輝くキミへ-再演-

序章

 私の人生には、いったい何の意味があるのだろうか。

 誰かの迷惑になることだけは避けたい。物語には悪役が必要な瞬間が多いけれど、大抵は酷い目に会っているから。誰にでも務まるものではないけれど、仮に私に適性があったとしてもちょっと嫌だと思う。

 じゃあ、誰かの役に立つことなのか。アニメに出てくるヒーローは、古今東西さまざまだ。でも、あれは空想上の存在で、現実にいるわけがない。正義の救世主が現実なのだとしたら、苦しむ人はもっと少ないはずだから。

 『ヒーロー』と称される人たちであれば、現実的にも有り得そうだ。でも、八十五億人の有象無象がひしめき合うこの世界では、本当の意味での一握りに限られる。生きる意味を求め、存在する理由を探そうとする、私のような人々は多くて。でも、スポットライトで照らされる舞台には限りがあるから。だから、わざわざ手をのばそうとする人の気持ちが分からない。

 でも、私はようやく、知ることができた。

 貴女に出会い、貴女が夢見た景色の先を見るために——

 春が解け、徐々に冬物衣装がお払い箱になる頃。

 木漏れ日が差し込む寮の一室で、篠澤広は目を覚ます。

 目をこすり、欠伸をする彼女は、まだまだ眠り足りないのだろう。起きて間もないベッドの上で、頭が空を切っている。

その無秩序な動きとは対照的に、さらさらとした薄いブロンズの髪は規則正しく揺れていて、さながら芸術品と表現して差し支えないだろう。

 寝起きでぼさぼさになってしまうという、長髪の欠点。鏡の前に立って化粧なりなんなりの準備をするとはいえ、貴重な時間を髪の整理に費やすだなんて、ギリギリまで布団に留まっていたい私からすれば、マイナスな要素でしかない。

だが、それはあくまで一般的な話。彼女の場合、どれだけ寝返りを打ったとしても、軽く櫛で梳かせば誰よりも美しいストレートに戻っていく。手入れする面倒が少なそうで、世界中の女性から羨ましがられるだろう。

 しかし、篠澤さんは大して気にする素振りもなく、ただあるがまま。前髪が少し跳ねていようと、そんな些細なことには焦点を当てていないかのように、適当に横へ流す。最近ようやくアイドルらしい魅せ方の実践に力が入ってきたように思っていたが、起床直後はまだまだ油断してしまうらしい。

 彼女が横たわるベッドの頭側に腰掛けて、深呼吸。誰かに朝の挨拶をするだけだというのにこの緊張っぷりは、相手が担当アイドルだからだろうか。それとも、単に十五歳の女の子が起きるのを待っているシチュエーションそのものに、恥ずかしさを感じているからか。

「おはようございます、篠澤さん。よく眠れましたか?」

 このやり取りをするようになってから、そろそろ一か月くらい経つ。

 毎朝のように電話を掛けても、一向に出る気配がない。最初はただ教室で待っていたが、ギリギリでの投稿や遅刻が目立つようになってきて、仕方がないから彼女の部屋まで足を運ぶようになってしまった。玄関の扉に鍵は掛かっておらず、学生寮とはいえあまりにも無防備すぎる。何度か彼女に戸締りの重要性を説いたことはあったけれど、「プロデューサーが起こしに来てくれるから、開けておいた方がお互いに便利」とあしらわれてしまった。

 寝起きの篠澤さんは当然ながらエンジンがかかっていないようで、とはいえ私がいるからかできる限りの体裁を保とうと、まだコンタクトを着けておらず薄くぼやけているだろう視界の中で、ヘアピンを探している。先に眼鏡を掛ければ楽だろうに。

「ねえ、プロデューサー。」

 乾燥してほんの少しかさついている声が、私の耳に入ってきた。それは彼女なりの『合図』であり、私は鞄の中から、冷えた水のペットボトルを渡す。

 この瞬間を切り取りさえすれば、私と篠澤さんは長年連れ添ったパートナーかのようにも思える。でも、現実はまだ出会ってからひと月ほどしか過ぎていない。人間たちの関係性、特に『信頼』と称されるものは、どうしても時間の経過が必要になってしまう。だからこそ、彼女との些細なやり取りがうまくいくたびに、心が通じ合っているんじゃないかと期待を寄せてしまう。

 アイドルとプロデューサーの関係として、果たして正しいかどうか。これについては少し目を瞑りたいと思う。毎朝のお約束かのように、アイドルの自室でアイドルを起こすプロデューサーなど、アイドル産業が盛んなこの現代でも、なかなかお目にかかれないだろう。爛れた関係性を疑われてしまったら……そのときは考えよう。

「一度に飲み干さなくていいですよ。ゆっくり飲まないと、昨日みたいに咽せてしまいますから」

どんな人であろうと、眠りから覚めてすぐに最高のパフォーマンスを発揮できる人はいない。普段なら気を付けることができている動きでも、キレイさっぱり忘れてしまうことはある。

「まさか、渡したペットボトルで溺れかけるとは……思いませんでしたけどね」

 想定外の出来事が起きようとも、難なく対処するべき。しかし、それには類稀な想像力が必要なのだと今一度知る出来事だった。

「篠澤さん。登校時間まで、あと三十分くらいしかありません。間に合いますか?」

 欠伸をして、目をこすり、まだまだ動くには時間が必要そうだ。だから私はいつも早く起こしに来るのに、篠澤さんの朝の弱さ改善には、まだまだ時間がかかる。

 冬眠明けの小動物みたいに、ゆっくりと動き出す。布団から這い出て、洗面所へと向かい出す姿を見届けて、今日も無事に遅刻ギリギリで登校することが確定してしまったことにため息を吐きそうだった。

 そろそろ学園内で、悪い意味で有名になってきたころだろうか。私があまり周囲と積極的に交流を取らないからか、実態がどうなっているかを知らない。プロデューサーとして活動していくうえでは致命的であることは重々理解しているけれど、気合だけでどうにかなるのだったら、もうすでに解決している問題だ。

「はぁぁぁぁ……」

 とても眠い。昨日も夜遅くまで課題をこなしてしまった。

 毎日適度にこなしていかないと、容易に単位を落としてしまう。これも実務で書類作業が多いからと予想しているけれど、それにしては日々積み重なる疲労が無視できない。しかし、ゆっくりと休んだ結果、課題未提出や欠席などしていたら、それはそれで問題だろう。アイドルとプロデュース契約を結んでおいて、成績不振や原級処理されたら目も当てられない。

「プロデューサー、ため息をついてどうしたの……? 嫌なことでもあった?」

 それでも篠澤さんの人生を背負うと決めたのは、私自身。課題は山積みであるものの、それを彼女に見せるわけにはいかない。

「いいえ、大丈夫ですよ。それよりも早く準備しないと、遅刻してしまいます」

 彼女に、私の弱さを見せない。絶対に揺らぐことなく、彼女の未来を照らし続ける。

 それが彼女との『契約』であり、私の『覚悟』だ。

**

「それではまた、放課後に」

「うん。また、ね」

 まったり動く篠澤さんをなんとか急かし、私たちはギリギリの時間で、学園の校門を抜けた。

 守衛室に常駐している警備員とは、入学から全然立っていないのに、既に顔を覚えられてしまった。会うたびに篠澤さんが「わたしは寝坊なんてしてない、よ。」という表情で挨拶をしているせいで、どうも私に対する印象は朝に弱いプロデューサーという風になっているようだ。いつかその誤解を解きたいが、それにはもう少し時間が必要になる。

 中庭の正面を右手に曲がったところで、私たちは別れた。

 時計を見ると、それでも登校時間までにはあと五分ほど残っている。これならまだ十分、彼女の脚でも間に合うだろう。

 今日の予定をスマホで確認しながら、一限がある講堂へと歩いていく。篠澤さんを起こしておいてなんだが、特段私も朝に強いことはない。ただでさえ最近は考え事が多く、眠りが浅いのだ。

「おはよ。今日も篠澤さんにモーニングコールしてたの?」

 後ろから肩をたたかれた。振り返ると、数少ない私と同性の同期がいた。

「おはようございます。そうですね……今日も、です」

「そっか~、毎日大変だね。ちゃんと寝られてる?」

 背が高めな私や篠澤さんとは反対に、同期はとても背が低い。その後ろ姿は彼女が担当している倉本さんと見間違えるほどで、正直可愛い。

「ええ。どうにかなんとか、隙間時間をみつけて休息を。そちらはどうなんですか?」

「ほとんど変わらないよ。相変わらず、千奈ちゃんとは仲良く上手く、地道にやれてるかな」

 彼女は笑いながら答えた。

 そう。彼女は倉本さんと、順調に結果を出していた。入学成績は最下位である倉本さんだが、彼女の愛嬌と財閥の財力をフルに活かしている。

 彼女だけじゃない。私以外の同期はみな、紆余曲折ありながらも、担当アイドルと二人三脚で歩みを進めている。一部では単独ライブを複数回行ったり、バラエティー番組に出演するなどで人気を獲得し始めているところもあるらしい。

 他人との比較はあまり褒められたことではない。アイドルごとに特性は違うし、アイドルとプロデューサーが一心同体となって成長するべきだと、講義で何度も言われ続けた。

 それでも、そういった話題を小耳に挟むと、どうしても私は他人と比べてしまう。実力至上主義の世界であるアイドル業界で生き残るには、誰よりも高いところへ行かなければならない。

 大丈夫だ。H.I.Fの選抜試験までは、まだ時間はある。焦りで逆に手痛い失敗へとつながることは、これまでの人生で何度も味わってきたこと。

 私は、彼女の人生を預かっているのだ。一度も、たった一度も、失敗するわけにはいかない。

***

「最近のプロデューサー、なんか変な気がする」

 一時間目の授業が終わった休憩のとき、わたしは机の上で頬を膨らませていた。

 ここ最近、目の下に隈ができていることくらい、わたしにはお見通し。先週くらいまではよく見ないと分からなかったけれど、今朝は目元の化粧を念入りにしているようだった。それで怪しむなと言われる方が難しい。

 プロデューサーのことだ。まだ知り合ってひと月も過ぎていないけれど、無理しないといけないくらいの激務を抱えているだけじゃないのはわかる。それが全部、わたしのためであることも。

「広ちゃん、プロデューサーさんがどうかしたの?」

「……ううん、大丈夫。なんでもない、よ」

 佑芽は周りのことをよく見ている。ほかの友達と話しているときも、わたしのことも見てくれている。ただ、小さくつぶやいたはずの独り言さえも拾い上げられるのは想定外だけど。

「そう……? でも、困っているときはお互い様だからね!」

 佑芽の優しさは、太陽みたい。誰よりも明るくて、誰よりも真っ直ぐに突き進んで、側にいるだけでみんなを笑顔にする。そんな佑芽が、今日のわたしには、少し眩しすぎた。

「困ったときは……お互い様、ね」

 その言葉がまさに必要なのは、わたしじゃなくてプロデューサーだ。いつか見るに堪えなくなったら、プロデューサーに言おうと思う。

「そういえば、佑芽はさっきから何を飲んでるの?」

 朝からずっと、佑芽は水筒の中に入った何かをこまめに飲んでいた。佑芽のことだから、ただの水だとはなんだか思えない。

 佑芽は、「ふっふっふっふ~、広ちゃん!」と、よくぞ聞いてくれましたと顔に書きながら、水筒のふたを開けた。

「これは、お姉ちゃん特製の新型SSDなの‼ あたしのために作ってくれたんだ‼」

 花海咲季特製スーパースタミナドリンク、通称SSD。あの素晴らしく健康的でディストピアの味がするドリンクに、新作が出ていたという驚きがある。

「……おいしい?」

「もちろんだよ、広ちゃん! お姉ちゃんからの愛を感じるんだよ!」

 お姉ちゃんからの、愛。

 佑芽は毎日のように、咲季のことを笑顔で話してくれる。『お姉ちゃん』って、どんなものだろう……。興味がある。

「ねえ佑芽。わたしもそれ、飲んでみたい」

 わたしが希望を伝えると、佑芽は目を輝かせた。いや、いつも輝いている気がするけれど、さらに光が強くなったような気がする。

「……ほ、ほんとに~~~‼‼‼」

「うめ、いたい……」

 肩を揺さぶられて、視界がぐちゃぐちゃになる。

「あ、ごめん……。ちょっと嬉しくて。あたしからお姉ちゃんにお願いしとく……?」

「ううん、大丈夫。お昼休みに、わたしから咲季にお願いしてみる、よ」

 わたしがお願いしたいことだから、佑芽じゃなくてわたしの言葉で伝えたい。それに、お姉ちゃんってどんなものなのかを知りたいなんて、なんだか少し恥ずかしくて言いにくかった。

らっきーせぶん

 善は急げ。

 確かにその通りだと思う。

 わたしは佑芽の話を聞いたその日のうちに、咲季に話をしに行こうと決心していた。

 一組の教室に入るのは、とても新鮮だ。わたしの交友関係がまだそこまで広くないためで、あるとすればせいぜいてまりと話すためだろうか。

 扉についたガラス窓から教室の中をのぞくと、普段遊びに行く紺色の神は見当たらない。今日は特段の用事がないのに探してしまうのは、わたしが手毬のことを気に入っているからだろうか。

 扉の近くにいた一組の子は、「月村さんならさっき、購買に走っていったよ。」と教えてくれた。わたし、そんなに手毬になついているように見えるのかな。

「咲季、いる?」

 目的の人の名前を、呼んでみる。返事がない。私の視界には赤毛の子が映っているのだけれど、もしかしたらわたしの声が小さくて聴こえていないのかもしれない。

「咲季。二位の人」

「あーーーーーもう! 聞こえているわよ‼」

 咲季の甲高い声が教室に響き渡る。

「……やっと返事してくれた」

 ことねや清夏が、わたしと咲季の掛け合いを見て笑ってる。わたしと咲季が話しているのは、そんなに面白いのだろうか。

 咲季は笑う二人に目もくれず、でも、少し複雑そうな顔をして扉の方へと歩いてきた。

「篠澤広! この前の定期試験のことで、またわたしを煽りに来たのかしら?」

 どうやらまだ、『二位の人』と呼んだことを根に持っているらしい。わたしからすればそんなに気にすることなのか不思議だけれど、佑芽と同じように勝負ごとに拘りを持っているのであれば、なんとなくわかるような気がする。

「わたしはそんなことしないよ、二位の人」

「あんたねぇぇぇぇぇぇ‼」

 咲季の声はちょっと高め。でも、流石は佑芽のお姉さんで、大きな声を出されると鼓膜が痛くなる。

「咲季、ちょっとうるさい」

 購買から戻ってきた手毬が、咲季をたしなめた。昼休みで騒がしいとはいえ、アイドルが出していい声の大きさではないだろう。

手毬に注意された咲季は、しゅんとなってしまった。

「それで、わたしに何の用かしら」

 とはいえ、それも一瞬。咲季は普段通りのテンションに戻る。

「咲季。今朝、佑芽が飲んでいたドリンクを、私にも作ってほしい」

 そう、あくまでも試飲。

 ほんとに知りたいことは、後回しでいい。

「お待たせしたわね。これが新作のSSDよ!!」

「うん。いただきます」

 相変わらず虹色に発光している不思議な飲み物は、どうやらあまり評判が良くないらしい。千奈は一口飲んだだけで倒れてしまった。

 わたしはこの独特な味が好きだった。これまで飲んできたどんな飲み物よりも独特な味がしていて、なおかつ身体にすごく良いらしい。プロデューサーはずっと「健康に気を使ってほしい」と言っていたけれど、これを飲めば本当に健康的な身体になれるかもしれないと思えてくる。

 とはいえ、『良薬は口に苦し』という言葉のように、何の苦しみもなく健康になれるわけでもない。

 口の中に広がる、なんとも形容し難い味。これは一体なんだろう。アイドルがしてはいけない顔を自分がしている自覚は ある。

 佑芽はニコニコしながらこれを飲んでいたけれど、流石に理解が難しいかもしれない。

 一気飲みすることはわたしの身体が耐えられないから、ひと口ひと口を味わいながら飲んでいく。咲季はわたしを見て笑顔になっていた。

「ねえ咲季。ちょっと飲むのに時間がかかりそうだから、椅子に座らない?」

「ええ、そうしましょう!」

 学生寮という用途に合わせ、共用スペースであるキッチンやリビングはそれなりに広い。フローリングに白い壁、暖かさを感じる木製のテーブルと椅子は、それなりに居心地がいい。

「それで、新作はどうかしら?」

 向かい側に座った咲季が、輝かせた目で問いかけてくる。

「うーん……。もしかして、素材が変わった?」

 以前と比べれば、まだ変な味がしない。千奈が常飲するには命がいくつあっても足りないが、比較的穏やかな口触りがする。

「流石ね、篠澤広! 今までのは散々な味の言われようだったから、少しだけ改良を加えてみたの」

 正解だった。秘密の変化に気がついてもらえたからか、上機嫌な咲季。佑芽と話しているときの咲季は笑顔が絶えない印象だが、その時に見せる表情に近い気がする。

「わたしは……こっちの新しいほうが好きかな」

 頻繁ではないとはいえ、やはり飲むなら味の最低保証は欲しいところ。前に作ってもらった方に不満があるというわけではないけれど、わたしのなかでは新作に軍配が上がる。

 季節の変わり目は肌寒い。それは初星学園も例外じゃなく、徐々に衣替えを検討する頃合いだった。咲季は窓の外を眺めながら、「時間が過ぎるのも早いわねぇ……」と呟く。

「咲季もそういうこと、思うんだね」

 意外だった。彼女のストイックな生活の中に、季節を感じるほどの余白があったのか。

「広はわたしのことをなんだと思っているのよ。わたしだって、空を見上げてセンチメンタルな気持ちになることくらいあるわ」

 咲季は微笑みながら、わたしに返答する。でも、視線は変わらず窓の外。頬杖をつきながら、ゆったりと時間を見つめている。

 咲季がこんな風にくつろいでいるのは珍しい。こういう時だからこそ、咲季との交流を深めておくチャンスなのかもしれない。それに、この交流の中で、わたしが咲季から教えてもらいたいことを知れるかもしれない。

「ねえ。咲季はどうして、佑芽のためにいろんなサポートをしているの?」

「その質問に対する答えは一つよ。わたしの大事な妹だから」

 即答。

 咲季の視線が、わたしへと向く。『問うまでもないことをどうして質問するのか』とでも言わんばかりの瞳。

「でも、咲季は佑芽のライバルでもあるんでしょ?」

 咲季が佑芽に行うサポートはすごい。彼女は実の妹に対する純粋な愛だけで動いている。わたしには兄弟姉妹がいないから、想像はできたとしても真の理解には遠く及ばない。

 わたしの言葉に、咲季は笑った。

「わたしはね、私に勝ちうる存在に勝ちたいのよ。それがたとえ、実の妹でもね」

「それは、どうして?」

 この際だからとことん掘り下げる。

 お姉ちゃんの目から見た佑芽は、どういう存在なのか。

「……あなたになら、話してもいいかもしれないわね」

 咲季は椅子から立ち上がって、私が座る側へと移動してきた。

「なんとなく、向かい合って話すには少し恥ずかしいわね。隣、座らせてもらうわ」

 彼女は私の左隣に座った。左利き同士、自分の利き手に干渉しない位置取りをしようとするのは共通みたいだ。

「佑芽はね、あと一日だけ遅く生まれていたら一つ下の学年だったから、同じ学年って言っても他の人と一年くらいの差があるの」

 向かい合わずに話すようにしたのは、自分の妹とのことについて語るのは気恥ずかしさがあるからだろうか。

「あの子、そのせいで同級生から揶揄われたりして、その度にわたしが乗り込んで喧嘩になったわ。懐かしいわね」

 早生まれだからと色んな酷いことを言われたのに、佑芽はそんな素振りを見せたことがなかった。佑芽はいつも元気いっぱいで、わたしや千奈、美鈴や他のクラスの子とも仲良くしている。佑芽の行動力に振り回されることはあっても、その明るい笑顔で悪い感情を抱きはしない。佑芽が誰にも負けない、取り柄だと思う。

 そして、過去を嫌な顔せず懐かしく思えるのも、咲季が佑芽と過ごしてきた時間を大切にしている証だろう。

「あるとき、佑芽は揶揄ってきた同級生たちに言ったのよ。『あたしのお姉ちゃんはすごいんだ‼』って。それでわたしは決めたのよ。あの子が嘘つきにならないように、‟すごいお姉ちゃん„であり続けようってね!」

「……そう、だったんだ」

 佑芽を嘘つきにしないため。咲季はやっぱり、妹想いの良いお姉ちゃんだった。

「……でも、どうしてわたしなら話してもいいって思ってくれたの?」

 口ぶりからして、今の話は限られた極少数、もしかしたら誰にも打ち明けていないんじゃないかとさえ思う。そんな話を、どうしてわたしにしてくれたのか。

 彼女は照れくさそうに、「広が……佑芽と友達だからよ」と返答した。

「そっか……。わたしと佑芽、咲季から見ても『友達』になれてたんだ、ね」

 『友達』という言葉は、何度声に出しても心地いい。

「佑芽、よくあなたや千奈の話を楽しそうにするもの。それに、『友達』かどうかなんて、それを決めるのはわたしじゃなくて佑芽自身だと思っているわ」

 佑芽はおしゃべりが大好きだから、咲季に色んなことを話している様子が目に浮かぶ。それを咲季はどんなふうに聞いてるのかなんて、わたしは考えたこともなかった。

「わたしは佑芽のことを独占したいなんて思っていないし、わたしのたった一人の妹だから、わざわざ独り占めする必要もないわ。むしろ、佑芽がいい友達に巡り会えて良かったと思えているのよ?」

 嬉しい言葉。これまで過ごしてきた環境では絶対に手に入らなかったであろう『友達』という存在がわたしにできたことが、第三者の目線から見ても明らかになった。

 千奈や佑芽、美鈴たちを疑ったことなんて一度もない。でも、わたしが一方的に友達だと思っている可能性が限りなく小さくとも残ってはいて、それだけが不安になっていた。

「その顔、佑芽たちが友達かどうか不安になっていたみたいね。わかるわよ、その気持ち。誰かと仲良くなったと思っても、それが本当なのか不安になることくらい、誰にだってあるわ」

「……咲季も、わたしが考えていること、分かるの?」

 咲季は、笑った。

「あなたって、結構感情が表に出るタイプよね。これくらい、お姉ちゃんをやっていたらすぐにわかるわよ」

「ふふ、さすが、おねえちゃん」

 なかなか知ることのない話を聞くことができたわたしは、飲み干して空になったコップを流し台で濯いだ。いくら身体が貧弱でも、わたしにだってコップを洗うことくらいならできる。

「ごちそうさまでした。いろんな話ができて、よかった。咲季にはお礼しないといけないね」

「別にお礼なんていらないわよ。むしろ、美味しかったって言ってもらえて、わたしの方こそ感謝したいわ」

外はすっかり日が暮れて、もうすぐ他の生徒が帰ってくる頃だろう。そしたら、この二人だけの集まりはお開きになる。

「ねえ咲季。ちょっといい?」

 なんだか、勿体無い気がした。咲季はわからないけれど、少なくともわたしはこの時間がとても有意義であったと思えて、余計に名残惜しい。

 咲季は椅子に座ったまま、わたしの方を見ていた。

「咲季はそのまま座ってて」

 不思議そうに見つめる彼女のもとへ、ゆったりと歩み寄っていく。

 咲季と佑芽の二人がしていることに興味があった。

 わたしが一体何をしようとしているのか、咲季は首を傾げていたけれど、そんなことはどうでもよくて。

 彼女の背後に回ったわたしは、大きく腕を広げて抱きしめてみる。

「?????!!?!?!?」

 わたしの腕の中で、混乱している咲季がいる。なんの脈絡もなく後ろから抱きしめてみたのだから、それは当然の反応だ。

 でも、別に咲季は驚くだけで抵抗はしなかった。わたしの貧弱な力では高が知れているのだから、力加減を誤っていないことは確かだけれど、せめて何かしらのリアクションを取るんじゃないかと思っていた。

「なにも、しないんだね。ちょっと意外」

 咲季の体はとても引き締まっていて、まさに絵に描いたような『アスリート』だと思う。でも、それでもちゃんと柔らかいところもあって、やっぱり咲季も女の子なんだななんて。

「……わたしのことを抱きしめといて、何考えてるのよ」

「あ、ばれた」

「まあ、いいわ。広がハグしてくるなんて、ちょっと驚いたけどね」

 驚いて、その先は?

