きつつ、私は説明を始めた。

「はああああああ‥‥‥‥」

 教室に戻った私は、机に突っ伏した。ただ話していただけなのに、蓄積していた疲労が全身に広がっている気がする。二徹明けの朝、まだいけそうなのに体が動くことを拒絶しているような、まさに限界と言って差し支えない状態。

 とはいえ、疲れて突っ伏している状態でも、周りの音はしっかり聞こえる。二日連続で登校している私のことを物珍しそうに見てくる視線も、ばっちり感じている。今更気にするほどのことじゃない。

「おやおや? バックレ常連の彩愛さんじゃあないですか。」

 煽るような声。女性にしては低音で聞き心地のいい音。そもそも私に話しかけてくる人間など一人しかいない。

「希美。私だって来るときは来るんだよ。」

クラスの中で半ば異物扱いされている私だが、友人の一人くらいはいる。

「たしかにそうかもね。それで、今日は何用で来たのかな?」

「……別に。希美には関係ないことだし、巻き込みたくない」

 高校に入学して初めてできた、気の置けない友達。彼女の前では、なんだか正直になれる。

 とはいえ、琴葉の件に巻き込みたくはない。優衣が亡くなった直後は毎日のように話を聞いてもらっていたが、これ以上彼女に迷惑をかけてしまうのはなるべく避けたい。

 希美はあまり納得してないような顔をしている。

「ふーん。まあ、彩愛が言いたくないんだったらいいけどさ。ただ、あんまり一人で抱え込まないほうがいいと思うけどね」

「……ありがと」

 なんだか思わず頼りたくなってしまう。もしかしたら何かが変わるかもしれないなんて、ありもしない想像が浮かんでくる。

 教室の騒々しさが徐々に大きくなってきた。壁に掛けられた時計を見ると、もうすぐホームルームが始まる頃。せっかく来たのだから真面目に授業でも受けようかと思った矢先のことだった。

「そういえば琴葉。さっき屋上のほうに歩いていくのを見たよ」

 希美からの爆弾発言。あまりにも唐突すぎて、言葉が出てこない。

「……でも、屋上って鍵かかってるもんじゃないの?」

「彩愛は学校に来てないから知らないだろうけどさ。うちの学校、屋上のドアに鍵かかってないんだよね。何年も前から壊れてるけど、端っこにある階段からじゃないといけないし、老朽化で予算を他に回せないから放置されてるんだってさ」

 なんだか嫌な予感がする。つい数分前まではなかった最悪の事態が起きそうな気がする。もちろん、確証なんてない。でも、今の琴葉の状態を鑑みると、完全に否定できるだけの根拠もない。

「希美、ごめん。ちょっと不安になってきたかも」

「いいよいいよ、行っておいで。先生には上手く誤魔化しておくからさ」

希美の声を置き去りに、私は廊下へ飛び出した。

****

 扉の前で呼吸を整える。

 もしかしたら希美の勘違いで、屋上にいないかもしれない。しかし、もし屋上から飛び降りようとしてたらどうしようか。屋上から飛び降りそうな人にどんな声を掛けたらいいのかなんて勿論知らないし、そんな経験があるはずもない。

