篠澤広という少女について

 春の日の木漏れ日が差し込む部屋で、彼女——篠澤広がようやく目を覚ましました。

 まだまだ眠たくて目を擦って、まだまだ眠りたくてたまらないようなそんな顔で、起きて間もないベッドの上で頭が空を切っていて、それと対照的な一切の無秩序が許されないサラサラとした薄いブロンズの髪がどうも美しいですよ。寝起きの髪の手入れをあまり考えずともいいというのは、他のアイドルからしてみればとても羨ましいことなんだろうけれど、広はやっぱり完璧じゃないから前髪が大変なことになっていて、でもそれは多分物理的な理由が原因だからどう対策しようと無駄で無意味なのでしょうけれど、それでも広はその過程を楽しみたいのだろうからと、私は広に前髪をほんの少しだけでも切れば解決に近づくことを言いません。

 寝起きの広はまだまだ頭が働いていないみたいで、私の前で薄くぼやけた視界の中からいつも左側に着けているヘアピンを探しています。"天才"だと知りつつも、今の私の目に映るのは大凡そこら辺にいる華奢な少女でしかなくて、触れれば容易く溶けて壊れて崩れ去ってしまいそうなほどに繊細な、まるで高級な陶器と形容するに他ならない身体で、私は私が与り知らないところ場所時間空間で壊れ散ってしまわないように一生隣で見ていなければいけないと思わせてくるんですよね。

 「ねえプロデューサー」だなんて、乾燥してほんの少しカサついている声が私の耳に届いてきて、私はそれが合図だと手元に用意したペットボトルを手渡して、広はそのまま口をつけるんです。言うまでもなく広と私の心は通じあっているのですから、アイドルたるもの喉は大事だという共通認識は互いに持ち合わせているんですけれど、仮にわかりきっていてもやっぱり担当アイドルと心が通じあっているという事実は何事にも代えられない尊さというか他のアイドルとプロデューサーの関係よりも進んでいる愉悦というかそういった気分の高揚といったものに分類できるものが味わえてとても気持ちがいいんです。

 広は私が悩んでいる姿を見たらどう思うのでしょうかね。彼女は決して私のことを見捨てないのでしょうけれどでもいつか私を見限って何処かへ行ってしまうのかもしれないと思うとやっぱりどうしても恐ろしくなってしまうんですよ。彼女は私に対して普通以上の感情を向けていることは分かりきっているのに、あくまでアイドルとプロデューサーという仕事の関係でしかないのは互いに承知の上だからこそ、いつの日か諦めて私の元から離れてしまう可能性も存在しているのですが、そのことがどうも頭の奥で引っかかって離れない剥がせないというのが難しいなと思うのです。

 遠く、どことも言えない一点のようなものを見つめているあいだの私を、広がじっと見つめてくるんです。ペットボトルを満たしていたはずは半分ほど消えていて、でも広が一気にそれほど飲んでしまえば咳き込まないわけが無いのだから、私はどうやら思っているよりも長い間放心していたんでしょう。広と私の半年間の関係を振り返ると私が彼女のことを心配することはあったとしても彼女が私のことを心配することはなかったように思うし、アイドルとプロデューサーという関係を考えればプロデューサーたるものがアイドルに心配されるような状況に陥るなんて到底許されないというか正直みっともないと断じることができるくらいには私の矜持なる薄っぺらいプライドがあるわけなんですけれども広はそんな私の考えになんて見向きもせずに「どうしたの?」なんて首を傾げてくるんです。私を見つめる美しくきれいな琥珀の瞳に見つめられてしまえば私のような醜く矮小で非力な私如きが嘘をつくことなど許されないというより嘘をつくなんてできないわけで、私は思わず「篠澤さんはどこへも行きませんとよね?」なんて、焦ったように聞いてしまったんです。ああこれは終わったな、なんて思いましたよなにせアイドルに対してホンモノのメンヘラ地雷属性持ちの女性みたいな質問を投げてしまったのですから、よくて幻滅で済むかもしれませんし下手すれば密告されて一生初星学園の地下施設で労働させられるのかもしれないと思うと、これで私のプロデューサー人生が終了してしまったのだと虚無と後悔に駆られます。