 わたしの中に疑問が湧いてきてしまって、これは好奇心なのかな。

「今、咲季は何を感じているの?」

 同年代の女の子と接する経験が浅いわたしにとって、これは初めて過ごす時間だ。というよりも、わたしにとってこの初星学園で得たもの全てが新しいものだから。

 咲季はわたしの問いかけに対して、一呼吸おいて。

「なら逆に聞くわ。なんであなた、わたしのことを抱きしめたの?」

 はぐらかされるどころか、立場が逆転してしまった。でも、質問する立場よりも質問される側の方が、少しだけ居心地がいい気がする。

「……なんとなく、かな」

 最初はなんだか、『お姉ちゃん』として頑張っている彼女を励ましたかったような。でも、今わたしの中にある感情に名前をつけるのだとしたら、多分これは間違っているだろうから。

「そう……。それならわたしも、同じように返答するわ。なんとなく、でも心地がいいわね」

 なるほど。必ずしも答えを求める必要があるわけではないというのは、ちょっと不思議な感覚だった。単なる感情の発露に基づく行動に対して理由を求めることは、もしかしたら無粋になるのかもしれない。

 鎖骨周辺に回したわたしの右手に、咲季の頬が触れた。

「……佑芽からハグを求められることはよくあるけど、抱きしめられるのはなかなか新鮮ね」

「なにか変わる?」

「ええ、もちろん。あくまで佑芽はわたしの妹で、同学年だけれど本当の意味での同い年ではないから」

 それならば、その心地よさはどこからなんだろうか。

「同い年って胸を張って断言できる人とするのは、広が初めてだからじゃないかしら。『姉』としてではなく『同級生』として接することができて、肩が少し軽くなった気がするの。」

 安心感。一時的にプレッシャーから解放されて、力を抜いて息をすることができるから。

 左手で、彼女の横髪を撫でてみる。とてもサラサラして、窓から差した夕陽も反射して、綺麗。

「ねえ広。わたし、初星学園に来て良かったと思うのよ」

「わかる。わたしも、後悔してない。選んでよかったと思ってる、よ」

 同じ夢を抱えて、でもその形は人それぞれで。だから互いに切磋琢磨して、手を取り合うことができる。

 わたしも咲季も、アイドルとはまったく関係のない分野から移ってきたからこそ、わかる。もしかしたら、清夏もそうなのかな。

「ねえ、咲季。ちょっと立てる?」

 いつだったか、どこかのネット記事でみたことがある。

 ハグをするときの身長差は、七センチくらいがちょうどいいらしい。

「……ねえ」

「なによ」

 気になったことを、問いかけてみる。

「『お姉ちゃん』って、どんな感じ?」

 わたしには、いないから。

「そうね……」

 咲季は優しく、嬉しそうに、誇らしそうに。

「とっても、いいものよ」

**

「広ちゃん! お姉ちゃんのドリンク、どうだった?」

 その日の夜、わたしは寮の自室で佑芽と電話をしていた。

 咲季から話を聞いたのだろうか。わたしが本当にその後お願いしに行ったことを知っている佑芽は、脚だけじゃなく耳も早い。

「うん。とってもよかった、よ」

 嘘じゃない。実際、あれならわたしでも飲み干すことができる。千奈が耐えられるかどうかは、分からないけれど。

「そっかぁぁぁぁあぁ‼︎ えへへ……‼︎」

「……佑芽は咲季が褒められたら、自分のことのように喜べる。どうして?」

 電話越しにも伝わってくる、佑芽の喜び。姉妹揃って、感情がわかりやすい。

 それにしても、佑芽と咲季はライバル同士だというのに、なんでお互いのことが褒められると自分ごとのように喜ぶことができるのだろう。

「それはもっちろん、お姉ちゃんが大好きだから‼︎」

 お姉ちゃんが、大好き。

 咲季と話して、抱きしめて、『お姉ちゃん』のことがなんとなくわかったような気がするし、まだよくわかんないこともある気がする。

 欠けたピースがあるような気がして、それはずっと埋まることはないんだろう。わたしに兄弟姉妹がいないからだろうか。

「……じゃあ、佑芽。今度また、咲季について知りたい、な」

 でも、わたしが知らないことが多くても、それはゆっくりと知っていけばいい。

 わたしのペースで、ピースを探して、埋めていけばいいのだから。

***

 アラームが鳴り響いている。

 まだ光を受け入れたくないと主張している目を強引に開けて、わたしは周りを見回ってみる。

 ここはわたしの部屋で、当然ながら誰も居ない。卓上のアナログ時計は、普段ならあまり想像できない時刻が刻まれていた。とはいっても朝六時だから、単純にわたしが朝に弱いだけ。

 最近はプロデューサーが起こしてくれていたから、一人の朝を迎えるのは新鮮だ。とても目覚めが良いのは、咲季にもらったドリンクのおかげかもしれない。

 起きてしまって、さあどうしようか。

 部屋でプロデューサーを待っていてもいいけれど、なんだかそれはもったいない気がする。

 かといって、友達に連絡をするのも、得策じゃない。咲季も佑芽も走りに出ていて、メッセージを送ったとて、目にするのはよくて一時間後だろう。

 美鈴は考えるまでもないとして、千奈ならどうだろう。早寝早起きを心掛ける千奈なら、連絡したら返答があるかもしれない。

『おはよう、千奈。わたしは今から、学園に向かおうと思う。千奈は、どうする……?』

 とりあえず、このまま布団にくるまっていては、何も始まらない。まずは布団を出て、朝の支度をするところから始めてみようじゃないか。

 早起きという三文の徳は、わたしにはどんな形で返ってくるだろう。とても楽しみで仕方ない。

「……さ、さむい」

 足裏から伝わってくる冷気に、顔をしかめる。

 桜の季節はもう終わったとはいえ、日によっては冷え込んでいることもある。どうやら、今日がその日だったらしい。

 幸先は不安でいっぱい。でも、決めたならやるしかない。

 わたしは覚悟を決めて、布団から抜け出した。

一番星の優雅なひととき

 十王星南の朝は早い。

 太陽が完全に上りだす前、私の身体は自然と電源が入る。部屋の中はオレンジ色の間接照明でほんのり明るく、人工的な陽光の差し込みかと錯覚する。

 目が覚めたとはいっても、すぐに起きて活動できるほど、私は完璧じゃない。まだまだ布団の中に居たいし、すべてが私を許してくれるのであれば、すべてを放り出して惰眠を貪っていたい。

 だが、今日は完全休養日ではないのだ。しっかり起きて普段通りの活動をこなさなければ、貴重な一日の大半を酷い罪悪感を引きずらなければいけない。

 覚悟を決め、布団から足を出す。夏に近づいてきたとはいっても、まだまだ春は息をしていて、フローリングから登ってくる冷気は嫌になる。しかし、いったん動き出してしまえばそこまで気にならなくなるのだから、人間の適応力はなかなかに凄いものだ。

 机の上に置かれた黒のヘアゴムで髪をまとめ、洗面所で顔を洗い、いつもの黒ジャージに着替え、いつものランニングシューズを履けば、いつの間にか私の頭は働き始めている。玄関の扉を開けて新鮮な空気を吸い込めば、ついさきほどまで私を苦しめていた眠気はどこへやら。清々しさを覚える。

 速すぎず、遅すぎない、適度なペースを、一定に。

 名前も姿もよく知らない謎の鳥の鳴き声は、走るテンポの維持に一役買っている。何度か調べようと思ったことはあるけれど、走り終わって一息つく頃には、私の頭の中には影も形も残っていない。

 気になってしまう。大したことでもないし、今後生きていく上ではほとんど必要ない知識だろうし、あと十数分もすれば記憶していたことすら忘れてしまうだろう。かといって、進む足をわざわざ止めてまで知りたいほどのことでもない。

「ああもう‼」

 誰もいない河川敷。朝日に照らされ、水面が光り、輝いていく。芸術品のような美しさを横目に、私は叫ぶ。

 こんな醜態を誰かに見られていなくて、本当に良かった。仮にもし見物人がいたとしたなら、しばしの夜はあまり寝付けないだろう。

 なんともいえない感情を振り切るため、少しだけギアを上げた。

 ランニングを終えた私は、シャワーと朝食を済ませ、制服に袖を通す。

 父や母はまだ寝ている時間だ。早朝から動く私とは違い、両親は夜型の人間。夕方くらいしか顔を合わせる機会がないものの、十七歳にもなれば寂しさも感じない。

 初星学園へと向かうバスの中で、今日一日の予定を確認する。プロデューサーに勧められたスケジュール管理アプリを使いこなすために四苦八苦して、どうにか彼女みたいにうまく使えないかと、試行錯誤の繰り返し。

「星南さんは、もっと自由な発想が大事ですよ」

 私よりも詰まりに詰まったタスクを笑いながら管理している姿が、少し怖い。もちろん、こんなこと言えるわけがないが。

 初星学園の校門付近まで連れて行ってくれるこのバスは、登校時間になればどっと人で溢れかえる。生徒も教員も見境なく詰め込まれ、特定の地点を超えると閑古鳥が鳴き始める。

 何度かラッシュ時間帯に乗ったことがあるが、息が詰まりそうだった。幸いなのは、途中下車する人がいないことか。

初星学園の校門をくぐれば、私は【一番星】として息をすることになる。【アイドル】としてだけでなく、羽ばたこうとする後輩たちから尊敬され目標とされる存在として、ある種のプレッシャーを背負うことになる。

 【一番星】という称号を持つことは、とても光栄なことである。

 けれど、私の成長限界はもう到達している。天井を叩いた私の能力値は、これから成長を続けていく後輩たちに勝ち続けることはできない。

だ から私は、プロデューサーへの転身を考えた。これまで私が積み重ねてきた経験を、次の世代につなげていく。これが、私が果たすべき次の使命だと、そう思っていた。

 今なお私が【アイドル】としてステージに立つことができているのは、プロデューサーである彼女のおかげ。私が限界 だと思っていた場所がそうではないという事実に気づかせてくれたからだ。

 彼女はまだ、【アイドル】としての十王星南を諦めていない。十王星南がステージに立ち、他のアイドルと十分に渡り合うことができると信じている。

 暖かい風が、私の頬を撫でていく。

 まだまだ春。そろそろ夏。星を目指すこの場所に、新たな季節がやってくる。

 向かう先は教室ではなく、生徒会室。

 生徒会長としての仕事を確認し、今日一日のスケジューリングをする。今まで使っていた手帳と、カレンダーアプリとの相違がないかを確認し、ひと月先のイベントに必要な準備に関する打ち合わせを計画するつもりだ。

 私自身の予定だけでも、一つ一つ記録しておかなければならない。これがプロデューサーになれば倍以上になることを考えると、アイドルとは別方面で大変であることを再認識させられる。

 生徒会室の扉に、手をかける。鍵は開いていた。

 守衛さんが毎朝、私が登校する少し前くらいの時間に鍵開けも兼ねた見回りをしてくださっている。毎朝早く私が登校するからと時間を合わせていただいていることが、本当にありがたい。

「おはようございます」

 こんな朝早くから生徒会室に来る生徒は、生徒会のメンバーも含めて考えたとしても、誰もいない。とはいえ、挨拶はしておくに越したことがないし、別に損をするわけでもない。

「あ、星南。おはよう」

「……え」

**

 アイドルたるもの、教養は大切だ。幅広く知識を持っておくことで、活動だけでなくアイドル卒業後の進路においても力になる。

 元々、初星学園は普通科だけの学校であったこともあり、そうした一般教養に関して学ぶ環境は整っている。アイドル科と言えど、座学やレッスンだけではないのだ。

 『目を疑う』という表現は、たしか以前、現代文の授業で読んだ問題にあったような気がする。

 たった今、私の目の前に流れている光景に対して抱く感想として適切であるかはわからないけれど。

 明後日の方向へと走り出した思考を引き留め、まずは落ち着いて状況を確認する。どんなときにも動じてはならないと、プロデューサーから受けたアドバイスだ。

「あら、おはよう。朝、早いわね」

 彼女は本を読んでいた。

 タイトルは見えないけれど、それなりの分厚さがあるように感じる。

「ん。おはよう」

 彼女は私が入ってきたことなど気にも留めていないようで、視線は手元に落ちていた。

 ドアの付近で彼女と会話を続けなければいけないほど、時間が足らないことはない。荷物を下ろして、一息ついてからでも遅くはないだろう。

 黒板の前を通り、いつもの定位置である窓側中央の座席へと向かった。生徒会室の中には、ローファーの踵が床を叩く音と、広が時折ページをめくる音だけが響く。

「なにか不測の事態が起きたときは、まずは冷静さを取り戻すことが肝心です。たとえば、普段のルーティーン通り、あるいは決められたマニュアルに従うことで、思考する時間を確保するとかですかね」

 以前、彼女から聞いたことが頭の中で反芻された。プロデューサーを目指さずとも役に立つ力であるが、そもそも事前準備を怠らなければ予期せぬ事態にならないんじゃないかと思ってもいた。

 おそらく、これは私に対する試練かもしれない。この先、芸能であれ他の分野であれ、何処でも遭遇しうる突発的なことに対し、適切な対処ができるか否か。その練習と見極めであるのだとしたら……。

(私の地力が試されそうね……。)

 まずはそう、落ち着くことから。

 広がいるとはいっても、いつも通りに過ごしていて問題ないのだ。

 背負っていた鞄を机に下ろした私は、教室後方に備えられた水道へと行き、湯沸かしポッドを手に取る。

「お湯を沸かすけれど何か飲むかしら?」

 広は、少し悩むような顔をして、「コーヒー。星南が飲んでいるのと同じで、大丈夫」と答えた。

「ええ。わかったわ」

 二人分の水をポッドに入れ、スイッチを押す。だいたい五分くらいで沸くだろうか。

 この時間が一番暇だ。

 気分はさながら、カップラーメンの出来上がりを待っているとき。何か手を付けようと思っても、三分では大したことができやしないが、手持無沙汰で待つ三分もそれはそれで苦しいものがある。

でも、今日は違う。これからどう会話を広げていくべきか、考えておかなければならない。

 生徒会長として、生徒会室に来ていたことの理由は聞いておかなければならない。でも、最初から本題のボールを投げたとて、微妙な空気感になってしまうことは容易に想像つく。

「こういうときは……天気の話題から振ってみましょうかしら」

 考えを巡らせていたからか、水はあっという間に沸騰した。インスタントコーヒーの小袋を入れたカップ二つに注いでいく。給湯室にコーヒーのほんのり苦い香りが、鼻腔を突いた。

 両手に一つずつ持って机に戻ると、彼女は変わらず同じ席で、本を読んでいた。

 彼女が座る机にコーヒーカップとミルク、砂糖を一つずつ置いて、私は自身の席へと戻る。

「ありがとう、星南。いただきます」

 本を開いた状態で机に置き、口をつけた。

「コーヒーはブラック派かしら?」

「ううん。ミルクと砂糖が入ってた方が好き」

 たしかに、微かだけれど苦そうな顔をしているように見える。

「でも、せっかく星南が作ってくれたから、ね。これも挑戦」

「あら、嬉しいわね。でも、あんまり無理をしなくてもいいわよ」

 私も口をつける。カフェインはあまり健康に良くないが、朝に飲むのは眠気覚ましにちょうどいい。

 思い返してみると、広と話したことはあまりない。生徒会メンバーの千奈や佑芽、美鈴の間で話題に出る程度で、直接のかかわりを持つことなどほとんどないのだから当然であった。

 彼女の経歴は、見事なものだと思う。弱冠十五歳にして海外の大学を卒業し、世界中の学者から活躍を期待されていた。彼女が初星学園の門を叩いた今でも、これまでの彼女の人生で消えることはない実績だ。

 いつか、その頭脳や技術を借りる時が来るかもしれない。今のうちから関係をよくしておくのも悪くはないだろうか。

 さて、何故かわからないとはいえ、可愛い後輩がいるというのに、無視してスケジュール確認するのも忍びない。

私は、どうにか彼女と話そうと話題をひねり出そうとした。

 こういう時に不思議なのは、どうでもいいときは沢山アイデアを思いつくのに、肝心な時に出てこない。なかなか不思議なものである。

 目線を置く場所に困った私は、窓の外へと向けることにした。桜の花びらは徐々に散って、緑が生い茂り始めている。

「ねえ。朝によく鳴いている鳥って、なんなのかしら」

 樹の幹から飛び立っていく鳥を見て、思い出す。朝のランニングで定期的に気になっていつつも、いつも調べずに終わってしまう。解決するなら今しかない。

 広は本にしおりを挟んでパタンと閉じ、私の方へと向き直ってコーヒーカップに口をつけた。

「星南が聞いた鳴き声の鳥は、多分キジバトだと思う。朝によく、自分の縄張りを主張したりするために鳴いているみたい」

「……あなたは、なんでも知っているわね」

 彼女は微笑んだ。その姿はまるで、美しい彫刻のようだった。彼女が見せた自然な笑顔を‟可愛い„と感じたのは事実で、彼女も私と同じ【アイドル】なのだと思った。

「実はね、今日はプロデューサーに起こされずに起きられたんだ、よ」

「あら。そうなのね。健康的で良い習慣だと思うわよ」

 私が次の話題を切り出すまでもなく、自分から話し始めた。

「ううん。わたしは寝起きが悪いから、いつもは電話で起こしてくれる」

 彼女のプロデューサーは大変だ。しかし、電話で起きなければどうするつもりなのだろうか。いつか私がプロデュースをする立場になったら、なにか参考にできるかもしれない。

「もし、電話で起きなかったときは、プロデューサーさんはどうしているのかしら?」

「いつも起きれないから、プロデューサーがわたしの部屋まで来て起こしてくれてる」

 前言を撤回したい。流石になにかしらの事案に触れそうな気がする。でも、毎朝のようにことねを起こしに行く生活も、それはそれで充実しているのかもしれない。

「でも、今日はちゃんと目が覚めた。だから、千奈とここで待ち合わせしてる。本当は生徒会室の前にいたんだけど、守衛さんが中で待っていていいって、言ってくれた」

「そ、そう……」

 心を落ち着かせるためにコーヒーをもう一口飲む。あまり深く事情を知らない守衛さんが提案したのなら、これ以上彼女を攻める意味はない。

「そうだ。星南に聞きたいことがある」

「私に答えられることなら、大丈夫よ。なにかしら?」

 もう一口、飲む。このほろ苦さがクセになる。

「プロデューサーをデートに誘うなら、どうやってしたらいいと思う?」

「………………⁉」

 危うく飲みかけを吹き出しそうになった。

「ええっと、それってどういう意味のデートかしら?」

 これは動揺しても仕方がないと思う。私は悪くない。

「今度の初星学園の創立記念日で、プロデューサーとおでかけしたい。でも、誘ったことないから、どうしたらいいかわからない」

 ほっと胸を撫でおろす。

 表現の問題はあったが、単なる買い物であれば何も問題はない。

「普通に誘ってみたらいいんじゃないかしら。広よりは少し年上だけれど、外出に誘うことくらいなら普通に承諾してくれそうな気がするわね」

 担当アイドルに誘われて、嫌がるプロデューサーはいないだろう。

 広は少し考えて、「わかった」と返した。

「ありがとう、星南。普通に予定聞いて、誘ってみる」

「いいえ、大丈夫よ」

 少々驚いた瞬間もあったが、杞憂に終わって安心した。

 プロデューサーとアイドルによる不貞行為は、互いの年齢が近い以上起こりえる可能性は十二分にある。それらに該当するような内容じゃなかったことは、喜ばしいことではないだろうか。

「ん、千奈から連絡きた。教室に向かってるらしい」

 スマホを確認した篠澤さんは、本を携えて教室の扉へと向かっていく。

 去り行く背中に、私は声を掛けた。

「ありがとう。最初は教室にいて驚いたけれど、私はいつでも歓迎よ」

「ん。じゃあ、また来るかも、ね」

 篠澤さんが扉を閉め、ようやく私は一人になる。

 天井を見上げ、ひと呼吸。朝からハプニングだったが、これはこれでたまには悪くないだろう。

 私の優雅なひとときは、まだもう少しだけ終わらない。

***

「篠澤さん。どちらに行かれていたんですか?」

 私が学園に到着したとき、篠澤さんは既に私のことを待っていた。

「生徒会室。千奈を待っていたら、星南が来て、少し話した、よ」

「……そうですか。十王会長と…‥」

 彼女の行動は、想像の斜め上を行く。今に始まったことじゃない。

 普段通りの朝。

 珍しくモーニングコールで目を覚ましてくれたため、私たちは空き教室兼事務所でまったりとした時間を過ごしていた。

 篠澤さんから、昨日の放課後にあったらしい話を聞く。花海姉妹から、なにか良い影響を受けたようだ。

「な、なるほど……」

 良い話をしてくれたところ、大変に申し訳ないけれど、睡眠時間が足りない頭を強引に動かしているせいか、いまいち状況を呑み込めていない。

「確認ですが、篠澤さんは花海さんを通じて、姉妹愛について知ろうとしたところ、よくわからなかった……ということですか?」

 こくんと頷かれた。私の解釈は間違っていないらしい。

 だが、篠澤さんは致命的なことが記憶から抜け落ちているみたいだ。ここで一度修正しておこうか。

「私が一人っ子なこと、篠澤さんはご存知でしょう?どうして私に……?」

 えっ、と驚いた表情だがそれはおかしい。絶対どこかで話したはず。

「……プロデューサーの包容力で、勘違いしてたかも、ね」

「誤魔化そうとしても無駄ですよ。忘れていたと正直に白状したら、この会話は忘れましょう」

 篠澤さんにはいつも、ふとした瞬間を切り取られてからかわれている。これくらいであれば、天罰が下ることもないだろう。

 私がここまで強気に出るとは思わなかったようで、篠澤さんに若干の焦りが見える。珍しくて、少し面白い。

「……プロデューサーのおに。あくま」

「形勢不利になったからといって、小学生レベルの悪口で逆転を図ろうとするのは、流石にいかがなものでしょうか。」

 彼女らしくない。

 出会った頃の彼女は、もう少し穏やかで、感情表現に乏しかったように思う。でも、昔というほど昔じゃないが、最初の時期と比べれば、感情の変化が表に出てくるようになったかもしれない。

 何を言っても勝てないと悟ったのか、篠澤さんは「むぅ……」と難しい顔をして、教室を出ていった。

 時計を見ると、まもなく八時。そろそろ、多くの生徒が教室へと来る頃合いか。今日は午前中から夕方まで講義が入っているから、私も動かなければいけない。

「……それにしても」

 眠い。どうしようもないくらいに。

 これまでの人生で、もっとも濃密な一か月だった。これまでの学校生活とは全く違うものになることくらい、高校卒業前に何度も言われてきたことだ。覚悟を決めて、それに値するだけの準備もしてきたつもりだった。

 しかし現実に待ち受けていたのは、想像以上のタスク量と時間のなさを痛感させられる日々。アイドルプロデュースという社会的地位の高さにも納得する。画面の向こうのアイドルだけでなく、プロデューサーも命を削っているのだということを。

 少し、休息が必要かもしれない。

 立てておいた予定通りに進んでいないのは、単なる疲労の蓄積によるもの。デスクワークが基本であるがために、肩と腰を動かすたびに痛みを感じる。眼精疲労も無視できないし、篠澤さんと交わした先ほどの他愛無いやりとりを振り返ってみるまでもなく、頭もろくに働いてない。

 それでも、私は決めたのだ。アイドルプロデューサーとして、彼女を輝くステージに押し上げるのだと。彼女と出会ったあの日を思い出しながら、私はどうにか身体に鞭を打って動き出すことにした。

季節は過ぎていく

 春が終わり、夏が来る。

 外出に適した気温の日は徐々に数を減らしていき、肌寒さを耐えるための上着は、まもなく役目を終えようとしていた。

 つい先週まで咲いていたはずの梅や桜の花は散り、ピンクで満たされていたキャンパスは、一面を若々しい緑に染められ始めている。寂しさこそありはするが、それ以上に、季節の変わり目はワクワク感が強まる。

「美鈴、みつけた」

「あらあら、見つかってしまいましたね」

 わたしの視線の先、中庭に設置されたベンチで、美鈴はゆったり座っていた。日が差し込む場所でのんびりとする彼女の眼は、気を抜いてしまえば眠ってしまいそうだ。

「美鈴、今日はずっとここにいるの?」

 尋ねると、美鈴はこくんと頷いた。

「せっかく晴れているのですから、篠澤さんもご一緒に、ひなたぼっこでもしませんか?」

 どうしよう。とても魅力的。

 もちろん、この後授業はある。でも、それくらいならどうということはない。これがレッスンだったら話が変わるけれど。

「じゃあ、美鈴の隣に座ろうかな」

 四人掛けの真ん中、互いに肩を貸すことができそうな位置に座る。

 美鈴はふわぁとあくびをしていて、間近で見てもやっぱり眠たそうだった。

「美鈴はいつも、中庭や屋上にいる。どうして?」

 チャイムが鳴った。私の脚では、今から教室まで走っても間に合わない。

 美鈴は今にも閉じそうな目をこすりながら、「今日は、とても暖かいですね」なんてはぐらかした。

 千奈も佑芽も、わたしが授業に出席していなくて驚いているだろう。

 美鈴はまだしも、レッスンで倒れていなければちゃんと真面目に出ているわたしがいないのは、二人からすれば不自然だと思う。なにかあったんじゃないかと、このあと探されるかもしれない。