 出たとこ勝負。考えたところでどうしようもない。どんな状況かは扉を開けるまで分からないのだから。

 今はせめて、『優衣』として彼女に接しよう。そうすれば、最悪の事態は避けられそうな気がする。根拠はないけれど、どうしてかそう思う。

 違和感のないくらいには呼吸が整ってきた。何も起きていないことを祈りながら、ドアノブに手をかける。

 青空の下、彼女はコンクリートの床に寝転がっていた。ひとまず最悪な状況は避けられて一安心。

 琴葉は放心状態にあるようで、すぐ隣にまで接近しても全然気づかない。私の存在感がそんなに薄いのかと、なんだかこっちが心配になってくる。

 普通に声を掛けてもいいのだけれど、今の私は『彩愛』ではなく『優衣』なのだ。こんな状況で、優衣は一体どんな行動をするのだろう。一分くらい目を閉じて考える。

 ふといい案が浮かんできた私は、ポケットからまだ冷たい缶コーヒーを出して、琴葉の頬に当てた。

「お・は・よ」

「ひゃあ冷たっ!」

 思った通り、とても驚いている。こういうドッキリみたいなことは、何歳になっても面白い。

「あはは、ごめんごめん。びっくりした?」

「もちろん! 私がぼーっとしてるときにそうやって……」

「まあまあ。そのお詫びみたいな感じで、はいこれ」

 琴葉の反応でひとしきり楽しんだ私は、お詫びと称してもう一つの缶コーヒーを渡す。遊ばれた本人は不服そうな顔をしながら、手を伸ばしてきた。

「ん、ありがと。」

 早速飲み始める琴葉を眺めつつ、私は用意しておいた次の質問を投げかける。

「で、琴葉は何でこんなとこにいるのかな?」

「あー、えーっと、その……」

 琴葉は多分、隠し事が苦手なんだろう。明らかに動揺しているし、顔に『そのことについてはお問合せしないでください』と書いてある。とはいえ、あまり追求した結果、発狂でもされたらそれはそれで困る。

 優衣ならそんなことは言わないだろうけれど、掘り下げないよう強引に話を切り上げる方向にシフトしよう。

「別にサボったらダメとかなんて言わないけどさ。留年だけはしないでよね」

 琴葉は驚いた顔で、私を見つめている。

「ふーん。優衣がそんなこと言うなんて、珍しいね。意外かも」

 案の定、優衣はサボりを肯定するようなことは言わないみたいだった。今のところ違和感は持たれていないみたいだけれど、いつ受け答えに失敗するかもわからない。可能であれば、もう口を閉じていたい。

「そんなに不貞腐れないでよ~。優衣は真面目だし、私が授業に出なかったら怒ると思っただけだから」

「別に、私はそんなことで怒ったりしないよ。誰にだって気分が乗らないことはあるだろうし」

 これ以上はもう話しかけてほしくない。伝わるかは分からないけれど、私は空を見上げた。

 琴葉は私の思いを汲み取ってくれたのか、それ以上何も話しかけてくることはない。鉄柵に寄りかかり、ひたすらどこか遠くを見つめていた。

 気づけば一時間くらい過ぎていた。もうすぐ一限目の授業も終わってしまう。さすがにこのままではまずいと思った私は、静かに屋上を後にした。

 琴葉を屋上に残していくのは、やはりどこか心配ではある、けれど、屋上から突然飛び降りたりするような、そんな危ないことを起こすような様子でもない。それは、いつのまにか寝てしまった琴葉の穏やかな寝顔を見て、直感的に思ったことだった。

 駆け足で教室に戻ると、希美が待ち侘びていたかのように私のところにやってきた。

「お疲れさん。琴葉、大丈夫だった?」

「あーまあね。どうにか最悪の事態は避けられたよ。ありがとう」

「別に私、なーんにもしてないけどね。でも、一応なんとかなったならよかったよ」

 希美は手をひらひらさせながら、にこやかに言葉を投げ返してくる。軽薄そうに見えるその仕草は、私が気を使わないようにするためなんだろう。

「ねえ、希美。今日の午後って、時間ある?」

 けれど、そんな希美の思いやりに甘えてばかりではいられないのだ。私なりに感謝を伝えたいと同時に、友達相手にさえ湧いてくる心底陳腐なプライドとの妥協点でもあった。

「今日は特に用事とかないから、大丈夫かな」

「ありがとう。そしたら、場所はまたあとで」

 希美はこくりとうなずいて、私の席から離れていく。これでいったん安心できる。胸を撫でおろしていると、希美は立ち止まって私の方に振り返った。

「あ、駅前のカフェがいいかな。あそこのケーキ食べたいからさ」

*****

「ごめん! 遅くなっちゃった!」

 本日二度目の全力疾走。学校から駅前のカフェまで走ることになるだなんて、今日は予定からだいぶ外れた運動量になっている。明日は絶対に筋肉痛になるだろう。

 希美はお店の一番端っこの窓際席に座っていた。テーブルの上には既にコーヒーカップが置かれているし、なんなら本まで読んでいる。かなりくつろいでいるのは誰の目で見ても明らかだった。