 けれども彼女は私の質問を聞いてきょとんとしたような顔で「わたしがプロデューサーを見捨ててどこかにいくなんてこと、全然考えてないよ?」なんて返してきて、この時になってようやく初めて、私は自分の考えがいかに愚かで脆いものなのかを理解したんです。彼女のことを理解した気になっていた私のその愚考と言いますか担当アイドルを信じ切ることができなかった自分自身に欠けていた覚悟は儚いものなのだと、その時になってようやくわかったんです感じたんです。彼女は私のことを信じるのが当たり前だと言わんばかりの表情でいるのに、プロデューサーである私はアイドルのことを信じきれていなかったその事実は私の心を抉り取るのに十分でしたし、それ以上に私はいつからか彼女にのめり込んでしまっていたんだなというある種の恐怖体験をしていたという事実に高揚するんです。彼女は篠澤広という少女は、その魔性と形容しても過言ではない魅力によって私やファンの目を虜にすることができる天才的な能力を兼ね備えているのですから、彼女をスカウトした……いや、最初に彼女と出会った廊下から始まったこの半年間はまさに運命といったもので彼女に私の信頼値を全て賭けたことは間違いではなかったと断言できるのです。私は間違いじゃなかった、そんなことを自分に言い聞かせなければ、アイドルのプロデュースなんてこれから先訪れるであろう困難を乗り越えることなどできやしないのですから、この仕事はなんとも難しいのでしょうと思うんです。

 「プロデューサーは、わたしをもっと信頼してほしい。これからもわたしと一緒にいるんだったら慣れてくれないとプロデューサーが耐えられない。」と、琥珀の瞳で私を見つめてくるんです。彼女の目にはほんの少しの不安と心配が見え隠れしているようで、ああやっぱり私は彼女に対して何もできない無力なプロデューサーなのだと、もはやプロデューサーなどという肩書きすら相応しくないただの学生でしかないのだと改めて実感を得るのです。彼女の才能は間違いなく世界のために役立つものでアイドルにしておくには勿体無い逸材であることに違いないのですから、だからこそ余計に彼女の未来を私が支えてあげなければいけないのです。しかしわたしはどうやら病的なまでに彼女を導くことに視線が行き過ぎていて、彼女自身のことを見つめることができていなかったという事実に、当の本人から言及されたわけですからそれはもう反省と言いますか私はプロデューサーとしてまだまだなのだということが深く突きつけられる結果になったのでした。

 「ねえプロデューサー。今日はお休みの日、だからわたしとお買い物に付き合ってほしい。」って、寝巻きのままで寝起きのままでふわふわとした表情で、私に外出の誘いをしてきます。つい今し方、担当アイドルに一抹の不安を抱かせてしまったという失態を犯した私に拒否権なんぞあるわけがありませんから、「わかりました。」なんてできる限りの冷静さを取り繕って答えました。しかし所詮はその場凌ぎでしかないボロボロの布切れ未満でしかないのですから、彼女に対してぶつけてしまった私の不安感が未だ心の奥底でいつ顔を覗かせてもおかしくない状態にあることなんて、天才たる彼女の目にはお見通しなのでしょう。それでも最低限見せかけだけでも虚勢を身に纏っておかなければ私の心が今にも崩れ去ってしまうかもしれなくてとても恐ろしいんです。

 そんな生まれたての子鹿のように震えている私を見かねたのか、広は私に近づいてぎゅうっと抱きしめてくるのです。学園のどのアイドルよりも細くか細く消えてしまいそうなその白い肌と細い腕、15歳の少女の平均と比べればとても小さな胸、そして誰よりも美しく輝く国宝級ともいうべき髪が、暗い感情が渦巻く私の身体を誰よりも優しく包み込んでいました。まさか五つも離れた年下の担当アイドルに抱きしめてもらうだなんて思いもよらなかった私は呆気に取られてしまって、言葉が何も出てきません。年上だとか年下だとか関係なしに、人間というのは突然予想外の出来事に襲われると全く何もできなくなるのだと実感しました。

 「プロデューサー、すごく驚いてるね。」なんて、私にだって予想できないことがあることくらい当然なのですから、驚くのだって当たり前です。そう言い返したいのに私の頭はすっぽり小さな彼女の体に収まってしまっているために、彼女の声を聞くことくらいしかできません。彼女もそれはわかっているのでしょうか、「この前、クラスの友達からハグするとストレス解消になるって教えてもらった。プロデューサーが辛い顔をしていたから実践してみる。」なんて、私を思っての行動なのに私のことなどお構いなしで抱きしめ続けてくるんです。ああ私はもしかしたら本当に死ぬまで一生ずっと、“篠澤広”という一人の少女、一人のアイドルに身も心も囚われたままなのだろうと根拠もなく確信してしまいました。


私は彼女のために生きて、彼女のために死にたい。そんな重く苦しく独りよがりなその願いを満たしてくれるのは、“篠澤広”に他ならないのです。