「うん。たしかに」

 美鈴が曖昧な回答するのは、いつものことだ。

 まだ出会ってから一か月と少しくらいしか経っていないけれど、なんとなく会話のペースはつかめてきた気がする。このまったりとした時間は、普段の過酷な日々の中にひと匙加えられると、彩りが増えたように思えて気分がいい。

「篠澤さんは、授業に出なくてよかったんですか?」

 空を見上げながら、美鈴は言葉を放つ。

 シャボン玉のように弾けそうで、壊さないように捕まえた。

「うん。わたし、出なくてもわかるから」

 美鈴は少し、自信家なところがある。だから、わたしも気兼ねなく強気なことを言える。

 でも、美鈴にはわたしがそんなことを言うなんて思っていなかったのか、空色に溶けそうな美鈴の目が少し大きく開いたような気がした。

「……わたし、おひさまが好きなんです」

 まったりとした時の流れに身を委ねていると、眠っていたと思っていた美鈴が口を開いた。

「おひさまが、好き? どうして?」

「そうですね……。ぽかぽかしていて、気持ちがいいんです」

「たしかに。美鈴、さっきから寝ちゃいそう」

 わたしはあまり、日差しが得意じゃない。これまでの活動圏が屋内だったせいで、身体が日光に慣れていない。

 それにしても、わたしたちが座っているベンチは、程良い日射量だと思う。存分に火の光を浴びるために茂り始めた木々の葉が、わたしたちに降り注ぐ太陽を遮っていて、居心地の良さを高めてくれている。

「篠澤さんも、眠たそうですね」

「うん。とっても心地いい」

 二人で過ごしているのに、目を合わせては話さない。

 ベンチに腰かけているのだから、わざわざ目を見て喋らなくてもいい。同じ方向を向いて、美鈴と同じ時間を共有しているのだから。

 ふと、気になったことを聞いてみる。佑芽や千奈がいないから、もしかしたら話してくれるかもしれないから。

「美鈴はどうして、レッスンに出ないの?」

 美鈴は、すごい。とってもすごい。

 不真面目で、練習にもあんまり参加しない。授業にも出ないし、みんなで練習をしようと誘っても、あんまり本気になってくれなかった。

 それでも、美鈴はわたしなんかと比べ物にならないくらい、実力を持っている。中等部時代、手毬たちとユニットを組んでいて、誰よりも上を走っていた。

 プロデューサーもクラスの子たちも、みんなが中東部の頃の美鈴を褒めていた。それと同時に、今の美鈴がどうしてこんなに真面目じゃなくなっちゃったのかと、不思議に思っていた。

 わたしは知りたかった。美鈴はわたしの友達で、もっと美鈴のことを知ってみたかった。

 風が吹き、葉が揺れて擦れる音の一つ一つが、鮮明に聞こえてくる。静かで穏やかな中庭で、美鈴が言葉を返してくれるまでの長く短い時間を、新鮮な空気を味わいながら過ごす。

「……わたしは、ゆっくり歩いていきたいんです。誰かにせかされることなく、わたしのペースで進んでいきたいんです」

 自分だけのペース、歩く速さ。

「手毬は絶対、言わなさそう」

 脳裏に、手毬の怒った顔が浮かんだ。

「まりちゃんは、わたしと歩く速さが違ったんです。わたしなんかよりも早足で、わたしよりも先に、私よりも遠くへ進んでしまいました」

 美鈴は、微笑みながら空を見上げていた。薄い鼠色の目には、いったいどんなものが見えているのだろう。

「まりちゃんは、わたしがいなくても一人で走れると思っています。ですが、まりちゃんの走る速さでは、いつか自滅してしまいます」

 たしかに、美鈴が心配に思う気持ちはわかる。

 手毬はいつも遅くまで練習しているし、そのストイックなところが手毬の長所でもあると思う。でも、あの追い詰め方ではいつか倒れてしまう。

「だから、わたしは、まりちゃんと同じ方法で、もう一度あの子の隣に立ちたいんです。わたしのペースでゆっくりと歩いて、まりちゃんよりも少しだけ追い抜いたところで、もう一度まりちゃんと一緒になりたいんです」

「……手毬のこと、すごく心配?」

 聞くまでもないほど当たり前のことかもしれないけれど。「ええ。もちろん」

 美鈴が、わたしを見る。決意の炎を抱えた、美鈴の目が。

「……美鈴には、大切な人がいるんだ、ね。ちょっとうらやましい」

 うらやましい。それが、美鈴の話を聞いた率直な感想。

 わたしには、美鈴と手毬のような、幼馴染の関係にある人は、誰一人としていない。たった一人で海外の大学に通い、研究に没頭していたせいで、同年代の友達もいなかった。周囲に残ったのは年上ばかりで、わたしを褒めることしかしなかった。

「あらあら。篠澤さんにも、倉本さんや佑芽さんという、大切なお友達がいるじゃないですか」

「うん。もちろん美鈴も、わたしの大切な友達」

「ふふ。ありがとうございます。」

 そう。今のわたしは、昔のわたしと違う。

 大事な友達がいて、切磋琢磨しあうライバルがいて、そんな恵まれた環境で、夢を目指している。

「でも、わたしは美鈴と手毬みたいに、長い時間を過ごしたわけじゃないから。やっぱり、わたしは美鈴と手毬の関係がうらやましい、な」

 わたしの知らない時間がある。不可逆の流れの中に、わたしの知らない瞬間がある。千奈や佑芽、美鈴の良いところは、わたしがどれだけ手を伸ばしても届きはしないところにも、たくさんあるだろう。

「ええ。うらやましく思われても、仕方がないのかもしれません。まりちゃんとはずっと一緒に、アイドルを目指してきたんですから」

 でも、と、美鈴は言葉をつづけた。

「篠澤さんはこれから、ゆっくりとお互いのことを知っていけばいいんです。わたしや倉本さん、佑芽さんやほかのお友達のことを、ひとつずつ。時間をかけて知っていけばいいんですよ」

「ひとつずつ……、時間をかけて……?」

 美鈴が、柔らかく笑う。

「はい。だって、わたしたちは『お友達』、ですから」

 ああ、そうか。

 わたしはどうやら、勘違いをしてしまっていたみたいだ。

「ありがとう、美鈴。わたしはわたしのペースで、みんなのこと知っていこうと思う、よ」

「いえいえ。わたしは、ただ気ままに過ごして、お友達の篠澤さんとお話をしていただけですから」

 美鈴は、口元を隠しながら、大きな欠伸をした。この中庭でくつろぎ始めて、ずいぶんと時間が過ぎていった気がする。

「みすず」

 名前を呼んでみる。眠たそうな声が返ってきた。

「なんですか……、しのさわさん……?」

「ふふ、眠そう。わたしもちょっと、眠くなってきた……かも、ね」

 たまにはこういうのも、悪くはないかもしれない。

「それじゃあ、このままわたしと、お昼寝してしまいましょう……」

「そう、だね……。そう……する……」

 視界が暗くなる。睡魔に負けてしまったわたしは、施行を放棄した。

 千奈と佑芽に見つかったらどうしようか、なんてこと、また目が覚めたときに考えればいい。

 今この瞬間は、『友達』である美鈴と一緒に、過ごしたい。

**

「あ‼ 広ちゃんと美鈴ちゃん、見つけた‼」

「あら、ほんとうですの⁉」

「でも、二人とも、気持ちよさそうに寝ちゃってるね」

「そうですわね……。秦谷さんは普段と同じような気がしますけれど、篠澤さんまで秦谷さんと一緒にお昼寝をされていますわね……」

「起こすのも悪いし、いっそのこと、あたしたちもお隣で寝ちゃう?」

「花海さん⁉ このあと、わたくしたちは授業がありますのよ‼ って、もう寝ていらっしゃいますの⁉ ……わたくし、もう、知りませんわ~~‼」

 昼下がり。

 春から夏へと移り変わる空の下。

 暖かな春風に吹かれる中庭で、四人は仲良く夢の中。

カクシタホンネは夜が明けるまで

誰よりも高く、羽ばたいて。

 さて、日本で最も高い場所と問われたら、どう答えるだろうか。

 その定義や範囲によって、もちろん変わる。

 例えば、日本で自然生成されたものであれば、まあ当然ながら富士山で、人工物なら東京スカイツリーになる。

「世界規模で考えるなら、エベレストは外せないね。建造物なら、アラブ首長国連邦にあるブルジュ・ハリファ。ドバイにある、高さ八ニ八メートルの超高層ビルなんだけど……プロデューサーは聞いたことある?」

 なんにせよ、『一番』という言葉が持つその響きは、非常に美しい。競う世界は大小問わず星の数ほど存在するが、誰よりも優れている事実、栄誉に対する憧れは、誰しも持ったことがあるものだろうか。

「わたしも、一番は好きだ、よ。なんだかんだ貰えたら、やっぱりうれしい、な」

 初星学園では、文字通りの『一番』である、〈一番星〉を求めた少女たちによって、日々の切磋琢磨が行われている。

 そうした環境で、私をはじめとした数少ないプロデューサーと契約することが叶ったならば、一歩のリードではお釣りが返ってくるほどのアドバンテージになる。

まあ、その幸運に恵まれることができるのはほんの一握りであるし、実力を認められたアイドルであれば、プロデュース契約がなくとも自身の価値を高めていくことは難しくない。

「わたしは幸運だね。こんなにダメダメだったのに、プロデューサーと出逢えて、アイドルになれたから。」

「そうかもしれませんね。出会ったのは偶然でしたけど……って、ちょっと待ってください。」

「……? なにかあった?」

 何事もなかったかのように首をかしげているが、いくら私が疲れていても流石に見逃すわけがない。

「また私の考えていることを覗きましたね?」

 思考に耽っているからバレないとでも思ったのか。しかし、明らかに私が疑問に思ったことに対して、実際に声に出して回答を差し込んできたら誰であっても不自然に思う。

 彼女のことだから、私が気付いてツッコミを入れるところまで織り込み済みなのかもしれないが。

 指摘された篠澤さんは、ムスっとした顔で言い返した。

「プロデューサーは、アイドルとデートをしているときに別のことを考えてる。それは、わたしとのデートが楽しくないから……?」

「……そんなことありません。すみませんでした」

 これは私が全面的に悪いなと、今更ながらに思う。

 今日は初星学園の創立記念日。私は篠澤さんのご希望であるショッピングモールを訪れていた。

 篠澤さんはこの日をとても楽しみにしていたようで、次から次へと店舗を移っていく。楽しんでいるのは何よりだが、はしゃぎすぎなところも否めない。これでは途中で力尽きてしまいそうな気もする。

 かくいう私はというと、実はそこまで体調が良くない。この日を確固たるものとするために、当面の活動に必要であろう申請書類をすべて作り上げて提出していた。過密に過密を重ねた強行スケジュールは、確実に私の身体に負荷をかけている。

 なによりも、この休みの直前に届いた『あの手紙』が、私の頭で主張を止めない。でも、今日だけはあらゆる縛りから解放されてもいいじゃないか。

 休息が足りていない。それゆえに、思考が明後日の方向へと走り出していく。手綱をしっかり握らなければ。

「プロデューサー、隈がひどい、ね。昨日はちゃんと寝られた?」

「大丈夫ですよ。昨日はちゃんと寝ましたから」

 彼女は私のことをよく見ていると思う。いや、私だけでなく、出会った人のことをよく見ていると言った方が正確か。

 表情や仕草、目線から相手の状態や感情を見定めるという技術は、プロデューサー科での講義でも取り扱われた内容だ。私のような女性のプロデューサー志望は稀なようで、基本的には男性が多数派。そういった中で、担当アイドルの体調変化や精神の不調にいち早く気づくには、必要な技術であるとは思う。

 彼女は、実際に技術の一端を学んだ私たちよりも高い精度で、観察をしているのだろうか。それをなし得る頭脳の高さと、気遣い力には目を見張るものがある。

 琥珀色の瞳で見つめられ、少したじろいだ。アイドルといえども、年下の女の子相手に不甲斐ないような気がするが、致し方ない。

「……篠澤さん、私の顔をじーっと見つめられても困るのですが……?」

 それでも彼女はやめない。

 ショッピングモールの大きな通路。端とはいえ、それなりに人目があるので恥ずかしい。

「……プロデューサー、隠し事は良くない。あそこのベンチで、ゆっくりお話し、しよ?」

 ようやく口を開いたと思ったら、私が内に秘めていることさえも見透かしてきたらしい。

 でもそれらは彼女に一切の関係がない。すべて私が決着をつけなければいけないのだから。話す必要もない。プロデューサーとして、彼女の人生を預かると決めた人間が負うべき最低限の責務から、逃げてはいけない。

「大丈夫です。さあ、次はどちらに行きましょうか?」

 はぐらかされてまたもやムスッとした表情になっているのは視界の隅に追いやり、彼女の左手を引いて次の目的の場所へと進んでいく。

「……またですか。調子はどうですか?」

 レッスン中に篠澤さんが倒れたとの連絡を受けた私は、保健室のベッドで顔色を悪くする彼女の前でため息をつきかける。以前と比較すれば体力がついてきたのかもしれないが、その成長具合はどんぐりの背比べと言わざるを得ない。

「……ふふ。まだまだ改善の余地あり、って感じだね。くらくらする、よ。」

「それくらいの冗談が言えるのであれば大丈夫そうですね。まったく、心配をかけられる私の身にもなってほしいです」

 彼女が倒れるのは今に始まったことじゃないし、私たちが初めて会話をしたのもこの場所だ。今も昔も、ベッドに寝かされた彼女の顔を見ると、不安で心臓が止まりそうになる。

「ぷろでゅーさーも、くるしそう。わたしの隣空いてるから、一緒に寝てみる?」

「……私は事務所に戻るので、動けるようになったらそのまま直接来てください」

 篠澤さんは左手で毛布をポンポンと叩いているが、今の私にそんな余裕はない。来週の休みをどう過ごすか、計画も立てなければいけないのだから。

「ねえ。」

 彼女が、私の袖を引っ張った。とてもとても弱い力だ。振りほどこうと思えば、いつでもできる。

「どうしましたか?」

 引き留めてまで、ここから何を言い出すのだろう。体調が悪化したのであれば、荷物を持ってきて、そばに寄り添ってあげるべきだろう。あるいは、単純に寂しいというなら、つい数瞬前の決意を捨てるかどうかの検討をしてもいいかもしれない。

 固めた意志が揺らぐのは、担当アイドルを放置してどこかへ行ってしまうことに引け目を感じているからか。『プロデューサーとしての私』と『プライベートの私』。このバランス感覚が、どうにも身につかない。

 彼女は私の目をみつめ、口をもごもごさせている。なにかを言い淀んでいる様子だった。

「……まったく、篠澤さんはどうしようもありませんね」

 この状態で放っておくのもなんだかなと思い、彼女の左頬に手を伸ばす。触れると少しずつ赤くなっていくのが、少し面白い。

 篠澤さんは私をじっと見つめ、ようやく口を開いてくれた。

「……ん。今度のお休みの日、わたしとでーと、してほしい、な」

 今度の休み。おそらくそれは、初星学園の創立記念日のことだろう。もとより空けていたし、むしろそれに向けて課題を進める必要がさらに増した。

「……わかりました。ただ、その話をする前に、篠澤さんは体調の回復が優先ですからね」

 彼女が頷いたのを確認した私は、もう一度頬を撫でてから、仕切りになっているベージュのカーテンをめくって外に出た。

「プロデューサー。この服、どう思う?」

 試着室で二人だけのファッションショーを楽しむ。売り場を一周し、気になったのを何着か彼女に渡してみたが、すべて正解だった。

「いいですね。とても似合っていますよ。篠澤さんは着こなすセンスを持っていますね」

「ふふ。プロデューサーが選んでくれたから、安心して着られる、よ。サイズもわたしにぴったりだし、やっぱりプロデューサーはわたしのこと好きすぎ」

「プロデューサーなんですから、担当アイドルの服の大きさを間違えるわけにはいきませんよ。気に入ってもらえましたか?」

「うん。ありがとう、プロデューサー」

 彼女は、満面の笑みで応えた。

「それはなによりです。それじゃあ、お会計に行きましょうか」

「え、プロデューサーが払ってくれるの?」

 こういう時の彼女は、とても律儀だ。論文の執筆でそれなりの金額を貯めているらしい。しかし、アイドルとして必要なものを買うために貯金を切り崩すのはもったいないと、私は思う。

「実は、以前に出演してもらった何本かのイベント収入に全然手を付けていなくてですね。結構シャレにならない金額が残っているんですよ」

 まだまだ成長途中ではありつつも、小規模のイベントから徐々に出演できるようになった。

 とはいえ、現時点での活動規模では、初星学園からの活動援助金だけで事足りてしまっている。銀行口座に振り込まれたイベント収益は、微々たる利息で増えていくのを待つくらいしか使い道がない。

 今後のことを考えたら残しておいた方がいいだろう。だが、このくらい安い投資である。なにより、彼女には誰よりも可愛くいてもらいたい。

「そう、なんだ。ありがとう」

 会計を終え、店から出た私たちは、これからの動きが未定。

「それじゃあ、このあとはどうしますか?」

 篠澤さんは左手の指を顎のところまでもってきて、真剣に考え始める。

 正直、近隣の県はまだしも北海道や鹿児島とかの飛行機が必須なところ、あるいは海外に遺構などと提案されない限りは、断るつもりはない。

俯いていた篠澤さんは、どうやら思いついたらしく、顔を上げた。

「そういえば、隣町の駅前公園にポピーの花畑があるって佑芽から聞いた。そこに行ってみたい、な。」

**

 お手洗いから戻ってくると、彼女はショッピングモールのベンチでニコニコしながら待ってくれていた。

 よほど気に入ってくれたのか、席を外している合間に着替えてしまったようで、淡い水色のカーディガンに袖を通していた。当然ながら、見慣れていない。

 それにしても、この色は篠澤さんによく似合う。イメージカラーに近い色味なので、似合ってくれないと逆に困ってしまうが。

 天才少女と呼ばれていた時期は確かにあるけれど、彼女はまだ十五歳。純粋な気持ちで、ファッションや景色を楽しんで、思い出を作ってもらいたい。アイドルプロデュースと並行して達成したい目標の一つだった。

 最寄りの駅の改札を抜け、ホームで電車を待つ。そういえば、学生寮で暮らす篠澤さんは、ここ最近電車に乗っているのだろうか。 どうでもいいことではあるが、少し気になった。

 平日の昼間は、さほど電車が多くない。たかが十分、されど十分。次の電車が来るまでの微妙な期間。

 隣の篠澤さんは、私の右手をしっかり握っている。彼女の握力では痛みなど程遠いが、気になったことがある。

「篠澤さん。今、私たちは手をつないでいますね」

「うん。とってもあったかい、ね」

「篠澤さんは体温が低いですね。風邪をひいてしまいそうです」

「ふふ、プロデューサ―は冗談が上手い、ね」

「ところでですが篠澤さん。私たちがしている手のつなぎ方、なんていうか知っていますか?」

「……しらない。わたし、人と手をつないだことないから」

「すっとぼけても無駄なのですが……こんなやり取りをしていても先に進みませんからね」

 言葉の応酬。いつもの光景。

「いいですか? これは〝恋人つなぎ〟と言います。どんなときに使うか、想像できますか?」

「……わたしとプロデューサーは恋人同士。だから何も間違ってないし、何の問題もない、ね」

「何を言っているんですか? 全部間違っていますし、すごく問題です」

 彼女はそっぽを向いてしまって、私の話など聞いてもいないようだった。

 こうして、いつも私は彼女に負けている。篠澤さんを出し抜けたのは、出会って少ししてから遊園地へ行ったときにネタ晴らしをした『お試し契約』くらいだろうし、あれは単に彼女がそこまで初星学園の仕組みを知らなかっただけなのだから、出し抜けたうちに入らないような気もする。

「恋人つなぎは恋人同士でするもの。つまり、恋人つなぎをしたら恋人同士で、わたしたちも恋人同士。違う、かな」

「……その理論が通用したら、どれだけいいことか」

 口に出してから、ハッとなった。完全に本音が漏れてしまっている。篠澤さんが気づいてないことを祈るしかない。

「…………‼」

 ささやかな祈りは、ささやかすぎたようで、当然ながら聞き流してくれているわけがない。

 口に手を当てて、声にならない声が耳に入ってきた。

「……篠澤さん。電車が来ましたよ」

 流れる景色を眺めながら、長い座席の端っこに、二人並ぶ。案の定、この車両には私たち以外の誰もいなかった。

 貸し切り状態の車内に聞こえるのは、走行音と私の肩に頭を預けて目を閉じる篠澤さんの寝息だけ。いろいろなところを歩きまわって、疲れてしまったのだろうか。目的地まではしばらく時間がかかるから、このまま起こさないようにしておこう。

 暖かな風が、窓から入ってきた。たしか、そう。誘われたあの日も、同じ風が吹いていた。

 あの日、事務所に戻った私は、パソコンの前で一息つく。資料整理の最中に知らせを受け、急いで飛び出したせいで、紙が散らばってしまっている。換気のために開けた窓から吹いた風が原因だろうか。

 紙を拾い集めていると、さっきの誘いが頭の中で反芻された。

***

 隣町の駅に着いた私たちは、改札を出るなり感嘆の声を上げた。

「すごいね。プロデューサー」

 辺り一面がポピーの花畑で、なんとも美しい。

 赤やオレンジ、ピンクや紫と、色とりどりの花々が織りなす風景は、額縁に入れて飾れば芸術品と見紛うほど。

「わたし、こんなにきれいな花畑、はじめて見た。連れてきてくれてありがとう、プロデューサー」

「私は何もしていませんよ。ですが、喜んでいただけたならよかったです」

 全体を眺めているのか、あるいは花一輪をひとつずつ注視しているのか。彼女の眼には、どんな絵画が映っているのか。彼女が見ている景色の中に、私の姿はちゃんと映っているのだろうか。