 希美は隠そうともせず、栞を挟んで本を閉じた。

「私は全然大丈夫。コーヒー飲んでただけだし。とりあえず、席に座ったら?」

「うん、ありがとう」

 私は、希美の向かい側の席に座った。

「それにしても、彩愛はとっても大変だね~。授業終わった後にも先生に呼び出されてさ」

「あはは……」

 とりあえず注文だけしてしまおうと、私は店員さんに声をかけた。

「ほんと、彩愛ってカフェラテ好きだよね。私は専らブラック派閥だから、しばらく甘いもの飲んでないかな」

「カフェラテ、甘さと苦みがちょうどよくてお気に入りなんだよね。まあでも、ケーキを前にしてる彩愛が言ったところで、そんなに説得力ないからね」

「まあ、確かに?」

「そういえば、希美は私が来るまで何読んでたの?」

「あーこれ? ただの恋愛小説」

「ふーん。希美にしては珍しいものを読むね。もっとこう、殺伐としたのが好きなのかと思ってた」

「別に、私だって恋愛小説くらい読んでるからね」

「あ、殺伐としたのが好きなことについては否定しないんだ……。それで、どんな内容なの?」

「人魚のように美しい女性と、彼女に恋してしまった主人公の話」

「ほ、本当に普通の恋愛小説っぽそう……」

「彩愛は私のことをなんだと思っているのかな? そんなこと言ってると、続き話すのやめちゃおうかな」

「すみませんでした」

「よろしい。でね、まあ、結末を言っちゃうと……主人公の最後が描かれずに終わるんだよ。」

「希美、すごいネタバレするじゃん」

「えー、だって今の彩愛に本を読む余裕なんてないでしょ?」

「……」

「まあいいや。それで、冒頭に主人公がとても美しい女性と出会ってから物語が始まるんだけど、少しずつその女性が持つ魅力に飲み込まれていくんだよ。そんなある日、その女性は主人公の前で死んじゃってね。そこから主人公は悩んで苦しんで、最後にある覚悟を決める。そこで話はおしまい。」

「……ねえ、それってもしかして」

「さあ? 私は今の琴葉のことを知らないから何とも言えないけど、彩愛がそうだと思うんならそうなんじゃない? あ。店員さん来た」

「あ、すいません。ありがとうございます」

「じゃあ、そのカフェラテ飲んで落ち着いたなら、そろそろ話してもらおっかな。彩愛が私を呼び出してくるなんて、それ相応のことなのかなって思うんだけど」

「……何から話したらいいのか、ちょっと迷ってる」

「まあでも、大方の予想はついてるけどね。今の琴葉、結構やばいんでしょ。違う?」

「それは……そうなんだけど……」

「今朝もさっきも、それ関連で呼び出されたって感じなのは予想してる。琴葉、優衣が亡くなってからずっと引きこもってて、先生が家庭訪問しても取り合ってもらえなかったみたいな噂は聞いたことあるし」

「実は、琴葉ね。私のことを『優衣』だと思ってるみたいなんだよね……」

「んー、ちょっと何言ってるのかよくわかんないんだけど。それ、どういう状況?」

「私だってよくわかってないよ。先生に頼まれて朝家に行ってみたら制服で出てきて、それからずっと私を『優衣』って呼んでくるんだよ……」

「うわぁ。それ、やばいとかいうレベル越えてるね。先生にはもう話したの?」

「話せるわけないじゃんこんなの! やばいってことと、私の手には負えないってことくらいしか」

「ちょ、彩愛。声大きい」

「あ、ごめん……」

「まあでも、確かに理解はしてもらうのは難しいかもしれないね。仮に理解できたところで、それ以上何ができるのかってのもあるし」

「今の琴葉、明らかにおかしくなっちゃってさ。私にはどうしたらいいか全くわかんないよ……」

「結構メンタルやられてるみたいだね~。あんまり無理してほしくはないんだけど、彩愛はどうしたいの?」

「……私が、どうしたいかって?」

「そそ。言っちゃ悪いけど、彩愛には彩愛の人生があるじゃん。それって、優衣とか琴葉に影響されて決めるようなものなのかなって思うんだよね」

「……。」

「優衣には優衣の人生があって、琴葉には琴葉の人生があって。当然、私には私のもあるし、彩愛にだって自分だけのものがある。だから、最終的には彩愛自身が決めなきゃいけないんだよ。これからどうしたいのかっていうのは、彩愛の心の中にしか答えがないからね」