「プロデューサー」

 ポピーに囲まれた彼女に見惚れていた私の二歩先に、彼女は立っていた。

 視線はカラフルな絨毯に向けられて、私が立つ方向を見てはいない。でも、決して私から心を逸らすことはなく。か細く綺麗で美しく儚い音で、私を真正面から捉えていた。

「プロデューサーに出会えたから、わたしは夢を叶えることができた。まるで夢みたいな”ままならない毎日”が、とっても楽しい、よ」

「……篠澤さんのアイドル人生は、まだまだこれからですよ」

 彼女は「そう、だね」と、ほほえんだ。

 色素の薄い髪と肌。風が吹いただけで消えてしまいそうな薄氷のような脆さ。

 それでも、以前とは見違えるほどに成長したその後ろ姿に、私は少し感動しそうになっている。

 感慨深さで零れそうになった涙を隠そうと、空を見上げた。

「……? プロデューサー、泣いてるの?」

「な、泣いてなんかいませんよ。篠澤さんの気のせいじゃないですか?」

「うそ。絶対に泣いてた。」

「だから、そんなことありませんって」

 にやけている姿が容易に想像できる。私が隙を見せたら、そこそこにからかってくるのが、篠澤さんだ。

「じゃあ、これでもまだ、泣いてないって言える、の?」

 足音が近づいてくると思ったら、彼女は私の胸元へと勢いよく体を預けてきた。

「ちょ、ちょっと、篠澤さん⁉」

 突然のこととはいえ、軽い身体を受け止めることは難しくはない。

「プロデューサーの目元、ちょっとだけ濡れてる、ね」

 してやったりという瞳で、私の顔をまじまじと見つめてきた。まったく、彼女にはかなわない。

「プロデューサーは、わたしに隠し事をたくさんしてる。でも、それはたぶん、プロデューサーにとって大事なことなんだと思う」

 図星だった。

 篠澤さんに伝えていないことが数多くあるのは事実で、こうして会っている間も、心のどこかでプロデューサーとしての理想と現実で、板挟みになっている。

 しかし、それはやっぱり、篠澤さんに関係ないことだ。現状に対する負の感情が漏れ出てしまって不安にさせたのは、紛れもなく自分に責任がある。

「もし壊れちゃいそうになったら、わたしがそばにいる」

「お言葉ですが、私はそこまで軟じゃないですからね」

 精一杯の強がりでしかないが、ないよりはマシだろう。

「じゃあ、約束してほしい。わたしから、離れないって」

 彼女は私の腰に腕を回してきて、小さな声で囁いた。

「……わかりました。約束します」

 あなたと出会った時から気持ちに変わりがないなんて、直接言えるほどの度胸はなかった。

 帰り道の電車の中で、篠澤さんが呟いた。

「プロデューサー、次はどこに連れてってくれる、の?」

「今日はもう遅い時間なので、このまま帰りましょう。アイドルであるかどうかではなく、未成年であるあなたが歩いていい時間ではないですから」

「うん。それもそう。」

 篠澤さんは、あっさりと引き下がる。今日は聞き分けがいい。

「……歩き回って、疲れましたか?」

「うん。でも、楽しかった」

 扉にもたれかかる彼女の顔には疲労の汗がうかがえる。どのみち、今日のところは解散するしかないだろう。

 楽しかった。その言葉が聞けて、私は嬉しい。一番短く簡単で、多くの想いが詰まった言葉だ。

「でも、ね。あと一か所だけ、行ってみたいところがある。このまま電車で行った場所なんだけど……、どう?」

 なるほど、聞き分けがいいというのは、勘違いだったらしい。

 腕時計をちらりと見る。ここから乗り換えがないなら、学生寮の門限にも間に合う時間には戻ってこれるだろうか。

「……わかりました。ただ、今日はそこまで行ったら帰りましょう。本当に門限に間に合わなくなってしまいますから」

「そうなったら、プロデューサーの家に泊めてもらうから大丈夫。アイドルが家なき子にならないよう、プロデューサーは私を保護しなきゃいけない、ね」

「私の家にお邪魔されるくらいなら、寮長に怒られる覚悟で送り届けますよ。私はまだ、未成年略取で捕まりたくありません」

****

 篠澤さんに連れられて、私は電車を降りた。

 場所は新宿。時刻はもうすぐ十九時になる頃。

「わたし、プロデューサーとここに来てみたかった。プロデューサーは来たことある?」

「いいえ。場所は知っていましたが、実際に足を運んだことはありませんよ」

 連れられてきたのは、東京都庁。ニュースやインターネットで画像くらいしか見たことがない。

「入り口はあっちみたい。行こ」

 都庁前の芝生に寝転がる人々を横目に、私は篠澤さんに袖を引かれ、『東京都庁第一庁舎』と書かれた方へ歩いていく。

「まるで慣れていますね……。来たことありますか?」

「ううん。プロデューサーと来るのは、これが初めて」

 その言い方だと、誰かときたことがあるかどうかの否定はできていない。しかし、追及したところでそれは彼女のプライベートの範疇になるからと、これ以上は考えるのをやめた。

 『南展望台をご利用の方はこちら』という看板に並ぶ。あまり人はいない。どうやら、私たちのほかに家族連れ一組くらいしかいないらしい。

 都庁の職員らしき人に「手荷物検査のご協力、お願いします」と声をかけられた。二人でそれぞれカバンの中を開いて見せると、「ご協力、ありがとうございます」と頭を下げられて、私たちも頭を下げる。

 何分か待っていると、二基あるエレベーターの片方が降りてきたようで、扉が開くと多くの外国人がぞろぞろと出てきた。観光客だろうか。手には、浅草で買ったらしき紙袋がたくさん握られている。

「それではお待たせしました。展望台がある四十五階まで、およそ一分で到着いたします」

 私たちが乗り込むと、職員さんによってエレベーターが閉められた。

「一分で到着……、結構ゆっくり」

「ええ。あまり早いと気圧の変化で耳が詰まったりしてしまいますし、いいんじゃないですか?」

 たかが一分、されど一分。瞬きしている間に、目的の階へと到着した。

 展望台がある部屋は、売店がある中央を除いて、少し薄暗い。とても落ち着き雰囲気だ。

 どうやら、私たちと一緒に上がってきた家族以外はもう、展望台から出て行ってしまったらしい。つまり、ほとんど二人っきりだ。

「篠澤さん。私の袖から手を離したりって、検討したことありますか?」

 篠澤さんは、さっきから私の袖をつかんで離してくれない。同性同士とはいえ、担当アイドルとプロデューサーという関係では、少しまずいんじゃないだろうか。

「プロデューサーは心配しなくていい。わたしがプロデューサーの手、離さないから、ね」

「まさか、私がこんなところで迷子になるわけないじゃないですか。安心してください」

 そう、迷子になるわけがない。無論、彼女から離れるつもりもないのだから、篠澤さんが手を放してくれないことに理解が追い付かない。

 無言で手を引っ張られ、私は大きなガラス窓の前へと連れていかれた。膝くらいの高さにある台に貼られたプレートによると、この方向からは明治神宮が見えるらしい。たしかに、奥に鳥居のようなものが見える。

 篠澤さんはようやく、口を開いてくれた。

「プロデューサーは、わたしから離れない。それくらい、ちゃんとわかってる」

「……なら、どうしてですか?」

 私が投げたボールを受け止めてはくれたようだが、そのまま投げ返してはくれなかった。その代わりに、「……プロデューサーの得意な、洞察で当ててみて、ね」と言われてしまう。

 篠澤さんは私の顔を見つめながら、唇をキュッと結んだ。意思を固めたときの篠澤さんは何度か見たことがあるけれど、こんな表情になったのは初めてだった。

「……言いたいことがあるけれど、言いたくない。いいえ、それを言ってしまうと、私がまた考え込んでしまうだろうから、言うかどうか迷ってる。そんな感じですか?」

「……」

 返答は言葉ではなく、仕草。こくんと小さく、頷いた。

 担当アイドルを不安にさせたというのは、大きな失敗で、大きな罪だ。これ以上にない愚行だと思っている。

 疲労の蓄積だとか、彼女のプロデュース続行の可否だとか、そういった私個人の問題を、担当アイドルに背負わせたくないのはもちろん、知らせたくもない。そう、何度も心に決めてきたことに綻びが生じてしまった。誰かに責任を問うまでもなく、私自身の失態だ。

「私は大丈夫です。篠澤さんに迷惑なんて、かけませんから」

 虚勢だった。誰がどう見ても、そうとしか見えない。それはもちろん、目の前で心配そうな顔をする篠澤さんも、例外じゃない。

 それでも私が口だけでも大丈夫だと言い張ってしまうのは、私の弱さなんだろうか。

「……プロデューサーは、わたしと一緒にいてくれるって、約束してくれた。プロデューサーと約束した景色は、この高さから見えるものなんかとは比べ物にならないほどすごいって、信じてる」

「だから今日、最後にこの場所に連れてきたってことですか……」

 彼女が求めていたもの。それは、安心感だ。

 ままならない日常を望んだ彼女が安心感を求めるのは何とも不思議だけれど、それだけ私を大切に思ってくれていた。この期待を裏切ってしまえば、私はもう、彼女と一緒にいることはできないだろう。

「私は何度でも、篠澤さんと約束しますよ。貴女と一緒に歩いた道の先で、貴女に一番高いところからの景色を、お見せしますから」

 彼女との契約を解除する気など、私には毛頭ない。たとえ外部からの強制力が働いたとしても、私の身体が動かなくなるまでは、絶対に彼女の手を離したりしない。その気持ちだけは、これまでもこれからも、変わらない。

「……わかった。わたしとプロデューサー、二人だけの約束」

「ええ。約束です」

「きれいな夕焼けだった、ね」

「ええ。とてもきれいでした」

 ギリギリにはなってしまったが、どうにか学生寮の門限までに帰ってくることができた。今日購入したものの中で取り急ぎ必要なものだけを彼女に渡し、門の前で別れることにした。

「今日はありがとう、プロデューサー。とっても楽しかった」

 篠澤さんの笑顔。これを間近で見ることができるのは世界でただ一人、私だけ。どれだけ彼女が売れようとも、それだけは変わらない。

「篠澤さん。今日はお疲れだと思うので、明日いっぱいまでゆっくりと休んでください。明後日からのレッスンに響いてしまったら良くないですから」

「うん。わかってる。プロデューサーも、身体には気を付けて、ね」

「ええ。それじゃあ、お疲れさまでした」

 担当アイドルに心配されてしまうプロデューサーというのも頼りないものだけれど、素直に受け止めることにした。

 家に帰ったら、また課題に手を付けなければいけない。家事も残っているし、やることは山積みだ。それらを捌いてしまえば、ようやく少しは休みが取れるだろうか。

 帰り道。街灯に照らされた暗い中で、考える。私はもしかしたら、プロデューサーに向いていないんじゃないかと。笑えない冗談だ。

 篠澤さんとの約束。それを果たすまで、私は立ち止まるわけにはいかない。彼女の歩幅に合わせつつ、少しずつペースを上げて結果を出してく。それが、彼女の傍に居続けるための絶対条件。

 しばらくはまだ、寝不足な毎日が続きそうだ。だがそれは、彼女の傍から離れないための必要経費だろう。

 自室に帰ったら、どっと疲れが押し寄せてきた。

 買ってもらったものがたくさん詰め込まれた紙袋を壁際に立てかけて、ベッドに倒れ込む。全身がほんのり汗ばんでるから、本来の優先順位としてはシャワーで洗い流すこと。頭ではわかっていても、身体は言うことを聞いてくれない。

 アイドルのレッスンで少しくらい、ほんの少しくらいは体力がついたと思っていた。でも、どうやらまだ、一日遊び通すには全然足りていないらしい。

幕間

 誰かのために生きるとか、私のために死んでくれとか。そういう安っぽい言葉で描かれる作品が、好きじゃなかった。この世界で産声を上げた時点で、私の人生は私のためだけに使うべきだと、そう思っていたから。

 でも、今は少し違う。

 アイドルであるわたしのことを応援してくれる、ちょっぴり変わっているファンのみんなも、わたしを好きでいてくれる友達も、わたしのために生きてくれると誓ってくれた大好きなプロデューサーも。わたしの人生が誰かに影響を与え、わたしの生きた時間が誰かの心の拠り所になるという。そんな人生の在り方も、楽しいかもしれない。

 人間の心は難しい。明確に答えがあるわけじゃないのに、少し間違えてしまっただけで関係性にひびが入ってしまう。零れて溢れてしまった感情を受け止めてくれる器もなく、色とりどりの水が指の隙間から零れ落ちていく。

 幼少期に受けた他者からの評価は、常に足を引っ張り続けるものだと思う。

 誰からも必要とされず否定され続けた人間の性格は、歪む。ありきたりなフィクション作品で何度も扱われてきたテーマだ。純粋無垢なあの頃のことなんて一ミリたりとも覚えていないけれど、深層心理に刻み込まれたものは消えることはない。

 それに比べたら、わたしは恵まれていたのかもしれない。何をやっても成功して、わたしの行動が引き起こした結果を見て喜ぶ人たちが大勢いた。

それは決して、『愛』じゃない。

わたしが持った天賦の才に惹かれ、この頭脳だけを目当てに近づいてくる人なんて、たくさんいた。わたしのことを心の底から、『篠澤広』として愛してくれるのは、パパやママだけだと思っていた。でも、その愛情さえも、血の繋がりによるものでしかないんだという疑念がどこかにある。

誰か、わたしを見てほしい。

わたしという存在を、『篠澤広』という人間を、見てほしい。

篠澤広という少女について

 さて、ヒロ=シノサワという人間について語ってみたいと思うのだが……、何から触れてみようか。

 ああ、それならわかりやすくイメージしやすい部分から言及することにしよう。とすると、まずは『容姿』からになるのかな。

 とはいえ、私は誰かの顔や姿について論じたことなどないものだから、なかなか難しいものだ。何度も彼女と会っては、それなりに長い期間を過ごしてきたというのに、容姿は思い出すことができても気の利いた言葉が思いつかない。慣れないことはするもんじゃあない。

 ……彼女を一言で表現するならば、『無機質』という表現が適切だ。

 まだ義務教育も終えていない年齢の彼女にさえ、私たちの頭脳は敗北した。それくらいの才能を持ち合わせた彼女と初めて出会ったときに受けた印象だが、感情の起伏に乏しく一歩引いた眼で世界を見ているんだろうなと感じさせてきた。あの衝撃は凄いものがあった。言語化できないことがこれほどまでに悔やまれるとは、これから先の人生でもそう起きることじゃないだろう。

 象牙色で色素が薄い。『華美』という言葉とは真反対の、シンプルで透明感がある姿。とにかく細く、すらりと伸びた身体も相まって、アナログ時計の長針みたいだった。流石に心配になって、何度か食事に誘ったこともあったが……。研究に没頭していた彼女にとっては邪魔だったらしく、私の誘いなんて見向きもしてくれなかったが。

 まあいい。ヒロが打ち立てた功績については、もう語る必要などないだろう。日本、いや世界の文明超度を変えてしまうほど、彼女の才能は素晴らしいものであると断言できる。

 私たちが時間をかけて歩んできた道を、たった数歩で追い越していった。そのことに対して、まあ悔しさがないかと問われたら嘘になる。しかし、それ以上に、彼女が生まれ持った才能という『光』に感銘を受けたことの方が大きかった。

 人材も、資源も不足している。研究機関というのは金に困り続けている。成果の出ない研究に国は資金を出してはくれないし、資金がなければ満足な研究も行えない。だから私も日本を出て海外に向かったわけなのだが、そこで出会った同郷の少女には、大きな可能性を感じた。

 別に私が研究している分野に力を貸してほしいとまでは言わない。ただ、彼女とは年齢の差なんて関係なしに言葉と意見を交わしたこともあったから、私やほかのメンバーと同じように研究の分野で成果を挙げ、人類に貢献してもらいたいという思いはある。

 それが今は何だ。

 突如として研究施設を去っていたと思ったら、日本に帰国してアイドルに興じている。恵まれた才能が、喉から手が出るほど欲した頭脳が、無駄なことに消費されている。

 ……アイドルという存在を否定したいわけではない。

 古くから、人間の信仰心を用いたビジネスモデルは、様々な形で採用され続けてきた。恵まれた容姿、というのも、ある種の才能だろう。生まれ持ったものを使って懐を潤すのは資本主義である以上、なんら問題はない。

しかし、既に活かすことのできる場所があるというのに、彼女がどうしてアイドルを目指したのか。これが全く意味が分からない。理解に苦しむ。

 彼女の全ては知らない。一年足らずの関わりしかなく、専門分野も近いだけで同じではない。互いに影響が与えられていたんじゃないかと信じたい部分もあるが、彼女自身がわたしのことをどう思っているかは神のみぞ知る。けれど、少なくとも言えるのは。

 いるべき世界は、アイドルじゃない。

「……ん」

 ゆっくりと、瞼を持ち上げる。

降り注ぐ蛍光灯の光は、目に優しくない。暗いところから明るい場所へ一気に移動すれば、目に負荷がかかる。でもこれくらいなら、少しずつ慣らしていけば問題はない。ほら、徐々に見えてきた。

白い天井。カーテンレール。見覚えがある、というか、見覚えしかない。

 ほのかに漂ってきて、鼻腔を通っていく香り。これは消毒液だ。この数か月で何度お世話になっただろう。

 全身の筋肉が痛みを発している。痛みのメカニズムなんて、所詮は刺激を電気信号に変換して脳が認識しているだけ。簡単に言ってしまえばただの情報でしかないというのに、わたしは確かに苦しんでいる。

「あ、篠澤さん。目が覚めましたか?」

 カーテンの向こうから聞こえてきた、いつもの保健室の先生の声。間違いない。レッスン中に倒れたんだ。

 物音を立てたつもりはあんまりないけれど、わたしが目を覚ました時に漏れ出た声で気づいたのだとしたら、先生は凄いと思う。わたしのことをよく理解している。

声を出せる元気なんてこれっぽちもなかったから、わたしは返答しようにもできない。代わりに、重たい左手をなんとか動かして、金属のベッドフレームを二回ほど、優しく叩くことにした。

 ベージュのカーテンが開いた。それなりに年齢を重ねているんだろう先生が、ベッドに伸びたわたしを見つめている。

「ちゃんと目が覚めてくれてよかったですよ。今月に入って何回目ですか?」

 思い返してみる。五回くらいかな。指で示した。

「はぁ……。アイドルは体が資本! 無理なレッスンは健康に悪いですから、充分注意してくださいね」

 こくんと頷くと、先生はカーテンを閉めていなくなってしまった。今日はもう、レッスンは続行できないだろうか。アイドルにあるまじき、酷い有様だと評価してみる。

 目を閉じて、ついこの前のことを眺めてみる。こういうときじゃないと、ゆっくりとした時間は取ることができないから。わたしが歩いてきた道をちゃんと振り返って、わたしが彼女と歩んできた道は本当に存在しているんだと確かめたい。

「……レッスン中に倒れたと聞いて大急ぎで来てみましたけど、心配の必要性は薄かったかもしれません」

「あ」

 ここ数か月のこと、天井を見ながら思い出していた。変な笑みが零れている自覚はあったけれど、まさかプロデューサーに見られているなんて想定はない。

「お隣、失礼しますね。いったい何を考えていたんですか?」

 プロデューサーはカーテンを開け、ベッドの空きスペースに腰かけた。すこし、彼女の髪は伸びたかもしれない。出会った頃は完全にボブだったのに、今は肩につきそうなくらいの長さまである。あと一年くらい一緒にいてくれたら、わたしと同じ長さになるのかな。

「プロデューサーのこと。いろんなことがあった、ね」

 プロデューサーとデートして、新宿の展望台で一緒にいることを誓ってくれた。それがわたしにとってどれだけ嬉しかったことか、プロデューサーには伝わっているのかな。

「……こんな満身創痍の状態で話されると、まるで病人みたいですね」

「いつものこと、これからもそう。わたしはずっと、このままだ、ね」

「なるべく早く脱却してほしいものです。毎日のように保健室から連絡がくる私の身にもなってみますか?」

 わたしは答えるなんて野暮だと思ったから、プロデューサーの手を頬にまで持ってくる。つめたくて、心地いい。それはプロデューサーの心が暖かいから?

「とりあえず、早く回復してくださいね。無理は禁物ですが」

「そうだ、ね。気をつける、よ」

 わたしだけのプロデューサー。わたしのことを一番に考えてくれる、大切な人。

 もしもわたしがアイドルを辞めたとしても、彼女ならわたしに着いてきてくれるのかな。

「あ! 広ちゃんのプロデューサーさん!」

「は、花海さん⁉︎ 保健室ではお静かにして……」

 カーテンの向こうから、声がしてきた。ああ、いつもの友達の声。

 プロデューサーと同じくらい、安心する。すぐ隣にいてくれて、わたしと同じように頑張る友達であり、切磋琢磨しあうライバル。わたしには今まで、なかった存在。

「……お邪魔でしたかね。私はそろそろ、事務所に戻ろうと思いますよ」

 やっと事務所って呼んでくれた。空き教室なんて、言いにくかったから。わたしの癖が移ってくれた気がして、少しずつプロデューサーがわたしに染まっていく気がして。

「わかった、よ。もう少ししたら戻る、ね」

「いえ、存分に身体を休めてください。私もやるべきことが積み上がっていますから」

 そう言い残して、プロデューサーはカーテンの向こうに消えていく。一緒に居てくれてもいいのに、千奈や佑芽に気を遣ってくれたのかもしれない。わたしはプロデューサーがわたしだけを見てくれていると信じているから、二人に目移りなんてしないと思ってる。だから、そんなの考えなくてもいいのに。

あ。もしかしたら、わたしはプロデューサーに束縛が強い女なんて思われているのかも。佑芽に貸してもらった少女漫画で見覚えがある。「わたしだけを見てほしい」という感情を持っていないと言えば噓になるけれど、それ以上の信頼があるわたしにとって、わざわざ言葉にしなくたっていいんじゃないかなって……。

「ち、千奈ちゃん……。広ちゃんが、なんか難しそうなこと考えてそうな顔してるよ……?」

「あわわわ‼ 知恵熱が出てしまいますわ‼」

「大丈夫、だとおもう、よ。これくらいなら、たぶん」

 頬が熱を帯びている。でも、これはあくまでも気のせい、だろう。

「もしダメだったら、プロデューサーがどうにかしてくれる、ね」

「ち、千奈ちゃん……、広ちゃんが……‼」

「花海さん、これはもう……‼」

 二人の言いたいことが、手に取るようにわかる。でも、敢えて言わないのは野暮だから?

「恋、かも、ね」

 こういうとき、空気を読まないほうが楽しいらしい。

**

「なんだか酷く誤解をされていそうな気がする……」

 保健室から出たはいいものの、倉本さんと花海さんから感じる私への視線が、ただの『仲のいい友達の担当プロデューサー』に収まっていないような。女子高生らしいと言えば、そうのかもしれない。でも、彼女たちにとっての甘い恋愛話と、守らなければならない最低限の立場がある私にとっては……。やっぱり、笑い話で済むとは思えない。

 私は恋愛経験に乏しくない。異性はもちろん、同性も。大して興味もないこともあり、小説やドラマくらいの知識しか持ち合わせていない。それがもちろん、脚色されていることも。

 フィクションさえも満足に楽しめなかったのに、アイドルに夢を見てしまったのは何故だろう。アイドル以外の道もあったというのに。答えが出ないし、別に求めてもいないのだからいいけれど。

 事務所の扉を開けると、むわっとした熱い空気が全身にぶつかってきた。そういえば、朝に立ち寄ったきりでしばらく冷房を消したままだ。とんでもなく暑い近年の気候は、自然の風でどうにかなるような程度を軽く超えている。節電なんんて気にせず、冷房をつけっぱなしにしておくべきだった。

「これじゃあ、篠澤さんが戻ってくるまでに冷え切らない……。さあどうしよう」

 篠澤さんが溶けてしまう。冷房に即効性など期待していないし、冷えるまで教室で待っているなど、それこそ自殺行為であると思う。

「おひとりでいるときに独り言が漏れてしまうのは仕方ないのかもしれないけれど、この暑さでは少し心配になるわね……。大丈夫かしら?」

 私の頭はどうかしてしまったらしい。暑さで幻聴してきた。

「まさか。十王さんが私の背後にいるなんて、そろそろ休む必要があるかも」

「いいえ。私は幻じゃないわ。本物よ」

「……え⁉︎」

 振り返ると、美しい金色の髪にスラリと高く、モデルのように美しい十王星南が立っていた。

「……そんなに驚かれてしまうと、私が悪いみたいになってしまうじゃない」

「ええ、それはもう。篠澤さんでしたら、保健室にいますから」

「あら、そう。大丈夫かしら?」

「ま、まぁ。いつものことですから」

 十王さんのことだから何かしらの用事があるのだろう。しかしそれは九割方、私ではない。彼女にはプロデューサーがついているのだから。

「今日はあなたに用があるから、ちょうどいいわね。もし急ぎの用がないようだったら、時間をもらえると嬉しいわね」

 あなたって、私のこと? 意味がわからない。

 心当たりがない。十王さんに対して粗相をした覚えもなければ、備品を破壊した記憶もない。あるいは、篠澤さんが何かをやらかしてしまったのか? それでも、まあ彼女であれば、先に白状してくれるはず。篠澤さん自身に自覚がなければ意味はないものの。

「……拒否権というのは、ありしますか?」

「あら、ごめんなさい。お忙しいところなら改めるわよ」

 胸を撫で下ろす。どうやら躱すことができそうだ。

「次はちゃんと、プロデューサーと二人で声を掛けることにするわね。アポ取りも念入りにした上で」

「……あー。そしたらいいですよ、今」

 面倒すぎる。誰の入れ知恵だろうか。同じ学科の優秀な同期の顔が浮かんできて、それならいっそ先にこなしてしまおう。百戦錬磨の十王さん一人のうちに。

 まるで私の反応を読んでいたみたいに、彼女は笑って「それじゃあ行きましょう」と、振り返って歩き出す。着いていくしかないだろう。

***

「それじゃあ、ここに座ってもらってもいいかしら?」

 黙って頷いて、見るからに高そうなソファに腰を下ろす。材質もふわふわしていて、辛うじて想像できた金額も、一桁足りないだろう。

「最近、暑いわね。寝苦しい夜が続いて嫌になるわ」

「そう、ですね。有難みを感じます」

「分かるわよ、その気持ち。けれど、つけっぱなしだと体に悪いから困ってしまうのよ」

「十王さんは」

「星南でいいわ。その方が呼びやすいでしょう?」

 たしかに、そうではある。しかし、担当アイドルでもないのに下の名前で呼ぶのは、なんだか。

「変な感覚、ですね」

「?」

「ああ、いえ。気にしないでください。それで、星南さんは暑さ対策をどのように……?」

「そうね……。冷感シーツを使ったり、冷やした飲み物をベッドサイドに置いておくくらいかしら。あとは、凍らせたペットボトルで首の後ろや脇の下を冷やしたりもするわね」

 テレビやインターネットでたまに見る方法だ。少し意外に思う。

「私がテレビを見ていると知ると、結構驚かれるのよね。そう、あなたみたいに。私だって、これでも女子高校生よ」

「……私はあまり、高校生らしいことをしていたような記憶がありませんから。星南さんが少し羨ましく思います。アイドルをしながら年相応に遊ぶことも、大変かと思いますけどね」

「そうね。不規則な生活にならないように注意をしているところはあるわ。でも、レッスンのない放課後には、莉波とかと遊びに行くこともあるのよ。最近は生徒会が忙しくてそれどころでもないのだけれどね」

 言葉の交わし合いの中で、星南さんの意図を探している。でも、それが何処にも見つからない。彼女が求めている回答が何か、見当もつかなくて。ただ必死に平静を装い続ける。

「最近、広と出かけたそうじゃない」

「……どこからそれを?」

「広が嬉しそうに話してくれたわ。あの子、プロデューサーのことを話してくれるときが一番笑顔なのよね」

「まさか……篠澤さんが星南さんにご迷惑を?」

 だから私を捕まえたのか? 私に用があるのではなく、『篠澤広のプロデューサー』に用があると、つまりはそういうことだろうか?

「それこそ、まさか。私が広に何かを言うことなんて……あんまりないわね」

「あるには、あるんですね」

「お祖父様……学園長が、広のことを気に入ってるみたいだから。少しも気にならないのは嘘になるわね。でも、それは今日の本題じゃないわ。なんだと思う?」

 そんな質問を投げかけられても、困ってしまう。思わず左の手首を握ってしまって、少し痛い。

「……私には、思い当たる節がありません」

「そう。それなら、話は終わり。広にもそう、伝えておくわね」

「ちょっと待ってください。どうして篠澤さんのお名前が出てくるんですか?」

 星南さんは「しまった」と言わんばかりの表情で、「まあまあ、いいじゃない」と下手な濁し方をする。

 これ以上何も得られないと思って、席を立とうとする。どうせ、篠澤さんから頼まれただけなんだろう。私がまだ、ひと月ほど前のことを引き摺っていないかどうか。

 握ってしまった左手首が、痛み始めている。これは、私だけの問題で、篠澤さんにも打ち明けていないから。

「……星南さんにも、プロデューサーがついたそうですね。おめでとうございます」

「そ、それはどうも、ありがとう」

「同期の中でも話題になっていましたから。あなたが将来的にプロデューサー科を志望している、という話も耳にしています」

 あの《一番星》をプロデュースしようとする人間がいることに、とても驚いた記憶がある。私は普段、自主的に同期へ話をしにいくことは少ないけれど、こればかりは興味があった。

「あの人は……とても優秀です。私なんかよりも遥かに」

「それは、あなたが担当している『篠澤広』のプロデュースにおいても?」

 痛いところを突かれてしまった。

 篠澤さんのプロデュースにおいても、おそらく彼女であれば成果を出すことができるだろう。私が考案した、彼女に合わせた方法さえ、より良く改善を加えて。そしていつの日にか、彼女と最高峰のステージへと辿り着いている。

「それは、私なら、その……彼女よりも、いや……」

 言葉がうまくまとまらない。篠澤さんが誰かにプロデュースされているという空想が、私はどうやら受け入れることができないのだと、その表れでしかない。

「……後輩なのに、出過ぎた真似をしてしまってごめんなさい」

 茫然としてしまった私へ、星南さんは頭を下げる。

「せ、星南さんが謝る必要なんて……。むしろ私が、プロデューサーである私が、こんなに弱った姿を見せていることが、ダメなんだと……」

 ああ、口がうまく回らなくて、もどかしい。これではどちらが年上なのかも分からないじゃないか。

「いいえ、これは私の責任よ。引き際を弁えなかった、私の」

「……篠澤さんのアイドルプロデュースを引き受けた時点で、私は彼女の人生を引き受けたも同然の身です。しかし、」

 言葉を切る。

 約ひと月ほど、アイドルプロデュースを経験して、そして噂で聞いた『十王星南がプロデューサー志望である』ことが本当であると仮定して。ひとつ先を歩んだ先輩として、後輩に残すべきものがある。

「プロデューサーはアイドルの人生を背負いますが……、その逆はありません、から」

 少し滲んでいる感触がする。このブラウスはもうダメだろう。

「それでは、失礼しました」

「……あなたは、彼女にそれを、打ち明けていないんでしょう?」

「ええ、もちろん。これ以上、私は篠澤さんに背負わせられませんから」

 自己否定を辞めることなど、すぐにできるようなことじゃない。深く深く刻まれ、捩れ続けた心の紐が解けることなど、有り得ない。

「……失礼します。またいつでも、声をかけてください」

 星南さんが口を開きかけていたけれど、私にはもう興味がなかった。

拝啓 何者にもなれない私へ

 廊下に出た私は事務所に戻ろうと、突き当たりの角を曲がる。

「星南と、どんなお話してた、の?」

「……あなたの差し金ですね、篠澤さん」

 篠澤さんが聞き耳を立てているだろうことは、容易に想像ができた。しかし、彼女はあくまで何も知らないかのように、そっぽを向く。

 最近、篠澤さんが私に探りを入れているのを知っている。根尾先生がしきりに私の近況について質問をしてきたり、周りの同期が積極的に話しかけてくることも、篠澤さんが裏から手をまわしているからだろう。

「まあ、いいです。それじゃあ、そろそろ事務所に戻りましょう。冷房を入れておいたので、だいぶ快適になっているはずです」

「……ん、わかった」

 私が歩みだそうとしても、篠澤さんは立ち止まったまま。

「まだ、なにか?」

 黙って、左手を差し出される。一緒に出掛けた日を境に、彼女が日に日に近づいてくるのを感じていた。

「……仕方ないですね」

 わざわざ拒む必要もない。担当アイドルと険悪でなければ、なんでもいい。

「これから先の日程なんですけれど……、話しても大丈夫ですか?」

 事務所に戻り、長机に向かい合う。根尾先生から預かった書類のうち、篠澤さんに渡さなければならないものがいくつかある。前座とはいえライブも決まりつつあるのだけれど、しかし当の本人は机の上で溶けてしまっていた。

「プロデューサー、大変なことにわたしは気が付いた、よ」

「なんでしょう。嫌な予感がしますけど」

「最近はとても暑くて、わたしは生きていける気がしない。だから、プロデューサーからのハグが必要」

「……熱中症の初期症状でしょうか、保健室にもう一度差し戻す必要がありそうですね」

 こんなに暑いなかでハグをしようとするなんて、拷問にも等しい。

 篠澤さんが話し始めようとしたとき、胸ポケットのスマホが小刻みに震え始めた。

「……すみません。電話に出てきます」

「ん、わかった。先に書類、見ておくね」

 こういうシーンの篠澤さんは、とても心強い。こちらが求めていることを察して、確認した上で行動してくれる。幸いにも彼女に見せてはならない情報は載っていなかったので、「申し訳ないですがお願いします」と、書類の入った書類をそのまま机に置いて、事務所から出た。

「……おまたせしました。どちら様でしょうか?」

「ヒロ=シノサワのプロデューサーだね? 大学生だという噂を聞いてはいたが、声に若々しさがある」

「……もう一度聞きます。誰ですか?」

 電話口の相手は、とても飄々としている。だが、端々から感じる知性からして、相手がどんな人間か、大凡の検討がついている。

「ああ、すまない。声を使ってのやり取りは初めてだったな。以前からキミにメールを送っていたんだが、なかなか返信をもらえなかったから、第二の手段を取らせてもらったよ」

「……結論を」

「すまないすまない。喋りすぎてしまった。私は以前、ヒロと同じ研究室に在籍していたタカサキだ。ヒロとはとても仲良くさせてもらっていてね、ヒロはまだまだ若いのに優秀な学者だから、いつも研究を手伝ってもらったよ。ああ、本当にあの頃が懐かしい」

「……要件は、なんでしょうか」

 端的に話すよう求め続ける私の態度が気に食わないのか、電話越しにタカサキと名乗った女のため息が聞こえてきた。

「要件も何も、一つしかない事はわかっているだろう?」

「ヒロを返してもらおう。彼女の才能は、世界のためのものだ」

 無言で通話を切った私は、大きなため息を吐いた。

 篠澤さんがアイドルに向いていないのは、百も承知。そのうえでプロデュース契約を結んでいる。

 だが、現状の結果は芳しくない。成績は順当に右肩下がりで、とにかく成果が足りていない。アイドルとプロデューサーは一蓮托生で、アイドルの成功はプロデューサーの成功であり、アイドルの失敗はプロデューサーの失態である。このままでは篠澤さんとの契約解除を推奨されてしまうのではないかと、その恐れは日に日に積み重なっていた。

 プロデューサー科の中で完結する話で終われば、マシな部類。だが今、外部の人間からも現状に対する批判が出ている。

 正当性があろうとなかろうと、「篠澤さんから離れるべき」という声が次第に大きくなっているのは事実。そして、篠澤さんがアイドルよりも学術分野のほうが圧倒的に結果を出せるであろうことも。

 何も言い返せず、無言で電話を切ってしまった。これも単なる逃げの選択でしかないのに。

「……篠澤さん、お待たせしました。資料の件なんですけど、」

 事務所に戻れば、篠澤さんは私のことを今か今かと楽しそうに待っていた。植物みたいな無機質さの中にも宿る感情の波が、少しずつ見えてくる。

 ああ、篠澤さんとならどんな場所でも、羽ばたくことができるんじゃないかって。

**

「ねえ。最近、篠澤さんのプロデュースはどうなの?」

 ある日の講義前、同期が声を掛けてきた。

「大変だけれど、篠澤さんはかなり頑張っていますよ」

 しかし、成績に結びついていない。私が彼女の努力をフルに活かせていないことは、言わなかった。

「……相変わらず、同学年で同世代が相手でも敬語なんだね」

 呆れた表情を見せられたとて、長年染みついた丁寧語からはなかなか抜け出せないのだ。それを同期に理解してもらうには、まだまだ時間がかかるだろうが。

「そこにこだわらなくてもいいんじゃないですか。大きな違いがあるわけでもありませんから」

 彼女は「ふうん。まあいいけど。」と言い、私の隣に座ってきた。

「あなたこそ、担当アイドルの倉本さんはどうなんですか? 調子がいいとはよく聞きますけど」

「こっちもぼちぼちかなぁ。そっちからみて、千奈の様子はどう見えてるの?」

 なかなか難しい質問だ。自身の担当で精いっぱいの私には、他人のプロデュースを気にするほどの余裕がない。

「まあ、たまにすれ違うと笑顔で挨拶してくれますね。倉本家の御令嬢だけあって、とても礼儀正しいと思います」

 数少ない記憶の糸を手繰り寄せてみても、これくらいのことしか言えなかった。

「よし! やっぱり、千奈は明るさと元気の良さは、他の人にも気づいてもらえたかぁ!」

 本人はとても嬉しそうなので、いいんじゃないだろうか。

 ひとしきり隣で喜ばれたあと、そういえばと、話を切り出された。

「そうそう。今度さ——」

 始業の鐘が、彼女の声を遮った。

「その話はまた後程、聞かせてください。」

 私の意識は、講義室に入ってきた根尾先生の立つ教壇へと向けられた。

***

「ちょっといいですか?」

 講義が終わり、荷物を纏めていたところで、根尾先生から声を掛けられた。私は手を止め、「大丈夫です。」と返事をする。

 根尾先生は私の耳元まで口を近づけて、周りに聞こえないよう小さな声で続ける。

「実は、これから先のことについて、少し話をしたいと思っています。来週この時間くらいに時間を貰ってもいいですか?」

「……わかりました」

 伝達事項が終わったのか、根尾先生は教材を持って講義室から出ていってしまった。

 独り取り残された私の背中には、冷や汗が張り付いていた。夏の暑さのせいじゃない、気分の悪い汗。

 ついに来たのだろうか。恐れていた、怖がっていたことが。

 一度、部屋に戻ろう。事務所に、私達のために用意された、あの場所に。それから落ち着いて、いやまずはここから動き出さなきゃいけないのか?

 どうすれば、まずは最初にどうすれば?

 私の逃げ道はどこにある? 少なくともこの場所じゃないことは確かだから、とにかくまずは落ち着くために離れなきゃいけないから……。

「ねえ、大丈夫?」

 声をかけられて、焦る必要なんてないのに。

「……大丈夫です。ご、ご心配を、おかけしました」

 震える手で、荷物をまとめて、講義室をふらつくように飛び出した。

 他の同期はみな、アイドルと契約しては大なり小なりの結果を出している。少しずつメディアへの露出も増えているアイドルを担当している者もいるらしい。

 それらと比較して、私と篠澤さんはめぼしい成果がない。

 『方針の変更』であれば、大した問題ではない。教員目線から、自身のプロデュースに関するフィードバックがされれば、彼女にとっても良い効果になりえる。

 しかし、もし。そうでなければ——。

 嫌な想像は、とても早く回る。講義室を退出した私は、思考を振り払うような急ぎ足で事務所代わりの教室へと向かった。

アイドル科とプロデューサー科は、交流の名目で隣接して設置されている。事務所教室はアイドル科の建物を横切った先に割り振られていた。

 アイドル科はどうやら休憩時間のようで、私を見ては「プロデューサー科の人だ……」「担当のアイドルはどなたでしょう……?」「私にも声をかけてくれないかしら」などと、ひそひそと話し声が聞こえてくる。普段は気になりはしないが、今の私には不快な雑音でしかなかった。

「あのプロデューサーさん、二組の篠澤広さんが担当らしいわよ」

「え? 篠澤さんって、あんまりアイドルにも向いてるとは思えないのに……」

「そうそう。でも、あの人が篠澤広さんと一緒に歩いている姿を見たって人、結構いるみたいなんだよ」

「へ〜。どうして担当になったんだろう。不思議だね」

 こういう時に限って、私の耳は聞きたくもない言葉ばかりを拾ってくる。塞いで遮って、今すぐにでも逃げ出したい。

 私自身がどれだけ酷いことを言われたとしても、わたし自身の不甲斐なさが招いたことなのだから仕方がないし、甘んじて受け入れる。でも、篠澤さんを何も知りもしないのに、彼女のことを悪く言われてしまうのは耐えられない。

 息も絶え絶えに、ようやく私は事務所にたどり着いた。

 扉は普段よりも重く、教室全体が広くなったり小さくなったりと、生きているかのように脈動して見えた。

 倒れ込むように、ソファに寝そべる。もうここから、一ミリたりとも動きたくない。

 肘掛に寄りかかっているみたいに置かれたサメのぬいぐるみを抱きかかえ、心を鎮めるために深呼吸をしていく。

 根尾先生から呼び出しを受けた時点で、ほとんど未来は決まったようなものである。

 あくまでも『助言』であり、『アドバイス』。教員側に強制されてはいないものの、実質的な『契約解除』であることは、考えるまでもない。

 篠澤さんとの契約を解除したら、彼女はどうなるのだろう。私がいなくなったら、彼女はひどく悲しむかもしれない。結果も出ず、他のプロデューサーもつくことはなく、彼女の夢が叶うことは永久にない。

 誰にも篠澤広を渡したくない。誰かの手の中で、彼女が輝く姿なんて、考えたくもない。研究者としてどれだけ優秀でも、優秀なプロデューサーの手腕によってアイドルとして大成しても、そこに私がいないなんて。

 彼女の、篠澤広のプロデュースを降りるわけにはいかない。まだまだ彼女とやり残していることはたくさんあるし、私が彼女と出会ったことで見つけた夢でもある。志半ばで折られてしまう、それだけは勘弁願いたい。

 とはいえ、現状維持を選択しても、良い未来が待っているとは到底思えない。このままでは初星学園から成績不振を理由に退学処分を言い渡され、彼女とは二度と会うことができなくなる可能性すらある。

 もしも。実はそういった話ではなかったとしても。いや、それは早いか遅いかという時期の違いでしかないのだから、結局ほとんど変わらない。

 手詰まり。手元に残された手札は全てハズレで、ここから私にできることは何もない。

(ああ、これで終わりなんだ)

 重くのしかかる現実に、不安と焦燥。これ以上抗うことはできないし、ここで想像を膨らませていることに何の意味もない。

 寝ころんだまま、窓を見つめる。

 今日の彼女は、完全休養日。このあと会うことはないし、今の状態で会いたくない。

 曇天が、黒ずんだ。

****

 あれはたしか、一年くらい前のことだったと思う。

 高校三年生を迎えた私は、未来を決める岐路に立っていた。ありふれた話だ。中学生と高校生、そして一般の大学生が悩むことになる『進路』の問題。友人たちはみな、オープンキャンパスや進路相談室に通うなど、ごく普通に頭を悩ませていた。何度か、彼女たちの相談に乗った覚えがある。

 私はどこか他人事だった。

 小学校から中学校、中学校から高校へ。部活も人間関係も、全て人に環境に流されるまま生きてきた。私の人生というのは、こうして流されるままに行くんだろうと、思っていた。

 たかだか十七年そこらしか生きていないというのに、向こう五十年近くの生き方を決断しろだなんて、無理がある話だ。転職が少しずつ前向きに受け入れられる時代になりつつあるとはいえ、それでもマイナスイメージは残っているし、転職自体がリスキーな選択だというのも否定できない。

 自分で選択するよりも、誰かが決めたレールの上に乗っかっている方が気が楽だ。なにか特別やりたいこともないこの私の人生に価値なんてないのだから。

 形式上、ただの義務。進路指導の担当は、私のことなんて見ていやしない。聞かれた質問に「はい」「いいえ」でしか返してこない、死んだ目をした高校生。そんな人間の相手に時間と熱意を割くよりは、ギラギラと輝く目をした他の同期生のほうがやりがいがあるというものだろう。

 事務的で盛り上がりも生産性もない面談が終わりかけた頃、進路指導の担当は、私の前に一枚のチラシを置いた。

「まあ、もしよかったらなんだが……。初星学園のプロデューサー科への推薦募集枠があってな。ただ、今のところは此れに興味を持ってくれる学生がいないんだ。特に興味あるものが無いんだったら、少し検討してみてくれないか?」

「……ええ、まあ」

 私は先ほど、他人に敷かれたレールであれば大方なんでもいいといった気がするが、一つ訂正しなければいけない。

 私は、他人の人生を背負うことができるほど、できた人間ではない。というか、だれもがそうなんじゃないだろうか。むしろ、そんな覚悟を持っている人のほうがどうかしているとまで言えるかもしれない。

 それとなく間接的に、人間と関わっていく。そのほうが精神的にも楽。

わかっていたのに、私は提示された資料を受け取ってしまった。こうして詐欺に騙されるんだろうなと、鞄の中に入ったパンフレットを眺めながら家に帰った。

 鍵を開けて中に入っても、誰も居はしない。両親共働きで、高校生にもなった娘に構っているほどの余裕なんてないのだろう。

 私だって、もうすぐ大人だ。いつまでも親に頼ってばかりでいられない。それになにより、私は両親からの関心をさほど向けられていないように思う。たまの週末に家族三人揃っても、私に対して「最近はどうだ」なんて聞きもしないし、進路面談だって「娘が望んだところであればどこでも」なんて、一見すると私の意思を尊重してくれているようだけれど実際には私がどうなろうが興味なんてないのだ。

 ああ、良くない。特に不便な生活もなく、程良く一般的に生きていられているだけで、私はかなり恵まれているのだから。

 誰も居ないリビングを素通りし、階を昇って自室のある二階へ上がっていく。いつ両親が帰宅するかもわからない場所で寛げるほど、進路決定が差し迫った高校生に余裕はないんじゃないだろうか。世間一般の印象がそうであれば、私もそれに従っておくに越したことはない。

 部屋に入るなり、壁際のベッドに寝転がる。チェック柄のスカートに皴がついてしまうかもしれないが、あと一年も着ることのない制服を大切にしようという感情は、あまり湧いてこない。

 もう受験まで時間がないというのに、どうしてこんなに余裕があるのだろうか。私ならうまくやれるという自信が、どこから湧いてくるのだろうか。けれども現にこうして、「なんだかんだどうにかなる」という根拠のない自信が存在している。

 危機感の欠如、と言いたくなるけれど、ある日の夜に突然不安感が押し寄せてきて、吐きたくなってしまうほどの憂鬱が牙を剥く。ほんの小さな違和感や懸念でさえ、およそ命に差し障るくらい重大なものとして捉えてしまうあの時間が、酷く恐ろしい。

 逃げてしまいたい。これから先の一生を決める選択の義務から、尻尾を巻いて遠くまで。この負の渦に飲み込まれた時点で、一歩も動けなくなる予感がする。それがいつ襲いかかってくるのかさえも分からなくて、本当に嫌になる。

「考えてても、しょうがない、か。」

 鞄の中に入りっぱなしの、さっき貰ったばかりのパンフレット。そういえばあまりよく見ていない。負のスパイラルに陥りそうになった今の私が接種するにはちょうどいい情報量かもしれない。

 『初星学園プロデューサ―科』

 アイドルプロデュースに携わるために必要な専門技能だけでなく、担当アイドルとの人間関係を円滑にするためのコミュニケーション能力や、事務所経営に関する資格取得も狙うことが出来るらしい。学科名に違わず、アイドルプロデューサーに求められるものすべてを学べる場所だった。

 昔、アイドルは好きだった。テレビの向こうで輝く女の子たちがとても羨ましくて、小学生くらいのときはダンスまで覚えた気がする。

 最近はというと、めっきり減った。アイドルに恋焦がれることも、なくなってしまった。私にアイドルなんて似合わないと、今でも思っている。

 スカートのポケットに入れっぱなしのスマホを取りだし、「初星学園」と検索する。たくさんのアイドルがステージで踊っている動画が、画面いっぱいに並んだ。全員可愛いのに、この中の数人しか残らない。夢ばかり語っていられないけれど、それでも夢を抱いた彼女たちが精いっぱい、歌って踊っていた。昔憧れたアイドルの姿は、変わっていなかった。

*****

 暗くなった事務所のソファ。視界の焦点が合わない。

 左の袖をめくる。

 胸ポケットのスマホが鳴った。ちらりと見ると、私から『光』を奪う人間の名前。

「……うるさい、な」

 少し大きめの音がした。ガラスにヒビが入ったような。

 汚れないように、ぬいぐるみを端へ放る。

 どうでもいい。この先の私なんて。

 ペンケースの中から取り出したカッターを、固く握りしめた。

雨の香り、熱は冷え

 ——海外暮らしが長かったせいだろうか。

 いや違う。この表現は、正確じゃない。

 〝海外での生活が、わたしの記憶の多くを占めているからだろうか。〟……うん、この表現なら正しい。

 日本生まれの日本育ち。そうは言いつつ、何年かは遠い海の向こうで暮らしていた。久しぶりに日本の季節を感じると、懐かしさもありつつ新鮮味もある、とても不思議な感覚。

 春の暖かさ、夏の暑さ。秋の涼しさに、冬の寒さ。四季は瞬く間に姿を変えて、私を包む世界の形は、二度と同じになることはない。

 今日は完全休養日。休養日の前々日くらいから、プロデューサーはわたしにずっと、「あくまでも健康的な生活の範囲内で、部屋で体を休めること!」と口うるさくいってくる。

 もちろん、休みの大切さは十二分に理解しているつもりだ。

「そんなにわたしのこと、心配?」

 ベッドに寝転び天井を眺めていると、不意に零れた心の声。不満じゃないけど、疑問では間違いなくある。

 窓は閉じた。カーテンも閉めた。

 スマホは枕元にあるけれど、かれこれ二時間くらいは触っていない。

 千奈や佑芽に連絡しようと思ったけれど、今日は二人ともレッスンがあるはず。わたしの数少ない交流相手は、当然みんな暇じゃないらしい。

 課題も特段なく、本当にやることがない。

 雨によってわたしの身体は少し怠くて、何もする気が起きないというのも理由の一つかもしれないが。

 一人でいることになんら不満を持ったことはないし、わたしは結構その方が気楽でいいなんて思ったりもしていた。しかし、初星学園に入学してからは、誰かと一緒に時間を過ごすことがとても増えて、そのせいか、一人でいる時間がそんなに好きじゃなくなってしまった。

 誰かと一緒にいて、なにかをしたいというのもない。ただ、一緒の時間を共有して、一緒に他愛もないことを話して、一緒に泣いて、一緒に笑いたい。ただそれだけで、誰もが一度はしたことがあるもの。