「それは……そうなんだけど……」

「じゃあ質問」

 希美は椅子から立ち上がり、私の目前に迫った。

「彩愛は琴葉に、どうなってほしいの?」

 —— 私は琴葉に、どうなってほしいんだろう。

 そもそも、私と琴葉に大した関係性はない。私にとっては琴葉という存在は、姉である優衣の交際相手でしかないのだ。そう、琴葉はただの姉の恋人で、私は琴葉の彼女の妹で、それ以上でもそれ以下でもない。

 ならどうして、私は琴葉に固執するんだろう。なんで私は、琴葉の家に行ったのだろう。どうして私は、優衣の代わりとして琴葉に接することを決めたのだろう。

 『私の中に答えはある。』希美はそう言った。でも、本当に私の中に答えなんてあるのだろうか。『優衣』の名を騙り、琴葉を騙し、自分自身にまで噓をつく。そんな人間が、他人の幸せを願ってもいいのだろうか。そんなことが許されるのだろうか。

 いや、許されてはいけない。自他の幸福を願うことも、自身の未来を決定することも、私は選んじゃいけない。選ぶ資格がないのだ。

「……私には、選ぶことなんて、できない。琴葉も優衣も私自身さえも閉じこもって知ろうとしなかった私には、琴葉の幸せを願うことが許されるはずがないんだよ……」

 希美は席に戻り、黙って聞いていた。

「私はもう、何一つとして願っちゃいけない。琴葉の幸せも、優衣と歩んできた過去も、知ろうとしてこなかった私に……」

 言葉が続かない。たくさんの感情が波のようにうねっているのに、表現できるだけの力がない。私の無力さを嘲笑うかのように、頬に涙が伝った。

 そんな私を見かねてか、希美が口を開いた。

「彩愛。彩愛は充分、頑張ったよ。優衣を失ったのは彩愛も同じなのに、琴葉のことを最優先に考えてさ。彩愛はさっき、『幸せを願うことは許されない』なんて言ったけど、その言葉が出てくる時点で、彩愛は琴葉の幸せを望んでいるんだよ」

「心の底では……琴葉のことを……」

「そ。彩愛は優しいから、琴葉に対して負い目を感じたんだと思うけど、優衣が亡くなったことも、琴葉が彩愛のことを勘違いしていることも、彩愛に責任があるわけじゃない。彩愛は彩愛なりに、精いっぱい頑張って考えて、屋上まで琴葉を追いかけた。それは全部、琴葉のことを想って動いた結果なんだから、負い目も引け目も感じる必要なんてないんだよ」

 負い目も引け目も、感じる必要はない。本当に?

「彩愛は、琴葉の幸せを願ってる。その心は空想でも幻想でもなく、確かなことなんだと思う。だから、まずはその気持ちに素直になること。そしたら自然と、彩愛がどうしたいのかが見えてくると思うからさ」

「私が、私のことを許すなんて、そんなこと……」

「『そんなこと、できるはずない。』彩愛はそう言いたいんでしょ。私だって、彩愛の考えがそう簡単に変わるなんて思ってないよ。彩愛って頑固なとこあるし」

「うぐっ、否定できない……かも」

「でも私、彩愛のそういうところ、好きだよ。一度決めたことはなかなか曲げないというか、そういう信念の強さみたいなとことかね」

「えーなにそれ。告白?」

「告白だとしたら、彩愛はなんて答えてくれる?」

 そう話す希美の瞳に、私の顔が反射していた。

「んー、どうだろ。私は希美のことは友達とは思っているし、大切なんだけど……優衣と琴葉みたいな関係になりたいかって言われたら、なんか違うような気もするかな」

「そっか……。ま、冗談だからいいけどね~。……って、私の顔をじっと見つめてどうしたの?」

「いや、べつに……」

「そう? とーにーかーく! 彩愛は自覚がないだけで琴葉のことを大切に想っているってこと。それが理解できたなら、琴葉に対する行動に迷いは生まれないはずだよ。それが彩愛の、彩愛自身がやりたいことなんだから」