 わたしの十五年は、普通とはかけ離れている。触れることがなかった、感じることがなかった、過ぎ去ってしまった時間の空白を埋めてみたいだけなのだ。

「……今日のわたし、けっこうネガティブ。」

 プロデューサーには見せられない姿だな、という自覚だけはある。オフの日の気の抜けた服装も、布団の中で時間を捨てる姿も、彼女には絶対に見せられない。

 この感情は何だろう。大方の予想はついていて、それを一般的には『恋』なんて呼ぶんだろうけれど、あいにくわたしは『恋』をするのは初めてだから、確証という確証が持てやしない。この前、保健室で冗談めかしたみたいには、言えない。

 誰かに聞いてみたい。

 この感情が本物なのか、誰かに聞いてみたい。

「……それで、わたしのお部屋に来ていただいたということなんですね。」

「うん。美鈴なら、今日は寮の部屋に引きこもってると思ってた。」

 今日は雨だから、美鈴は学校をさぼっているかもしれないという淡い期待。ちゃんと授業に出ていてほしいのは普段と変わらないけれど、今回に限っては運が良かった。

「せっかく来ていただいたのに、何かご用意がないといけませんね。お茶とかでしたら出せますが、いかがですか?」

「うん、ありがとう。美鈴が淹れたお茶、とても美味しいから。」

 美鈴は茶道の経験者なだけあって、わたしやプロデューサーが淹れたのよりも、風味が違う気がする。

「どうやったら、美鈴みたいに美味しくお茶を作れるの?」

 簡易的なキッチンでお湯を沸かしている美鈴は、やかんから目を離さず、答えた。

「……気持ち、でしょうか。」

 すごく抽象的な回答。わたしになら分かるだろうと、手を抜いているのが透けて見える。

「相手をもてなそうとする気持ち……みたいなこと?」

「ええ。篠澤さんにはお見通しみたいですね。」

 美鈴は慣れた手つきで、マグカップ二つにお茶を注いだ。

「今日は自室なので、茶道で使う茶碗はありませんが……。どうぞ、お召し上がりください。」

 お盆に載せて、わたしが座っている机へと運んでくる。なんだか、美鈴にお世話されている気分だ。

「いただきます。」

 ひと口、ひと口。丁寧に味わっていく。

 優しい味がする。美鈴が、気持ちを込めて淹れたのが伝わってくる。

「……おいしい、ね。美鈴のお茶、好き。」

「ふふ。ありがとうございます。」

 美鈴はわたしの隣に座って、マグカップを手に取った。

 落ち着いた時間が流れていって、しばらく。

「……それで、今日は、どういったご用件ですか?」

「……」

 美鈴の部屋に突然押しかけておいて、なかなか口を開けない。プロデューサーに向ける感情の正体を聞いてしまったら、わたしはこれからプロデューサーとどんな顔で声で表情で会えばいいんだろうと、ここにきて些細なことが頭の中をぐるぐる回る。

「……深刻そうなお悩みでしたら、わたしは篠澤さんがお話しできるようになるまで、いくらでも待ちますよ」

 美鈴の優しさが、痛い。

 自信家で、強気なところがあって、本当はわたしの話を仕方がなく聞いてくれるのかもしれない。それなのに、美鈴はわたしのことを待ってくれる。

 ああ、わたしはみんなの優しさで息をしているのか。

「……みすず」

 マグカップを置いたわたしは、美鈴が座る右側に身体を倒した。今日はこのまま、美鈴の優しさに身体を預けてしまっても、いいんじゃないか。

「今日の篠澤さんは、なんだか甘えたさんですね。どうぞ、ゆっくりなさってください。」

 美鈴の声、瞼が重たい。しばらくは何も、考えたくない。

 雨の匂い。雨の香り。身をゆだねた。

**

「美鈴はわたしのこと、好き?」

「ええ、もちろんですよ。大事なお友達、ですから」

「……うん。わたしも、すき」

 壁掛け時計はさっきから、正確なリズムで音を鳴らす。心の中を空っぽにしているとき、なぜかふと刻んだ音を数えたくなる。人間の脳は適度なタスク処理が必要なのかもしれない。

「千奈も佑芽も、みんな好き。もちろん、ずっと一緒にいてくれているプロデューサーも、好き。でも、プロデューサーへの『好き』は、なんか違う気がする」

「……まあ」

 わたしの中で、答えがまだ出ていない。でも、いくら美鈴に話しても、最後に答えを出すのはわたし自身。だから、もしかしたらこうやって話していることに意味はないのかもしれない。

「篠澤さんは、本当にプロデューサーさんのことを大切に思っていらっしゃるんですね。少し……妬いてしまいます。」

「……美鈴が?」

「ええ。篠澤さんだけではありません。倉本さんも佑芽さんも、まりちゃんも、他の人と仲良くされているのを見ると、ほんの少しだけやきもちを焼いてしまうんです」

 嫉妬の感情。

 プロデューサーがわたし以外誰か別のアイドルと言葉を交わしていたら、嫌な気持ちにまではならなくても、やっぱりどこかなにかしら思ってしまうことはある。これが嫉妬なんだろうか。

「篠澤さん、とても眠たそうですね。眠ってしまってもいいですからね。」

 今日はもう、動きたくない。美鈴の凛と透き通った声に背中を預けて、もうすべてを忘れてしまいたい。

 目を覚ましても、わたしの世界は変わらないだろう。世界線の移動なんて、フィクションの世界だけで十分だ。しかし、夢の中であれば、わたしが望んだ思いのままの世界に降り立てる。期限付きだとしても、いやむしろ期限付きの方が、より大事に時間を過ごせるような。

 プロデューサーとわたしが、特別な関係にある世界。どんな未来が待っているんだろう。アイドルなんて関係なく、ただ同じ時間を。

「——篠澤さん」

「なあに、みすず」

「わたしも眠たくなってしまいました……。いっしょに、お布団に入りませんか?」

こんな沈んだ夜だからこそ

 この瞬間が夢だったらいい。

 私のような実力に欠ける人間が、アイドルの人生を預かる仕事に就く。こんな質の悪い冗談が成り立ってしまっていることが、とんでもなく恐ろしい。

 だって、私みたいな自分勝手で愚かで惨めな人間が、夢を届けるあの子たちを導いてくだなんて、有り得ない。有り得てはいけないはずだ。

 あの日、私は泣き疲れて寝てしまって、どん底まで落ちてしまった気持ちをそのまま引き摺って家に帰ってきて。それからもう、まるまる三日は外に出ていない。

 胸の中のざわめきが止まらない。空腹なはずの身体は危険信号を発しているようだけれど、もはやどうでもよかった。簡単なもの、ゼリー飲料とかを口にしても、それを飲み込む直前にどす黒い霧が邪魔をしてきて、結局トイレで吐き出してしまう。

 時間の流れがゆっくりに感じた。鈍い痛みが全身に広がって、終わりの見えない暗室で一人、悶えている。

 それでも三日と数えられているのは、篠澤さんからの電話が毎日のように鳴るから。連絡もなしに連絡を絶ち、その理由も原因も、今私がどこにいるのかも雲隠れして、彼女からすればそれはもう不安だろう。

 私のことなんてもう気にせず、また別のプロデューサーと出会って花開いた方がいい。貴女と出会えたことは夢物語の一節に過ぎなくて、目が覚めたら実家のベッドの上でぼーっと天井を見上げている。そんなことが起きてもおかしくない。

 そうか、これは夢だ。質の悪い、夢なんだ。

 夢から目を覚まさなければいけない。でもどうやって?

 夢の中で痛みを感じれば、目を覚ませるだろうか。苦痛を感じて傷をつければ……、あるいは?

 初星学園に入学してからの日々に、痛みが刺す。

 軸足のない私の本心に『アイドルプロデュース』を植え付けたからか、それでも上手くいかないことが多すぎるからか。

 そのたびに増えていく左手首の傷跡は、私が現実を夢だと思いたかった回数だ。失敗を失敗と認識するための、必要な儀式。自傷行為は咎められるべきかもしれないが、それでも入学から三ヶ月程度を乗り越えることができたのも、ひとえに刻みつけた痛みが隣にいたからだろう。

 それでも、篠澤さんと契約してからは頻度が極端に減ったと思う。毎日の困難を楽しむなんて、私にはなかった考えをしてくれる人がすぐ近くにいて、それならまあ一緒に苦しんでもいいかななんて。

 先の見えない未来がふと怖くなって、そういえばクラスの女子がしていた行為が頭によぎった。あれが救いになるのかわからないけれど、何もしないことが一番怖いと感じていた私は、暗闇の中で手探りに鋏を探したんだ。

 唐突に「死んでしまいたい」なんて、ある日ある時ある瞬間を境にして湧いてくる。

 人間はいつか死ぬけれど、わざわざ自分から死を選ぶことはない。毎日のニュースに流れてくる自死の知らせを目にするたびに、少なくとも私には理解できる領域じゃないんだなと決めつけていた。

 見惚れている。落ち込んで穏やかな水面に石を投げ込んだみたいに、ようやく動きを取り戻した。何年後の未来が未知に満ちていることは変わらないけれど、ああでもこれから数日間はこの痛みが、私の何十時間の未来を保証してくれると、それだけで満たされる。

 天井を見上げ、「早く楽になってしまいたい」だなんて、永遠の救済を求めたくなる。夜の孤独は冷たくて、息苦しい。

 けれども朝になれば綺麗さっぱり忘れ去り、いつも通りの日常へと舞い戻る。摩訶不思議で魔法のよう、ただそれはあくまで無意識へと詰め込んでいるだけであり、許容量を超えて溢れてしまう瞬間から目を背けているだけだ。

 いつしか負の感情が、消化されることなく翌朝まで持ち越して。そのとき左腕に刻んだ隣人が目を覚ますと同時に存在を主張して、顔を顰めつつもこれが現実なんだと理解した。ああ、私はすぐに逃げてしまう、背中を預けられる存在がいなければ、ろくに生きていくこともできないから。

 白い生地に真紅の線を引くたびに、立ち止まった私が苛まれる。痛みで朦朧とする意識の中で、「私はこの先、どうすればいいんだろうか」「私はこの先、前に進めるのだろうか」と、底の見えない空洞に突き落とされた感覚だけが残り続けている。

 痛みが切れてくると途端に不安になって、空虚な心を満たすためにもう一度。

 何度も同じ夢を見た。

 あれは、三ヶ月くらい前のこと。

「つ、疲れた……」

 進学に合わせて一人暮らしを始め、そのために契約したワンルームのアパート。家事をこなすだけならそこまで大変じゃないけれど、プロデューサー科という専門性の高い学習が合わさると、途端に辛くなる。

 疲労が積み重なっている。これから更に、アイドル科の生徒とプロデュース契約を結ぶとなると、既に憂鬱である。

 昼休みの食堂で、パソコンを眺める。初星学園アイドル科に在籍している全学生の情報が記載された資料を一つ一つ読み込んで、誰が最も将来性のあるアイドルかを値踏みする。

 第一候補は月村手毬。中等部時代の経歴からして、一番成功する可能性が高い。ただ、ユニットの解散を経験しているがゆえに、扱いに悩まされる要素を持っているのも容易に想像がつく。

 あるいは、高等部から入学してきた花海咲季か。首席で初星学園へと入学してきた元アスリートで、素の実力の高さも申し分ない。アイドルという未経験な分野でも活躍できるだろうと思う。

 あとはまあ、正直言うなら全くわからない。良し悪しもなにも、未経験の分野すぎて目利きできるだけの知識を持ち合わせていないのだ。あとはまあ、運任せといったところだろう。

「……そろそろ授業、かな」

 パソコンを閉じて、天井を仰ぐ。今すぐに決めなければいけないことでもないし、根尾先生も「熟慮するように」と話していた。アイドルの人生、人間一人の人生を預かるのだから当然のこと。

 だがしかし、いつか決めなければならないものから目を逸らし続けているだけなんじゃないか。大きな信念を胸に抱いて入学したわけじゃない私には、どうにも重たすぎる選択のように思う。

 荷物をまとめて廊下に出て、次の授業がある教室へと向かう。

 入学からまだ数週間も経っていないのに、先行きが不安。こんな選択をした私を恨みたい。

 ふらふらと歩く少女とすれ違う。髪が腰くらいまであって、身長も高い。パット見だけでもやせ細っているのがわかる。こんな子もアイドルを目指して学園にやってきているのかと感心した次の瞬間――

「……きゅう」

 背後で弱々しい声と、何かが床にぶつかる音が聞こえてきた。

 篠澤広。

 初星学園アイドル科一年二組に在籍し、座学満点、実技は最低点で合格。

 特記事項:過去に海外大学へと留学し、卒業。

「……なに、この、冗談みたいな経歴」

 保健室へ運び、根尾先生に事の経緯を話すと、「付き添っていてください」と指示を出されてしまった。本当なら講義に出席したいのだけれども、こうなってしまっては仕方ない。

 ベッドサイドに用意してもらった丸椅子に座り、膝の上でパソコンを立ち上げる。偶然の事故とはいえ、アイドル科の生徒と関わる折角の機会だ。在籍者名簿から彼女の名前を探し、中身を開く。

 ――どうやら私は、とんでもない生徒と出会ってしまったらしい。アイドル科には、いやアイドル科でなくとも、彼女を超える特殊な過去を持っている人間はそうそういない。彼女の担当になったプロデューサーは、非常に苦労するだろう。

「ん……んん…………」

 ようやく目を覚ましたらしい。ふらふらと頭を押さえながら、起き上がる。

「ここは?」

「保健室です。廊下で倒れていたんですよ」

**

 ふらふらと、立ち上がった。

 冷蔵庫の扉を開けようとして、走る痛みに顔をしかめる。ああ、こっちの腕は大量の傷跡があったっけ。

 突然思い立った。これ以上、悩んでいたってしょうがない。

 食材なんてないに等しいくらい空っぽ。それでも、滅多に飲まない酒だけは充実している。同期と私の部屋で飲み会をしたとき、飲み切れなかったからと置き去りにされていったもの。私にとっては無用の長物だとしても、案外使える瞬間が訪れる。

 滅多に飲まないアルコールと一緒に、かろうじて残っていた少ないとは言えないけれど死ぬには少々、いやかなり物足りない睡眠薬を全て流し込んでしまえば、他愛もない人生に幕を下ろすことができるのかもしれないというまやかしを本気で信じ込んでいた。うつろな目で見る世界は白黒で、そこには何の意味も価値も存在しないという、私だけの確かな事実だ。

 銘柄なんて詳しくないけれど、まあまあ度数は高いんだろう。まあ、死ぬことさえできればどうでもいい。ベッドに座り、棚の中から取り出したなけなしの薬を酒で飲む。

 ああ、そういえば身辺整理も遺書も何も書いていなかった。けれど、もしも準備した世界線があったなら、決意が揺らいで失敗していただろうし、私のことなんて誰も気にしていないのだから用意なんて必要ないし、周りの人間が普段の日常を送る中で静かにいなくなりたかった。

 言い訳をたくさん並べているのは、死ぬのが少し怖いからなのかもしれない。運がよければ悪ければ、目を閉じたら二度と開くことはない。走馬灯も流れないくらいの穏やかさだったけれど、最期の最後、今際のときまで、彼女の姿が見えている。

 せめて、この数か月を共に過ごした彼女にだけは、感謝と謝罪をしておかなければいけないなと、開くのもやっとな視界の中で割れたスマホ越しに「ごめん」とだけ送り、力尽きて倒れ込んだ。

 誰かが、私のことを呼んでいるような気がした。

 瞼は重く、身体も怠い。それでも、聴覚は無事に生きていて、光も微かに感じるところから、多分視覚も生きている。

 どうやら、私は生き残ってしまったらしい。いや、どう考えてもあんなお遊び程度の行為で死ねるわけがないのは自明だった。しかし、目を覚まして最初に感じたのは、「これじゃあ死ねないのか」と至極残念でしかない悔しさだった。

 今の私を客観的に見るなら、担当アイドルを捨て置いて勝手に一人で絶望し、生きることを諦めた上、死ぬことも満足に達成することができない人間か。あまりにも愚かで、どうしようもない。

 失意の念に沈んでいた私だったが、途切れた私の最後の記憶とは少しだけ違う状況にあることに気がついた。私のベッド、いや、ベッドとは到底言えないような寝床では絶対に感じることのできない柔らかな温もりを、後頭部に感じていた。そう、まるで、誰かの膝を借りているかのような……。

「あ、やっと起きた、ね」

 さほど高くない、聞き心地のいい低音。忘れることなどできやしない、担当アイドルの声。私の陳腐な自殺が失敗に終わったこと以上に、今一番会いたくない人がそこにいるという事実が、突き付けられた。

 どうやら少なくとも、プロデューサーとしての私を殺すことはできたらしい。自殺を図るほど精神が不安定な人間に、誰がプロデュースされたいのだろうか。契約解除の勧告だとか、あのタカサキという女の手を取って研究室へ戻るために退学するかもしれないだとか、それ以前の問題だ。足元がぐらついてしまっている状態で、誰かの面倒なんて見れるはずがない。

 この一件は、時期に学園側にもバレてしまう。下手すれば退学処分だ。そうなれば、プロデューサーどうこうより、退学後の人生設計がまともに組み立てられるかどうかが問題になる。ただでさえ、‟アイドルプロデュース‟などと狭い世界でしか役立たないものが専攻で、そこら辺の一般大学中退とはわけが違う。

 いっそのこと、実家に戻ってしまおうか。いや、親に合わせる顔がどこにあるというのか。担当アイドルの経歴に傷をつけ人生を壊して、その挙句実の両親にまで迷惑をかけるなど、許される行為ではない。

 未だあまり力が入らない手と足をどうにか動かして、立ち上がろうとする。原動力はもちろん、自死への執着。

「落ち着いて、プロデューサー。いつものプロデューサーらしくない」

 しかし、彼女に肩を掴まれてしまった。普段の姿からは想像もできないほど強く掴まれ、顔をしかめる。

「……離して、ください。今度こそ、失敗はしませんから……」

「それなら、わたしはなおさら離せない。プロデューサーには、わたしがついてるから」

「篠澤さん、私はもう、あなたと一緒になんていられない。居る資格がないんです。だから……!」

 もう楽になりたい、楽にさせてほしい。こんな選択しかできない私を、どうか許してほしい。

 誰に向けての言葉なのか、あるいは神への懇願なのか。どうしたって人間は、追い詰められると祈ってしまう。私は信心深くないのに、微笑んでくれるはずがないのに。

「だめ。プロデューサーは、ずっとわたしといる」

 彼女は許してくれない。私が彼女の前から、世界から消えることを、許してなんてくれない。

「プロデューサーの手首、たくさん傷ついてる。痛かった……よね」

「プロデューサーがいない五日間が、とっても苦しかった。寂しくて、胸の奥がきゅうって締めつけられてて、本当に心配だった」

「みんなに笑顔を届けるのがアイドルなのに、わたしの一番近くにいた大切なあなたが笑顔になっていなかった。わたしが憧れた、あの人みたいには、まだまだ遠かった……」

「プロデューサーは生きていることを諦めたらだめ。だって、それはわたしのことを置いていってしまうことと同じだから。わたしと一緒に、ままならない毎日を送ってくれるって、約束してくれたから」

 頬が濡れた。琥珀色の、太陽のように美しい瞳が、雨を降らしていた。

「プロデューサーは、こんなダメダメなわたしのためにいつも頑張ってくれてる。そんなプロデューサーのことが、わたしは大好き」

 震えた声に、すすり泣き。今まで見てきた無機質で、植物のような天才少女じゃなく、十五歳のか弱く小さな彼女を見てようやく、愚かな私が犯した重大な過ち、その重みを知った。彼女と運命を共にする覚悟を決めておきながら、一時の自殺衝動で自ら彼女と結んだ契約を反故にしようとしてしまうなんて愚かさが、私が抱える弱さだった。

「ねえ、プロデューサー。プロデューサーが、あなた自身が、自分のために生きることができないなら、わたしと一緒にいてほしい。どんなに苦しいことがあっても、どんなに痛いことがあっても、独り占めなんてしないでほしい」

「…………」

「プロデューサーはわたしに寄りかかっても大丈夫だ、よ。プロデューサーが考えているよりも、わたしは弱くないから、ね。」

 寄りかかっても大丈夫。この痛みを、私がずっと抱えてきたこの苦痛を、彼女と分けて一緒に歩いてくれる。それがどれだけの救いになるのか、はたまた私を更に苦しめることになるのか、まったくわからない。

 泣きそうだ。自分で死を選んでおいて、彼女の言葉で止められて。どれだけ情けないことなんだろう。

けれど、彼女のためにも、私は——。

「……私の肩を必死に押さえつけてるとき、腕がプルプルしてましたけど」

「ふふ、プロデューサーは担当アイドルに対して本当のことを言いすぎだと思う」

〈旅に行こう、手毬〉

 眠れない夜というのは、往々にして存在する。

 例えば、楽しみな夜。

 遠足の前日、期待に胸をふくらませている瞬間がいちばん楽しい。『予想だにしない出来事が起きたら?』って、瞼の裏に妄想を映し出している。

 例えば、懐かしい思い出に浸る夜。

 小学校くらいの記憶は薄れてしまいつつあるけれど、美鈴と過ごし、燐羽と出会い、三人でアイドルを目指そうとした旅立ちの日のことは、今も変わらず胸の中で光を失っていない。

 例えば、心配になる夜。

 『ライブが失敗したらどうしよう!』なんて、考えても考えても意味がない。それなのに、私の頭は勝手に想像を膨らませてしまって、目を瞑っても眠ることができない。

 例えば、振り返って後悔する夜。

 『あのとき、こうしておけばよかった……』とか、『なんで、あんなことしちゃったんだろう……』とか。今更変えられもしないことが、シャボン玉のように浮かんで消えて、どこかで聞いて知った【後悔先に立たず】なんて格言にもどかしさを感じる。

 例えば、未来が怖くなる夜。

 「本当にこのままでいいの?」「私はこの先、アイドルとして生きていけるの?」天井を照らす暗闇から”声”が響くたび、重たい水の底へと沈められていく。

 そうなってしまったら、もうなかなか眠れない。悶々としていることに嫌気を感じ、一先ず顔でも洗おうと洗面所に立つ。焦燥感で火照った顔を冷やしても、それはあくまで表面上。熱の芯、真に深いところにまでは、届かない。

 私——月村手毬は、天才じゃない。

 誰よりも努力して、誰よりも頑張って、それでようやく手を伸ばしたステージが見えてくる。

 私の幼馴染は、二人とも先へ進んでしまった。美鈴も燐羽も、私を置き去りにしていったのだ。それが私の実力不足であったからだと自覚があったから、私はあの二人に追いついて、追い越して。

「あんたたちがいなくても、私はアイドルの頂点に。一番星になれるから。」

 才能なんてなくたって、努力の積み重ねで越えてみせるのだと。ほかの人には夢物語でも、私なら成し遂げられるんだと、この手で証明したかった。

 ユニットが解散してから中等部で距離を置かれるようになった。それさえも、私には好都合だった。

 私は、上を目指し続ける。もう二度と、誰の足も引っ張らない。私のせいで、誰かの迷惑にはなりたくない。

 布団に戻ったはいいものの、なかなか寝付くことができず、気がつけば朝。日課のランニングを知らせるアラームが鳴り始める。

いつものように起きようと思っても、なんだか走る気になれない。心に黒い靄が掛かり、身体全体に錘が括りつけられたみたいで、動けないわけじゃないけれど動きたくない。

 でも、『走れば忘れられる』『走れば軽くなる』と自分自身に言い聞かせ、私は体に鞭を打つ。

「私は、月村手毬。アイドルの、月村手毬。」

 天井に向かって、小さくつぶやく。ここで立ち止まるわけにはいかない。

* * *

 ひとしきり汗をかいた私は、部屋に戻ってシャワーを浴びる。気が滅入りそうだったことなどまるで感じさせず、私の脚は軽快に動いていた。

「……なーんだ。やっぱり気のせいじゃん。」

 すべては気持ちの問題。夜や明け方は気分が暗くなるのは仕方がない。今日はたまたま疲れが溜まっていて、寝つきが悪かっただけだ。

「大丈夫。私は大丈夫。」

 言い聞かせ、息を整えて、髪を梳かす。

 長く伸ばした自慢の髪は、乾かすときだけ邪魔に思う。昔は美鈴に梳かしてもらっていたなと、ふとした瞬間に思い出が溢れてくるようになってしまった。私も年を取ったということなんだろう。

 制服に袖を通し、荷物を手に取る。

 鞄の中身はいつもとあまり変わらないが、他の人に比べれば軽い部類らしい。トレーニンググッズ満載の咲季や、バイトに使うであろう制服などを忍ばせていることねが比較対象なのは正しいのはわからない。

 左耳に付けたワイヤレスイヤホンのスピーカーからは、最近流行しているアイドルの曲。『好き』とか『ファンだ』とかではなく、あくまでも『アイドルの研究』が目的で、それ以上でもそれ以下でもない。決して本当に、好きなわけじゃない。

 流行に敏感なのは、まあジャンルによるけれど、大抵は清夏に質問すればいいと思っていた。それができるかどうかは別問題だが。

 私は別に、クラスの人たちが嫌いではない。ただ、クラスメイトはライバルでもあるのだから、互いに一定の距離を保つべきだとも思っている。

 みんな……いや、少なくとも私は、自分のことで精いっぱいだ。誰かにかまっているほどの余裕がないだけだ。

 バスに揺られ、校門を抜け、一組の教室に入る。自分の席について、机の横にカバンを引っ掛けたら、もうこれでやることはない。ただ、残りの時間を休息に充てるため、足りていない睡眠時間を補うために、私は机に突っ伏して目を閉じる。周りの喧騒なんかよりも、眠気の方が強かった。

* * *

「手毬、いる?」

「あら、広じゃない。手毬なら、机で寝ているわよ。呼ぶかしら?」

「ううん、大丈夫。」

 なんか、私を呼ぶ声が聞こえた気がした。まあでも気のせいだろう。わざわざ私に用がある人なんて、せいぜい咲季かことねくらいか。

「手毬。てーまーり。」

 声が近い。とても声が近い。私の正面で、綺麗な声がする。

「ん、なに。」

「あ、起きた。おはよう、手毬。」

「……おはよう。なにか私に用事でもあるの?」

 仕方がないから顔を起こす。広が何を企んでいるのか、まったく読めやしない。

「ねえ、手毬。今度の土曜日、デートしよ。」

「は?」

 意味が分からない。唐突すぎじゃないか。そもそも私たちは別のクラスで、合同レッスンでもない限り顔を合わせたことなんてない。それなのに、どうして私が広と?