「うん。そうだね。あとは私が決めなきゃ」

 そのとき、私のポケットが細かく振動した。スマホの通知。なんだか待ち望んでいたような、来てほしくなかったような、複雑な感情が胸を占める。

「あれ、通知音変えたの?」

「あーううん。これは優衣の携帯だよ。琴葉に連絡とれるの、これしかないから」

「ふーん。まあでも、タイミングいいんじゃない? 気持ちが変わらないうちにね」

「あはは……そうかも、ね……ねえ、なに、これ……」

 通知は希美の予想通り、琴葉から。送られてきたのは、一枚の写真だった。

「なにこれ、海岸? それにしては、どこかで見たことのあるような気がするけど……」

私の記憶にも、この写真の風景は残っている。

ここは優衣にとって大切な思い出の場所だ。まだ私が優衣と距離をとっていなかったとき、優衣に連れられて海岸まで小さな冒険をしたのを覚えている。

引き篭もるようになってから年単位で足を運んでいない。でも、優衣はたった一人で行っていたのだろうか。

いや、一人じゃない。琴葉と一緒に行っていた時期も当然あるだろう。優衣が私とも共有した思い出の場所を琴葉に紹介しないはずがない。

今日二回目の、いやな予感がする。ただの思い過ごし。その可能性のほうが高いまである。でも、だからといって無視するわけにもいかない。

私は立ち上がり、財布からお札を二枚取り出して机の上に置く。

「希美、ありがとう。私の生き方は私が決めたよ。自信は……あんまりないけどね」

「みんな、自信ないよ。それでも、悩んで苦しんででも、決めなきゃいけないことなんだよ」

「そう、なのかもね」

 私は前を向くことを決めた。それが間違いだったとしても、ほかならぬ私自身が悩んで考えて決めたのだから、後悔はしないしたくない。

「じゃあ、希美。私は行くね」

「うん。いってらっしゃい」

 ただ一つ気になったこと、心残りなこと。

 私の背中に届いた声は、なんだか寂しそうだった。

 店を出ていく彼女の姿を見送った私は、大きなため息をつく。

「こんなに置いていかなくていいのに、まったくもう。」

 置き去りにされた紙幣を眺め、仕方がないからと長財布にしまう。

 まだ残っているコーヒーを口に流し込む。広がる苦みが癖になるから、私はブラックが好きなのだ。

「ま、彩愛には理解されないかもしれないけどね~」

 窓の外を見ても、もう彼女の姿は見えない。

「あーあ。ちゃんと伝えたし、ちゃんとフラれたなぁ……。あれだけ弱ってたんだし、もしかしたら可能性あるかもって思ってたんだけど、そんなに甘くないかぁ……」

 後悔はない。最後に私の想いを伝えることができたのなら、どんな結果であっても肯定しなきゃいけない。

「でも、なんだか寂しいなぁ……。入学式の日に声かけて逃げられてからだから、琴葉なんかと比べられないくらいの時間を彩愛と一緒にいたはずなんだけど……。優衣からも彩愛からも大切にされているなんて、やっぱり妬いちゃうよね」

 最後にもう一度、残された一口分を飲み干す。心に感じた苦みも全部、コーヒーみたいに飲み干せたらいいのに。

「じゃあね、彩愛。彩愛の選択がどんなものであっても、彩愛にとって正しいよ」

選び取るのは ——

 重たい身体を、半ば無理やり起き上がらせる。自分の身体のはずなのに、全然言うことを聞いてくれない。

 なかなかうまく歩けないけれど、波打際までたどり着けさえすれば問題ない。とはいえ、一歩一歩が普段よりも小さいからか、普段なら十数秒もかからない距離がとても遠い。転ばないようにしっかりと、砂浜を踏みしめる。