「なんで、私が広と一緒に出かけなきゃいけないの。私たち、そんなに仲良かったっけ?」

「手毬はわたしの友達。友達を遊びに誘ってる。」

 なにかおかしな質問を投げかけたかのように振舞われているけれど、どう考えても間をすっ飛ばした方が悪い。

「百歩譲って提案に乗ってあげてもいいけど、どこに行くつもり?」

「安心してほしい。わたしも手毬も、まだ行ったことがないところ、だと思う。千奈のお墨付き。」

 そういえば、千奈は神奈川出身だという話を耳にしたことがあるような。なんとなくそっち方面なのが想像つく。だからといって、私を誘う理由が思い当たらない。

「ねえ広。他に誰か誘ってるの?」

「ううん。手毬だけ。デートだから、ね。」

 じゃあ、次の土曜日に寮の前で。

 私の返事なんて聞く前に、彼女はどこかへと去ってしまった。呆気に取られていると、ことねが近づいてきて「あんたら、そんなに仲良かったんだナー」なんて言ってきたから、少し睨んでみた。

* * *

 横須賀。

 神奈川県の東部にある、海と山の街だ。名前は何度か聞いたことがあるけれど、たしかに一度も行ったことはない。

「手毬。今日はわたしが案内する。千奈におすすめされた場所はしっかりメモしてあるから、安心してほしい、な。」

「私が心配なのは、道中で広が倒れたときのことなんだけど。」

 とても静かな場所だ。

 駅前だというのに、コンビニくらいしかない。そもそも改札の規模が小さすぎる。道幅も狭いから、本当に地元の人用なんだろう。

 肩から下げた鞄に入る大きさのペットボトルをコンビニで買う。今日はそこまで暑くはならないらしいが、熱中症予防は大切だ。

「むむむ……。こっちから行こ。」

「ちょ、広が迷ったらダメだからね。」

 幸先は不安。それでも、小さな旅と考えたらまあいいか。

 駅を背にまっすぐ進む。車一台分の小道しかないし、当然ながら歩道と呼べるものもない。

 道を挟んだ両側に、シャッターが下りた小さな商店が並んでいる。ただシャッターが下りているというだけで、ほのかに漂ってくる美味しい匂いが想像力を掻き立ていた。

 歩いて二百メートルで、大きな通りに出てこれた。ちゃんと二車線あって、さっきのに比べれば広く感じる。

「手毬、こっち。」

 手を引かれ、私たちは右に曲がる。

「ねえ、まずはどこに行くの?」

「パン屋さん。この街では有名なパンがあるらしい。」

 昼食ということか。折角来たなら、それなりにグルメも満喫してもいいかもしれない。

 駅を出てから十分。広の足が止まる。

「到着、だね。」

* * *

 二人がそれぞれ選んだいくつかのパンを袋に入れてもらい、私が持つことになった。ショーケースに並んだパンはどれも美味しそうで、決めるのに時間がかかってしまった。

 少しだ来た道を戻り、信号を待って向こう側へと渡る。空を覆っていた薄い雲がすこしずつ裂けて、眩しい光が目を焼いてくる。サングラスが欲しいところだ。

「バスで走水、ってところまで向かう。そこでお昼のパンを食べよ。」

「いいね。海沿い?」

「そうみたい。とてもきれいな景色が見れるって、千奈から。」

 他愛もない話を二人で交わす。どうでもいいこと、本当にどうでもいいことばかりを話して、笑うくらい。バスが来るまで待つ時間が、久しぶりに楽しかった。

「手毬。横須賀のバスは真ん中から乗る。知ってた?」

「知らなかった。ちょっと不思議。」

 バスが停まり、乗り込む。席はとても空いていたから、選びたい放題。

「ねえ、一番後ろの席に行こ。」

 切符を取って、広と一緒に最後部の長い席に座る。広が窓側、私は通路側。バスを待っている間にじゃんけんして決まったことだ。帰りは反対になると思う。

「手毬。海は好き?」

「どうだろ。地元にいたとき、たまに見に行ったことがあるくらいだと思う。好きでも嫌いでもないし、あんまり海岸まで行ったことないね。」

「そうなんだ、ね。」

「そういう広はどうなの?」

「まあまあ、かな。あんまり暑いと倒れちゃうから、冬に行く方が好き。」

「秋田県だっけ。寒くない?」

「そうでもない、よ。パパがいろんな服を着せてくるから、すごくもこもこになる。冬なのに、汗でびっしょり。」

 熱で真っ赤になった頬の広の姿が、容易に想像できる。

「……ここから、何分くらいなんだっけ。」

「ん、たしかニ十分くらいのはず。少し眠っててもいい、よ。」

「広も寝ちゃったら大変だから、起きてる。」

 少し眠たいのは事実。しばらく碌に寝れていないのだ。短い睡眠の連続で、眠りも浅い。けれど、せっかくの旅なのだから移動中も景色を楽しみたかった。

 少しだけ空いた窓から香る、潮風の匂い。心地いい。

* * *

「手毬、ここで降りる、よ。」

「わかった。忘れ物がないようにしなね。」

「大丈夫。手毬は心配性。」

「旅先で物を失くしたら面倒でしょ。」

 お金を支払い、私たち二人を置いて、バスは道なりに走っていった。

「えーっとね、こっちかな。」

 広はスマホの地図を頼りに、私の手を引いていく。そういえば、一人で出かけるなんてことは少なかったような気がする。いつも美鈴や燐羽が、私の手を取って案内してくれていた。

「手毬、大丈夫?」

「あ、うん。大丈夫。」

 懐かしいな。そんな気持ちがこみあげてくる。

 コンビニから少し離れた場所にある細い道に入っていく。紫色ののぼりが立っていたから、意外にわかりやすい。なにより、少し進めば目の前に鳥居がある。

「ねえ、広。階段上れる?」

「だ、だめかも。でも、上ったら、綺麗な……はぁ、景色がある、らしいから……ふへぇ……。」

 境内で死にそうになりながら、真ん中の手すりを必死につかむ広。気を抜いたらそのまま転げ落ちていきそうだ。

「ほら、頑張りなよ。もう少しだから。」

「ふふ、ありが……とう。がんばる、ね。」

 階段が半分残っている。油断はできない。

* * *

「ここって、どんなご利益があるの?」

「ん、女子運アップ。」

「なにそれ、ほんと?」

 神社の御利益なんて気にしたことはあんまりない。でも、広が来たいという神社なら、どんなものがあるんだろうと。

「女子運なんて、願うものじゃないと思うけど。」

 努力でつかみ取るもの。神様にお願いしたって、手に入りはしない。

「たしかに。でも、もしかしたらいいことあるかもしれない、よ。」

「別にお賽銭入れないとは言ってないから。」

 五円玉を一枚、財布から取り出して投げ入れる。なんだかんだ、最期は神頼みにしかならないときもあるのだ。小さなチャンスを拾い集めてこそ、アイドルとして大成するのだから。

「二礼二拍手一礼。慣れてるね。」

「私の地元には、たくさん神社があったから。よく美鈴と神社にお参りしてたよ。」

「京都は神社が多いから、ね。何をお願いしたの?」

「別に。言う必要ないでしょ。」

 本当は少し照れ臭かったから。「願うんじゃなくて掴み取る」といった手前、まさか『可愛くなって、正直になって、トップアイドルになれますように』と願ったなんて言えるわけがない。

「て、手毬。後ろ、振り返ってみて。」

「どうしたの、興奮し……あ。」

 振り返ると、視界に飛び込んできたのは、一面の青。太陽の光を乱反射して、とにかく美しく穏やかな海が広がっている景色。

「そこのベンチに座ろ、手毬。」

「あ、うん。」

 想像以上の絶景で呆気に取られていた私は、広の声で現実に引き戻される。まるで夢みたいな青い光は、実在するものだった。

「手毬、最近疲れてそうだった。だから、今日はこの旅行に誘ってみた。」

「……別に、疲れてないから。」

「嘘つき。咲季からも、疲労が取れていないんじゃないかって心配されてた。リフレッシュが必要だって。」

「だから、別に大丈夫だから……。」

 嘘だ。全然寝付けていない。

 広になら、言ってもいいのかな。広なら受け止めてくれるのかな。

 でも、月村手毬は弱音なんて口にしない。『アイドル:月村手毬』は、こんなところで立ち止まったりしない。不安も恐怖も何もかもを押し殺して、ただまっすぐに目標を見据えること。それが、私の生き方だ。

「ちょ、ちょっと広、なにしてんの?」

 答えに迷っているうちに、私は広に抱きしめられていた。とはいっても、海が見えるように横から。

「手毬はずっと苦しそうな顔をしてる。一度、思考を止めた方がいい。わたしなら隣にいるから、わたしでいいなら、全部話して。」

「……どうして、私にそこまでしてくれるの?」

 不思議だった。クラスも違うし、会ったとしても仲良くできている自信はない。私のことを「友達」なんて言ってくれるのに、私は広からの友好的感情に応えることができているとは思えない。

「手毬は、わたしのためにいろんなアドバイスをくれる。わたしのために時間を費やしてくれて、ダメダメなわたしのレッスンにも付き合ってくれる。今日だって、わたしが階段を上り終わるまで待ってくれてた。だから、お礼がしたかった。手毬のことが心配で、少しでも気が晴れてくれたら、わたしは嬉しい、な。」

「……そっか。」

 弱音を吐くなんてダメだ。そんなの、トップアイドルに相応しくない。

 でも、たまには。広の前なら、たまには。

「……広の声って、落ち着くね。」

「ありがとう。でも、手毬の声も綺麗だよ。」

「まあ、私の武器だからね。膝、借りてもいい?」

 広がこくりと頷いて、私はゆっくりと頭を下ろす。全部を委ねてしまったら広の足が壊れてしまうかも。でも、柔らかく優しい感触が居心地よく思えてきて、危うく全てを投げ出したくなる。

「ねえ広。しばらく、このままでもいい?」

わかった。返事をしっかり聞く前に、私の瞼は閉じていた。

* * *

 波の音って、ここまで聞こえてくるんだ。

 山の上からすごく遠いように見えて、案外近くに立っている。押し寄せては引き下がっていく、一定のリズムを崩さない波の音。何十何百何千回、ただ自然と最初からそこに在り続けるかのように、邪魔をしない音で。

 嵐が来れば、地震が起きれば、その姿は大きく変わる。けれど、長い長い地球の中ではほんの一瞬にも満たない長さでしかなくて、あっという間に元の音程へと戻っている。

 私は、海が羨ましい。海のように凪いだ心で、時折感情を爆発させたとしても、時間を置いたら静かな波。誰かの手助けなんてなくたって、私は一人で心を落ち着けることができるように。

 けれど、それはまだまだ先のこと。

 私にはこうして、たまには膝を貸してもらって心を休める時間が必要だった。人間は孤独に生きる生き物じゃなくて、周囲の人と助け合って生きていくんだって。私ひとりじゃ何もできないのだから。

 本音をなかなか言えないことが悩みだった。私の弱みを受け入れてもらえるなんて、出来すぎた妄想でしかないと思っていた。それでも、今日くらい、こうして私を外へと連れ出してくれた広くらいには、信じてもいいかもしれない。

* * *

 広が脚をしびれてさせてしまって、回復するまで待つことになった。結局、二時間くらい居たらしい。

 階段をゆっくり降りて、バス停がある場所まで歩いていく。あの神社から見えた景色、あれは何度だって見てみたい。

「手毬、どうだった?」

「よかった。すごいきれいだったよ。ありがとう。」

 とても静かだった。私の心が休まるくらい、とてもいい場所だった。

「ふふ、よかった。そんなに離れてないんだけど、まだ時間あるからもう一か所だけ。いい、かな。」

「いいよ。むしろ、お任せしちゃって悪いね。」

「ううん。わたしが誘ったから。任せて、ね。」

 バスに乗り込む。案の定、人は少ない。一番後ろの席へと向かい、今度は私が窓側に座った。

「そういえば、朝に買ったパン屋さん。美味しかったね。」

「うん。とくに、ポテチパンがよかった。」

「たしかに。なんか、ポテチらしくないポテチだった。また食べに行きたいかも。」

 それには少し、天川市からは距離があるような。

「……手毬。眠たくなってきた。」

「広、肩貸すから。馬堀海岸駅、で降りたらいいんだっけ。」

「正解。五分くらいだけでいいから……。」

 それはそうだ。だって、もうすぐ目的の停留所なんだから。

* * *

「うう、はぁ……ぜえ……はぁ……」

「平地で死にかけないでよ。倒れても背負ってなんていけないから。」

「わ、わかってる、よ……きゅう」

「ああああもう! 言わんこっちゃない‼」

 こまめすぎる休憩を取りつつ、着実に目的地を目指していく。海まで一直線だというのに、なんだか全然進んでいないような気もするが。

 地図アプリに表示された時間の倍を費やして、ようやく海岸に到着。広の顔は汗だくで、脱水症状なんじゃないかとさえ思えてくる。

 ベンチに座った彼女の眼は虚ろ。本当に大丈夫?

「だい、じょうぶ。たぶん。」

「それならいいけど……。ここで休むよ。」

 もうすぐ夕方。日が傾いて、眩しい。

 広が私の右肩にもたれかかってきた。せめて倒れるなら先に一言欲しい。

「でも、嫌がったりはしないんだね。」

「……さっき、膝貸してもらったし。」

「ん。手毬はやっぱり優しいね。」

「だから、私は広が思っているほどの人間じゃないから。」

 くだらない。でも、これが楽しい。

「そういえば、なんで広は旅行に行こうなんて思ったの?」

「むう。手毬にはさっき話したよ。」

「そうだね。でも、あれは私を誘ってくれた理由。広が旅行に行こうと思った理由じゃないと思うけど。」

 琥珀色の眼が、私に微笑んだ。

「手毬にしては、珍しい、ね。」

「珍しいってどういう意味?」

「ううん。大きな意味はないよ。」

「あっそ。でも、頼りないかもしれないけどさ。私のことも少しは信じてよ。私ばっかり話聞いてもらってたら、バランス悪いから。」

「……そう、だね。」

* * *

 美しい波が、わたしの視界を埋めていく。

 キラキラと光る白線が海をなぞり、波がかき消して、また引かれる。

「わたしは、綺麗な景色が見たかった。」

 時間が解決してくれるには、もう少しかかる。真紅の、悲痛に満ちた光景を塗り替えるのには、まだ。

「わたしの目に焼き付いてしまった赤色を取り除きたくて。ただ、ひとりだと怖かったから。だから、手毬も誘った。」

「どうして私を?」

「千奈や佑芽には見せたくなかった。わたしの弱っているこんな姿を、見せたくなんてなかったから、かな。」

「あんたたち、友達でしょ? それなのに?」

「……あの二人は、ううん。美鈴も入れた三人は、わたしにできた初めての友達。友達なんていなかったわたしには、とっても大切な人。」

 それは手毬も一緒。わたしの大事な友達。

「じゃあ、私とあの三人との違いは?」

「それは……、似たような悩みを抱えてそうだったから?」

「どういう意味?」

「わたしみたいに、自分ひとりじゃどうしようもないことに直面して、苦しそうな顔をしていたから。似たような痛みを持っているかもしれない手毬と一緒にいたら、もしかしたら変わるかもしれないから。」

 手毬の方にもたれかかったわたしの頭を、手毬が撫でてくれた。とっても優しい、暖かい手。

「多分だけどさ。大丈夫だよ。私以外のみんなも、広が考えてるよりずっと、一緒に悩んで受け入れてくれると思うから。」

 確証なんてない。でも、友達だから。

「信じても、いいのかな。」

「そういう関係が‟友達‟なんじゃないの?」

「たしかに、ね。信じて……頼ってみる、よ。」

 もちろん、手毬にも。

「ねえ、手毬。」

「なに、広。」

「わたしのこと、いつから名前で呼んでくれるようになったっけ。」

「さあ? 覚えてないね。」

「質問を変えてみる。どうして名前で呼んでくれるの?」

「友達だから、じゃないかな。」

「……手毬はやっぱり、わたしのことが好き。」

〈輝くキミへ〉

「おはようございます、篠澤さん。」

 いつものように、彼女が来る少し前から事務所代わりの教室で、パソコンに向き合っていた。

「うん。おはよう、プロデューサー。」

 彼女は長机の向かい側に置かれたパイプ椅子に座り、カバンから本を取り出した。

「何を読んでいるのですか?」

 私が座っている位置からでは、タイトルが確認できなかった。普段ならあまり気にしないけれど、今日はなんだか気になって、彼女に質問してみることにした。

「『オリエント急行殺人事件』って本。図書館で借りてきた。」

「ミステリーとは意外ですね。」

 彼女は本から少し顔を上げた。

「プロデューサー、この本のこと知ってたんだ、ね。息ぴったり。」

「そんなことはありません。かなり有名な作品ですから。」

 冗談か本気なのか、たまにわからなくなる。万が一にも彼女が本気であったときを考えると、否定するしか道がない。

 彼女もこちら側の都合を知っているだろうに、定期的にこのやり取りに興じていた。その理由が、『私が動揺しているのを見たい』なんだろうくらいの想像が思い浮かんで、彼女の掌の上で転がされている感じがした。

「昨日、篠澤さんにお仕事の依頼が来ましたよ。」

 正確には、先週あたりだが。根尾先生から呼び出されたあの日、私と篠澤さんに依頼された仕事。その詳細内容がようやく決まり、昨日届いたというわけだ。

パソコン内のメールボックスを開き、向かい側に位置する篠澤さんに画面を見せようとすると、その前に彼女は席から立ち上がって、窓側から私が座る黒板側の席へ回ってきた。

 私よりも少しだけ高い一五九センチが歩くと、それに合わせてすらりと伸びた長い髪が揺れていく。アイドルらしい立ち姿の良さは、彼女の努力の賜物である。

「このほうが見やすい、ね。それで、わたしにどんなお仕事?」

 左利きだから使いやすい側に座るのは間違いじゃない。しかし、どうもそれだけが理由じゃないようにも思える。

「そうですね。篠澤さんと倉本さんの二人で、中学校を訪問することになりました。」

地域との交流を図るとともに、初星学園を受験する生徒を増やすことが主目的。これまでにも何回か、商店街振興として小さなライブに出たことはあったけれど、中学校となると話は変わってくるだろう。

「中学校……?プロデューサー、わたしの経歴、知っているでしょ?」

 そう、彼女は特殊な事例だ。

 その才能が評価され、日本の義務教育を何段かすっ飛ばしてしまっている。ゆえに、彼女には普通の学校に通った経験に乏しい。

「どうしてその仕事を受けようと思ったの?」

「誤解を生んでしまったようなら申し訳ありません。しかし、今回はちょっと事情が特殊でして。というのも、もともとは倉本さんのところに来ていたお仕事なんです。」

「じゃあ、どうしてわたしのところにも?」

 もっともな疑問だ。本来は別のアイドルへ割り振られていた仕事が、追加とはいえ担当アイドルに回ってきたのだから、そこになにかしらの理由があるんじゃないかと聞きたくなる気持ちはよくわかる。

「実は倉本さんのプロデューサーから、倉本さんだけでなく篠澤さんも一緒にどうかと先方に提案していただいたようでして。先方としても、可能であれば初星学園のアイドルが一人でも来てくれた方が華やかになるからと、とても好意的に合意してくれたみたいです。」

 正直なところ、私も驚いた。契約解除を促されると思っていたらそんなことはなく、それどころか彼女と私が成長する機会を用意してくれていたなんて。閉じこもっていた期間の板書ノートに加え、それなりに高い借りがついてしまった気がする。

しかし、依頼された内容を見ても篠澤さん向けの内容であるだろうし、なにより倉本さんと仲の良い篠澤さんが一緒なら、プロデューサー視点でもお互いに安心して仕事を任せることができる。

「ふーん。わたし、千奈と一緒にお仕事できるんだ。楽しみだ、ね。」

「ええ。当日は私も同行しますが、倉本さんが一緒ですと安心できます。」

 とはいえ、いくつか懸念点はあるが……まあ彼女ならばうまくやってくれるだろう。多分、きっと。

* * *

 ——当日。

 空は快晴。空気は澄み、穏やかな風が吹いている。

「それでは、倉本さんと篠澤さん。本日はどうぞ、よろしくお願いします。」

 中学校の応接室にて、私たちは先方との打ち合わせをしていた。

 学年主任と名乗ったスーツの男性は、私たちに深々とお辞儀をする。こちらもそれに合わせて頭を下げる。

 今回依頼された仕事は、初星学園一年生による地域交流が目的だった。初星学園としては入学者を増やしていくための対外的なアピールだろうが、アイドルを売り出していくためには当然ながらまずは知名度である。自分自身を知ってもらわなければ、アイドルとして花開くことは決してない。

 軽い打ち合わせを経て、私たちはそのまま部屋で待機。篠澤さんと倉本さんの二人は、学年主任に連れられて出て行った。

「それでは篠澤さん!さっそく教室の方へ向かいますわよ!」

「うん。それじゃプロデューサー、また後で、ね。」

 学年主任の後に続いて、二人は手を振って出ていった。プロデューサー組だけが取り残された応接室で、深く息を吐く。

「はぁぁぁ……。ちょっとマジで緊張してきたかも。」

 同期は、触り心地の良さそうな椅子に座り始めた。口調を崩した倉本さんみたいだ。小さくてかわいい。

 基本的に何もなければ、私たちはこのまま。そう、何事もなければ。立って待っていても仕方がないので、私も倉本Pの向かい側に座ることにした。せっかくなら担当が頑張っている姿を見ようとも思ったのだが、信頼して任すことも大切である。

「一応確認なんだけれど、私が篠澤さんを推薦した理由って、本人に話していないよね?」

「ええ。もしかしたら気づかれているかもしれませんが、あえて言う必要はないでしょう。倉本さんとも仲が良いようですし、理由付けはそれなりに自然だったと思います。」

 この中学校訪問には、いろいろな目的がある。初星学園としても、プロデューサーとしても、そして彼女の最初のファンとしても。ただ、それを言う言わないは別の問題だ。

 彼女にとって、この経験は何かしらの学びにつながるだろう。それが言語化できるものではないとしても、この先必ず役に立つ時が来る。

「失礼します。簡単なものしかお出しできず申し訳ありませんが……。」

 ゆったり過ごしていると、扉が開かれた。どうやら、事務の方がお茶を持ってきてくれたらしい。

「いえいえ、本当にありがとうございます。いただきます。」

 小さな机にお茶と和菓子が置くと、事務の方はそそくさと戻って行ってしまった。学校事務の仕事は大変だと聞くので、お手を煩わせてしまったらしい。少し申し訳なく感じた。

 お茶を啜る。あたたかい。緊張で強張った身体が少しほぐれた気がする。

「ねえ。聞きたいことがあるんだけど。」

「なんでしょうか。今日のことでしたら綿密な打ち合わせの記録が残っているので差し上げますよ。」

「いやぁ、そうじゃなくて。」

 周りをちらちらと確認して、それから同期は言いにくそうに言葉をつづけた。言いにくいことなら言わなければいいのに。

「……この前、一週間休んでいたけどさ。」

「体調を崩してしまって。同性なんですから、わかりますよね?」

「いやまぁ、分かるんだけどさ。それだけだと思えない。」

「気のせいですよ、考えすぎです。」

 彼女は勘がいい。違和感に気付いて言語化する能力に長けている。けれど、この話は篠澤さんとだけの秘密だ。私の弱さはもう、篠澤さん以外に見せない。

「まあ、いいけどね。あの休みの前と後だと、顔色もよくなったみたいだし。ただ、夏に半袖を着ているとなんかあるんじゃないかって思われるから、気を付けた方がいいとは思う。」