 この砂浜は、私が閉じ込めていた記憶の扉をこじ開けるには十分なものを内包していた。脳裏に刻まれたあの日の波の音は二月ほど経った今でも変わらない。その普遍性が、忘れてはいけない過去を思い出させてくれたのだ。

 いや、この砂浜だけじゃない。真夜中の悪夢。ここへ来るまでに見た過去の思い出。今日という日を構成するすべての要素が、この砂浜へ私を導くために存在していたのかもしれない。

 目標にした場所まであと半分くらいといった頃、寄せる波の音と私の足音しか存在しないはずのこの砂浜に、誰かの足音が響きはじめた。その足音は、亀のように鈍い私のものよりもテンポが速く、どんどんと近づいてくる。

「——は! ……とは!」

 何かを叫びながら私の方に近づいてくる謎の存在。普段の私なら驚いて腰を抜かしてもおかしくないけれど、これからやることに比べたら大したことじゃない。

「っとは! ことは!」

 声と足音の主はついに私の背中のすぐ後ろまで近づいていた。何を叫んでいるのか判別できていなかったけれど、どうやら私のことを呼んでいるみたいだ。

 私のことを呼ぶ人など、この世界にはもう存在しない。だから、私を呼ぶ声は全て私の妄想で、これから実行することを止めたい生存本能的なところが生み出した幻聴なのだ。

 でも、どこか懐かしい気がしなくもない。欠けてしまった私の心の大きな穴に、歪ではあるけれど埋めてくれそうな心地がある。

「琴葉‼」

 はっきりと私の名前が叫ばれ、左手首を掴まれた。振りほどくほどの気力もなかった私は歩みを一度止めて振り返る。

 そこには、私の彼女とよく似た人物が、息を切らせながら立っていた。

「……彩愛」

 思ったよりも時間がかかってしまい、すっかり真っ暗になってしまった。

 まだここにいるかどうかもわからないけれど、この海岸以外に手掛かりがない状況なのだから仕方がない。

 ぼろぼろの改札を通り抜ける。私の眼前に広がるのは、見たことのない暗闇だった。街灯も家の明かりもない、純粋な黒。本で読んだことはあったけれど、実際に体験するとかなり怖い。満月の光がなければ引き返しているところだった。

 海岸へ向かう。頼りになるのはスマホのライトと月明り、そして絶えず聴こえる波の音だけだった。

 駅前の大通りを十分ほど歩いていると、遠くに人が立っていることに気が付いた。最初は近隣に住んでいる人かと思ったけれど、暗闇の奥には一切の建造物はない。もし間違えてしまったら、その時は謝ればいいのだ。

 人影はふらふらと覚束ない足取りで、ゆっくりと進んでいく。その先にあるのは、寄せては引いていく波がある。

 最悪の状況。仮に琴葉じゃなくてもいい。とにかく止めなきゃいけない。

「琴葉!」

 大きな声で呼び掛けてみるも、距離がありすぎて届いていない。琴葉の名前を叫びながら道路を横断し、人影のある方向へ走っていく。

「琴葉! ねえ、琴葉!」

 人影が歩く速度よりも、私の走りのほうが当然早い。もうすぐ追いつけるだろう。

 暗闇で感覚がつかめないが、あと数秒で届く距離にある。私の呼びかけが聞こえないわけがない。それなのに反応がないということは、案の定かなりまずそうな気がする。

「琴葉‼」

 私は当て勘で手を伸ばし、彼女の手首をつかむ。琴葉はなんだか戸惑ったように振り向いた。

「……彩愛」

**

手首をつかんでまで強引に呼び止めたのは、私が愛した人にとても良く似た顔立ちの人だった。声や顔が同じでも、今なら見分けられる。

 彼女は彩愛だ。優衣の双子の妹の『彩愛』。今日一日、私が『優衣』だと思っていた人は、遺伝情報が酷似しているだけの他人だった。

 彩愛は私の手首を強く握るだけで、何も話さない。だから私は、勝手に話を始めることにした。

「私さ、思い出したんだ。優衣はもう、死んじゃってるってこと」

 動揺。彩愛の手は少し震えていた。

「そうだよ、全部思い出した。このかいがんに二人で来た帰り道。あの後、雨が降りそうだからって急いで帰ろうとした私を庇って……優衣が車に轢かれて死んじゃったことも、全部」

 彩愛はまだ、口を開かない。

「私は優衣のいない世界で生きていく意味はないって、思ってるよ。私は人生を賭けて優衣のために生きるって決めていた。だから、優衣が隣にいない人生に、何の意味も価値もない」

「何か言いたいことがあるなら、言ってほしい。彩愛は優衣の妹だし、私のことを半ば義務感みたいなもので止めようとしてるのも知ってるよ。でも、もし止める気がないんだったら、その手を放してほしい」

 彩愛は返答と言わんばかりに、握る力をさらに強めた。

「死ぬ必要はないって言いたいなら早くして。私の気持ちを全部無視してそんなこと言えるなら、だけど」

「もちろん、私はいろんな人に感謝してる。もちろん、彩愛にも。でも、それとこれとは話が別だよ。私は優衣のために生きるし、優衣のために生きてきた。これからもそうするって、優衣と約束した。だから、私は優衣との約束を果たさなきゃいけないの。」

「……優衣は、琴葉が後を追うことなんて、望んでない!」

「どうして断言できるの? 優衣はもういないのに」

「それは、その……」

「優衣は教えてくれた。海は冷たくて孤独だって。それは紛れもない、ひとりぼっちが怖い優衣の……救済を求めた言葉だよ。あの瞬間を共有していた私にはわかる。でも……優衣と向き合ってこなかった彩愛には……わかんないよね。その証拠に、彩愛は優衣のことなんて、気持ちなんて、何も知らなかった」

 図星を突かれたのか、彩愛は無言になった。私は一度深呼吸をしてもう一度彩愛を突き放す。

「これ以上、ないんだったら、彩愛が握ってる私の手を離してほしいな。もし離さないんだったら、彩愛も一緒に……」

 私が最後通告を口にしようとすると、彩愛は突然遮った。

「琴葉、私ね。楽しかったんだ。たとえ、優衣の代わりだったとしても、琴葉の恋人になれてよかった」

「あ、彩愛?」

「琴葉がずっと、私の隣にいてくれて。琴葉が私の作った曲を聴いてくれて。琴葉と会うたびに抱きしめてくれて。とても充実してた」

「やめて、彩愛……」

「琴葉、耳をふさがずに聞いて。琴葉は覚えているかな。私と初めて会った日のこと。去年の冬、忘れもしないクリスマスの日だった。優衣の部屋で、琴葉が二人でクリスマスパーティーを開くからって家に来た時に、廊下ですれ違ったんだよ?」

「やめてやめて……」

「やめないよ、琴葉。私のこと、ちゃんとみて。私、一目惚れをするのって初めてだったからさ。ううん。誰かに恋をするのが初めてだった」

「でも、琴葉には優衣がいたから。琴葉のために曲を作って、それで満足しようとしてた。でも、私はもう、迷わない」

「……」

「あーあ。死ぬまでこの思いを打ち明けるつもりはなかったのにね。全部、琴葉のせいだよ?」

「ねえ、彩愛……。もういいよ……」

「ごめんね、琴葉。苦しめないようにって隠してたのんだけど、余計に辛くさせちゃったね。もう、琴葉のことを求めないから、許してほしいな」

「彩愛……謝らなくていいよ……。私の方こそ……」

「ううん。琴葉は悪くないよ。大丈夫」

「ねえ、琴葉。最期のお願いがあるんだけど、いい?」

「……うん」

「琴葉が、優衣のいない世界で生きていけないように、琴葉がいない世界に、私は価値を見出せないからさ。だから……」

 琴葉は言葉を遮るように、彩愛の唇に人差し指を立てた。

「それ以上はもう、言わなくてもわかるよ。一緒に終わらせよ?」

「そうだね。一緒に」

 手をつなぎ、波の向こうへと歩き出す。互いの表情は見えないけれど、そんなことはどうでもいい。

 私たち二人が望む場所へ、向かうだけなのだから。