「……善処します。」

 和菓子はひと口カステラ。お茶にとても合う。

「たしか、交流するのは二クラスだったね。各クラス一人ずつ、かな?」

「はい。そのクラスの学級委員を中心として何をやるのか決めたようですね。倉本さんが訪問するクラスは、対談形式での交流になると聞いています。」

 この交流、生徒たちもかなり楽しみにしていると聞いている。訪問してくれるアイドルのことをしっかり考えて企画を練ってくれたことが、自分のことのように嬉しい。

「篠澤さんが訪問するクラスは……どうやら授業に一緒に参加するみたいな感じらしいです。後でちらっと見に行ってみましょうか。」

 それくらいならいいだろう。普段はあまり見ることができない、同い年くらいの子供たちと関わる篠澤さんの姿は、今後のプロデュースでも役に立つかもしれない。

* * *

 わたしと千奈は、学年主任をしているという先生の後ろをついていった。階段を一階分昇ると、先生は立ち止まった。

「こちらが今回、交流していただくクラスの教室になります。至らないところがあるかと思いますが、何卒よろしくお願いいたします。」

 千奈は向かって右側の一組、そしてわたしはその左隣の二組。

「クラスって、この二つしかないの?」

 なんだか少ないような気がする。まあ、普通の学校ですら、大体どれくらいのクラス数なのかがいまいちよくわからない。

「はい。最近はこの地域の過疎化が進んでいまして。昔は地元の高校に進学する生徒が多かったんですが、今は少し遠く離れた都会の学校を志望することが多いですね。私たち教員側としても、何とかしたいのですが……。」

「そう、なんだ。」

 地元を離れる理由はいろいろある。わたしみたいに海外の大学へ行ってしまうことは極めて稀な例だとしても、夢を叶えるために都会へと出ていくことはよく聞く話だ。

「さて、それではどうぞ、お入りください。」

 考えたいことはたくさんある。でもそれは、この仕事が終わってからでも遅くはない。

「じゃあ千奈。またあとでね。」

「ええ! 篠澤さん、がんばってくださいませ!」

「ありがとう。千奈も、がんばって。」

 互いに軽くエールを送り、それぞれ割り振られた教室へと入っていく。

* * *

扉を開けると真っ先に、大きな拍手の音を浴びた。

 教室はカラフルに装飾され、黒板には『篠澤広さん いらっしゃい!』と書かれていた。

「きれいだ、ね。」

 感じたことは声に出していったほうがいい。レッスン合間の休憩中に聞いたことを思い出す。それは決して受け狙いだけではなく、感情——特に喜びを表現することは、そう感じたものを作り上げた人たちに対する敬意を表すことだからと。

 千奈も佑芽も、感情豊かだ。笑うときは笑って、泣きたいときは泣いて、うれしいときは最大限喜びを表現する。ころころ変わる表情を眺めているだけで、わたしは暖かさを感じている。

「それでは篠澤さん。本日はよろしくお願いします。」

 学級委員をしているという中学生が二人、教卓の前でわたしに一礼をして、ピンマイクを渡してくれた。

 わたしに頼まれた最初のことは、わたしによる講義。千奈はどうやら対談みたいなやり方で質問に答えていくらしいけれど、わたしは多分質問相手を困らせてしまうだろうから、この形式に不満はない。

むしろ、このあとの授業参加の方が緊張する。適度に手を抜いて、みんなで一緒に考える。経験の少ないわたしに成し遂げられるか不安だ。

 教卓に立つ。少し緊張する。ステージはたくさんの観客に見られているけれど、それに比べればとても小さい。けれど、この小さな箱とはいえ、ステージはステージだ。

 プロデューサーから依頼された内容を聞いて、わたしは沢山考えた。何を話そうかって、すごくすごく考えた。文章もいっぱい書いて、クラスの友達や先輩にもいっぱい話を聞いてみた。その成果が少しでも見せることができたら、少しでもわたしの言葉が残ったら、それはとても嬉しい。

 生徒たちはみんな、教壇に立つわたしのことをキラキラとした目で見つめていた。わたしは今からこの子達に、夢を与えなければいけない。

 それが、【アイドル】だと思うから。

* * *

それじゃあ、えっと。はじめまして。

初星学園アイドル科一年、篠澤広、です。

まずは……うん。今日のためにいろんな準備をしてくれてありがとう。こんなきれいな教室、わたし、はじめてだ、よ。

今日はたしか、わたしがいろいろと話す感じで、いいのかな。でも、みんなももしかしたら、わたしに聞きたいことがたくさんあるかもしれない、よね。うん、うなずいてくれてる人がたくさんいる。

 だから、わたしはみんなに伝えたいことをちょっと話してみたら、あとはみんなとお話してみたいなって思う、よ。

 それじゃ、さっそく始めていこっか。

 わたしのことを知っている人って、どれくらいいるの、かな。手を挙げてもらえる?

 ……たくさんいる。うれしい、な。やっぱり、アイドルをしていて嬉しく思う瞬間のひとつって、わたしのことを知ってもらえたとき、なんだ。

 みんなって、わたしのこと、どんな風に思ってくれてるの、かな。誰か教えてくれる人、いる?

 あ、じゃあ真ん中くらいの子に、聞いてみようかな。どうしてわたしのこと、知ってくれたの?

 そうなんだ。初星学園の定期公演に、来てくれたんだ。ありがとう。うれしい、よ。

 わたし、これでも少し緊張してる。こうやってみんなの前で歌ったり、踊ったり。それでもまだまだ全然。わたしが【アイドル】になるのは、遠い道のりだから。

 ねえ、みんなは「夢」って、ある?

 いま持っている人も、まだまだふわふわしている人も、いると思う。

わたし、ね。もう、「夢」は叶ってる。

 わたしの「夢」は、【アイドルを目指すこと】だった。わたしはアイドルを知って、わたし自身がやりたいことを見つけられた。

 初星学園でのレッスンは、すごく大変で。とても過酷で、わたしは倒れてばかりいた。でも、そんな毎日がとっても楽しい。

 みんなは、失敗して怒られたり、後悔したりすることって、あるのかな。わたしが初めてできた友達は、みんな「ある」って言っていたから、思い出せなくても糸つくらいはあるのかもしれないって、思ってる。

 わたしは、ね。そういうのが、なかったから。

 失敗することも、怒られることも、後悔することも。ううん。それだけじゃない。嬉しいこととか、楽しいこととか、なにもなかった。

 アイドルに出会うまでのわたしは、とっても退屈で、つまらなかった。失敗することなんてなくて、成功しか味わうことができなくて。

 でも、わたしは初星学園に入学して、毎日がとっても楽しくなった、かな。なにもかもが初めてで、なにもかもが上手くいかなくて。そんな毎日が、すっごく楽しい。

わたしは夢を叶えることができた。初めて持った夢を叶えることができた。パパはとっても複雑そうな顔をしていたし、トレーナーやクラスの子たちからも、「どうしてアイドル目指そうと思ったの?」って言われたこともある。

 でも、わたしはこの夢が叶って、後悔したことはない、よ。たしかに、つらいことや苦しいことはいっぱいあるけど、これまでの十五年間にはなかった経験を、たくさん得ることができたから。

じゃあ、今の夢は何になるんだろう……。

この企画をもらってからずっと、考えてた。夢が叶っても、その先もまだ、人生って続いていくから。

そんなとき、大きな出来事があった。わたしの大切な人が、全てを諦めそうになって。全部を投げ出しそうになった時のこと。鮮明に覚えてる。

 ずっとそばにいてくれるって約束してくれていたのに、小さなことが積み重なれば、いつか溢れて壊れてしまう。そんなことを、わたしはあの人から学んだ。

 みんなは、『生きた時間』って言われて、イメージがつく?

 ……難しいよね。わたしだって、まだ実感したことない。

 これは、わたしが師事してた先生からの話だけど、ね。

 人はみんな、支え合って生きてる。

 でも、普段はそんなの間接的でしかなくて、目に見えないくらい細い糸でしかつながってない。そう、わたしだって、みんなと糸でつながって、支え合ってる。

 お店の人だって、学校の先生だって、そう。みんな、想像もつかないくらい遠い人たちとつながっていて、みんながそれぞれできることをやってる。それが、社会の成り立ちなんだ、ね。

 でも、みんなは誰かのためになんて思って動いてること、少ないと思う。わたしだって、そうだから。誰かのためにアイドルを目指したんじゃなくて、わたしが目指してみたくてアイドルになったから。全部、わたしのためだったから。

 アイドルはみんなに笑顔を届ける存在。失敗の責任は許されないし、そのためには誰よりも努力しなきゃいけない。

 でもそれって、見方を変えたらさ。わたしの時間で直接、誰かを幸せにしているってことなんだって、そう思えた。わたしのためだけにしか使わない『死んだ時間』じゃなくて、『生きた時間』を誰かのために。

* * *

 プロデューサーに発表原稿を見せた時のことが、瞼の裏に映る。

「いいじゃないですか。篠澤さんらしい、いい言葉だと思いますよ。」

「……jほんとにいいの?」

 【夢を持ったことで変わった篠澤広】というテーマで書くことは、早々に決まった。初星学園のアイドルとはいえ、入学から一年も経過していないわたしに書けることなど、さほど多くはない。

 プロデューサーは話してくれなかったけれど、今回の仕事はおそらく、初星学園のプロモーションを兼ねているんじゃないかと思っている。だから、できるだけ初星学園に興味を持ってもらえる、少しでも好意的に見てもらうことが重要視されていると考えた。その結論から作ったのが発表原稿なのだけれど……。

「持ってきてくれた時点で微妙な顔されてるんですから、それくらいはわかりますよ。大丈夫です。今後のプロデュースに差し支えるほどの影響はないかと。」

 わたしの経歴を極力使わない。それが、わたしとプロデューサーが契約した時点の方針。それでも、テーマを【過去からの学び】にしてしまったがゆえに、どうしても回避できない。

 そしてそれ以上に、わたしとプロデューサーがあまり思い出したくない、あの一週間の出来事に触れることが怖い。どうしても、扉を開けたときに感じたすべてを拭うことができない。

「それよりも、篠澤さんが話したいことのほうが大切です。様々な方からアドバイスを求めていたと聞きましたよ。」

「うん。前に立って話したのって、アイドルになる前は論文発表の時くらいだから、ね。どんなことを話したらいいか、よくわかんなかった、よ。」

 わたしの周りにいる人たちは、みんな優しい。誰かが困っていたら、快く相談に乗ってくれる。咲季も美鈴も手毬も、清夏もことねも星南も、私に手を貸してくれた。

「いいですか、篠澤さん。アイドルは誰かに【夢を与える】仕事ですから。篠澤さんが中学生たちに何を伝えたいのかが、一番大切です。」

 励まして、撫でてくれた。わたしの愛しい愛しい、大切な人。

* * *

 みんなには、『生きた時間』を過ごしてみてほしい。

ほんの少しでいいから、誰かのために時間を使ってみてほしい。

どんな形でも、大丈夫。

誰かの頑張りを褒めてみることでも、普段はあんまり一緒にならない人と同じ時間を共有してみても、同じ景色を一緒に見て笑っても、苦しい思いをしている友達の相談に乗ってみても、何だっていいと思う。

 ……簡単に思える、かな。たしかに、みんなも一回くらいは心当たりがあるかもしれない、ね。

 簡単なことからでいい、よ。ひとりひとりが『生きた時間』を生きてみる。その積み重ねで、また誰かが救われて、夢をもらって、みんなが誰かの憧れになるから。

 わたしは、みんなにね。そんな夢を持ってもらいたい、な。

 どんな形の夢でも大丈夫。いまみんながそれぞれ取り組んでいることの先にあるものでも、それとは全然違う道でも。

『生きた時間』を生きるための夢は、誰かの夢になる。

 わたしはある人から【アイドルを目指すこと】夢を貰って、わたしの人生はとっても楽しくなった。でも、わたしみたいに【アイドルを目指す】ことが、みんなにとっての正解じゃないと思う。

今のわたしの夢、それはみんなに【夢】を届けることなのかも。

 みんながそれぞれ、【夢】を見つけられたら、わたしはうれしい、な。

* * *

「篠澤さん、とってもいい話をされますね。」

 教室後方に設けられた横開き扉の窓から様子を伺っていると、学年主任が話しかけてきた。

「ありがとうございます。」

 邪魔しないくらいにボリュームを落とし、感謝を伝える。

「夢、ですか。中学生は進路を決めなければいけない反面、なかなか難しいので……。」

「そう、ですね。たしかに、私が中学生だったころにも悩んだような気がします。」

 プロデューサーを志したのは、高校生になってからだ。中学校時代、と言ってもたかだか四年前のことではあるが、当時の私には今の環境のことなど、想像もできなかっただろう。

「……今回、倉本さんのプロデューサーさんから篠澤さんもどうかと打診をいただいたとき、すごく悩みました。倉本さんは非常に明るいお人柄ですので、生徒たちと馴染みやすいとは思っていました。しかし、そういったプロデュース方針ではない方ですと、双方にとって良くないのではと、思ってしまったのです。」

 その懸念はもっともだろう。たしかに、一組に在籍している月村さんや花海さんのように、【孤高】や【カリスマ】をキーワードにしているアイドルにとっては、この交流会は荷が重い。

「篠澤さんについて、少しだけ調べさせてもらいました。その類稀な才能を買われ、海外の大学を飛び級で卒業されているそうですね。」

「……はい。あまり表沙汰にしていただきたくはないですが、事実です。」

 学年主任は「当然です」とうなずいて、続けた。

「篠澤さんは、中学校で生活した経験がほとんどありません。いや、もしかしたら全くないのかもしれない。だから私は、今回の申し出を承諾したんです。」

「と、言いますと?」

「彼女はまだ十五歳。私たち教員からすれば、まだまだ子供です。様々なことに挑戦し、挫折して、成功して。積み上げた経験をもって、次の舞台を自分自身で選んで進んでいきます。」

 中学校の先生というのは、私の記憶の中だとあまり良い印象がない。今振り返ってみれば小学校というぬるま湯の中で生活してきた子供を大人へとしていく過程にあるのだから、多少の厳しさが必要だったのだろうと思う。

「彼女には、中学校がどういうものなのか、知ってほしいと思いました。それは学習面ではなく、人間関係や空気感といった、感情の面ですね。」

 私はただ相槌を打つしかなかった。いい加減に右から左へ流していたわけではなく、それは本当に事実であったから。

 彼女には経験が足りていない。大多数が通る道では収まらなかったことで、年相応ともいうべき振る舞いや考えに欠けている。

 それは、他のアイドルとの差別化という点では強みになる。しかし、なくなってしまった中学校生活というものを、実際に体験することはできずとも肌で感じてみてもらいたい。

「すみません。長く話してしまいました。」

「いえいえ、先生がおっしゃられたことは私も感じていたことと同じですから。」

 学年主任は一礼して、隣の教室に向かっていった。どうやらかなり盛り上がっているみたいだが、倉本さんは大丈夫だろうか。

「まあ、あっちはあっちで大丈夫……ですかね。」

* * *

 それから二時間くらいで交流会が終わり、惜しまれながらも教室から離れた私たちは、最初に通された応接室に戻ってきた。

「本日は本当にありがとうございました。生徒たちにとても刺激になったようでして、良い体験をさせていただきました。」

 学年主任と、訪問した二クラスの担任が、丁寧に頭を下げる。つられてこちらも頭を下げた。

「こちらこそ、ありがとうございました。倉本さんや篠澤さんにとって、貴重な経験になりました。」

 倉本さんはにこやかな笑顔を浮かべながら、姿勢よく立っている。やはり、倉本財閥のご令嬢だけあってひとつひとつの所作が綺麗だ。

 篠澤さんは……なんだろうか。どこか遠くを見ているようで、心ここに在らずといった様子だった。

 一通りのあいさつを終え、応接室を出る。このあとは学校を自由に回り、部活などの見学をしても大丈夫らしい。

「篠澤さん! わたくし、吹奏楽部の見学に行こうと思っていますの! ご一緒にいかがでしょうか?」

 倉本さんはこの機会を満喫するらしい。たしかに彼女の楽曲はオーケストラチック。吹奏楽部は多少なりとも参考になるだろう。

「……わたしは、ちょっとふらふらしてみようと思う。千奈、またあとで、ね。」

 彼女は私の腕を引っ張って、どこかへと歩き始めた。

 戸惑う私が後ろを振り返ると、二人は談笑しながら反対方面へと向かっていく姿が見えた。何があるのかわからないが、どうやら助け舟の期待はできないらしい。

* * *

 連れていかれたのは、中庭だった。円形の小さな広場を囲む花壇には色とりどりの花が植えられ、『園芸部が手入れしています』という看板が立てられている。

 手を引かれて歩く間、彼女は一言もしゃべらなかった。どうしたのかと聞いても、何も返してくれない。

 それは中庭に着いても変化がなかった。とりあえず一度落ち着かせようと思い、「あのベンチに座りましょう。」と、今度は私が彼女の手を引いて、中心から少しずれた場所に置かれた木製のベンチへと向かう。

「何がどうしたのかはいったん置いておくので、まずは水を飲んで落ち着いてください。」

 横に座った彼女の頬は少し紅潮している。気のせいかもしれないが、いつもよりも呼吸が浅いような気がした。

 リュックから出した水筒を渡すと、小さな声で「ありがと」と返ってきた。

 穏やかな風が、私たちの間を通り抜けていく。耳をすませば校庭がある方向から掛け声が聞こえてくる。

 草木と花々の香りが包むこの場所は、どうやらひそかな人気スポットらしい。その理由がなんとなくわかる。

「篠澤さん。」

 いつも以上にやさしく、声をかける。

「……広って、よんで」

 静かなはずなのに、彼女の声はそれより小さく、聞こえなかった。しかし、言葉を口にしたのは分かった。

「えっと、もう一度聞いても、いいですか?」

 彼女は深呼吸をして、私のほうへと向き直る。

「……広って、よんで、ほしい。ちゃんと、名前で。」

 周りを見回す。誰もいない。ここには私たち二人だけ。

「……広さん。何があったのか、聞いてもいいですか?」

 はじめて呼んだにしては、すんなり声にできた。

「プロデューサーは、なんでわたしのこと、名前で呼んでくれないの?」

「それは、あくまで私たちは『アイドル』と『プロデューサー』という関係だからです。勘違いであっても、変な噂をかけられるわけにはいかないんです。」

 広さんは複雑そうな表情で、私の顔を伺ってくる。

「ぷろでゅーさー、ごめん。」

 そう言って、彼女は私の膝へと頭を下ろしてきた。

「ちょちょちょ、まってください? どうしたんですかいきなり。」

 焦る私のことなど知らぬ存ぜぬお構いなしに、篠澤さんはくつろぎ始めた。

「プロデューサーもわたしも、同性だから大丈夫。それより、あんまり大きな声出すと、ほかの人に見つかっちゃう、よ?」

 ……先手必勝という言葉は、こんな状況の時に使うのだと、知見を得た。

* * *

プロデューサーが血まみれで倒れている姿が、本当に怖かった。

 もしかしたら死んでしまっているんじゃないか。もう息もしていなくて呼吸も止まって心臓の鼓動さえも止まってしまっていたら、わたしは壊れてしまっていたかもしれない。

 五日間、わたしは何もできなかった。インターホンを鳴らしても出てこなくて、鍵の在処を知っていたけれど開ける勇気がなかった。それをしたことで、プロデューサーに嫌われてしまうかもしれなかったから。

 ただじっとして、事務所に残されていたメモを頼りに、レッスンを行うことしかできなかった。わたしが何も行動しなかったから、プロデューサーをたった一人で、想像もできない痛みを、抱え込んでいた。

 自分で自分の手首を切る。リストカット、と言うらしい。

 わたしには理解らない。部屋で鋏を手首に当てても、怖くて震えが止まらない。当てているだけだから痛みなんてないのに、血で真っ赤に染まったあのシーツの光景がまだそこに在るような気がして、気分が悪い。

 泣きじゃくるプロデューサーの、悲痛な顔と声。三日過ぎても、まだ残っている。

 優しく頭を撫でながら、胸を貸す。それくらいしか出来なくて、もどかしかった。それなのに、プロデューサーはわたしを求めてくれた。

 これで、本当にいいのかな。

 わたしはこのままずっと、プロデューサーと一緒に居てもいいのかな。

 わたしのせいで成績が下がっていて、わたしのせいでここまで苦しんで。どれだけわたしが原因になればいいんだろう。わたしがずっとプロデューサーといるせいで、プロデューサーの人生を縛り付けてしまっていないかな。

 わたしが足枷になっているのなら、わたしは離れてしまった方がいいのかもしれない。泣き疲れて眠ってしまったプロデューサーの痛々しい顔を見て、わたしはずっと悩んでた。

 でも、わたしはこうして、プロデューサーと共に歩むことを改めて決意した。わたしの『生きた時間』を、プロデューサーのために使うって、決めたから。

* * *

「今日、みんなの前で話してきた。」

「ええ。どうでしたか?」

「不思議な感じが、した……かな。」

「不思議、ですか。」

「うん。わたしのことをみんなは知ってくれてる。それはライブの時も一緒。でも、今日のはなんだか違った。」

「そうですか。広さんとしては、やってよかったですか?」

 短い間。思考。

「まだ、わかんない。まずは今日あったことをまとめてみてから、だと思う。」

 返事はいらない。彼女の思考は邪魔しない。

「わたしは、中学校に通ったことなくて、だから、とても新鮮だった。」

「たとえば、どんなところですか?」

 思い返す。

「みんな、制服を着てた。統一感がある。」

「そうですね。初星学園にもありますが、結構自由が利きますからね。」

「あとは……みんな、将来のことが決まってないところ?」

「まあ、アイドル科に在籍していれば、わざわざ夢なんて考えませんからね。」

「うん。【夢】じゃなくて【目標】になってる人が多いよね。でも、今日会った中学生は【夢】がないって、言ってた。」

「それが普通の、一般的な中高生だと思いますよ。私自身もそうでしたから。」

「そう、なの?」

「はい。中学生のときは将来なんてスケールが大きすぎて、進路指導の話もぼんやりと聞くくらいしかできませんでしたね。意外でしたか?」

 頷き、肯定。

「わたし、プロデューサーのことだから、ずっと【プロデューサーになりたい】って思ってた、よ。」

「そんなことないですよ。私が今プロデューサー科にいるのだって、進路指導の先生から推薦枠が余っているという話を聞いたからですよ。夢なんて後付けです。普段は友達と、コスメの話なんてしてましたね。」

「想像できないかも。プロデューサーもかわいいね。」

「からかわないでください。ただの昔話ですよ。」

「ふふ、ごめん。でも、プロデューサーでさえそうなら、今日会った子たちはもっとそうかもしれない、ね。」

「ええ。だから今回、広さんが『夢」について話してくれて、良かったと思ってます。一歳か二歳くらいしか変わらないほど年齢が近いんですから、身近に感じてくれたかと。」

「だと、いいな。」

 自信がない。そんな気がした。

「……なにか、引っかかることがありましたか?」

「うん。わたしはみんなと全然違う道を歩いてきたから、参考になるのかなって、思っちゃった。海外で勉強して、それを辞めてアイドルを目指して。それが普通じゃないことくらい、わかってる。」

 普通と違う人生。周囲との差を、彼女は感じている。

「だから、ちょっと不安になった。ううん、ちょっとじゃない。すごく不安。」

「それは、あの中学生たちに広さんの気持ちが届いたかどうか、ですか?」

「……さすがだね。プロデューサーはわたしのこと、好きすぎ?」

「それくらい、誰にだってわかりますよ。」

「そっか。うん、そうだね。」

 篠澤さんは目を閉じた。かなり疲れたんだろう。

「プロデューサーは、わたしの言葉、届いたと思う?」

 答えは決まってる。でも、ただ伝えるだけでは、陳腐だとも思う。

「……プロデューサーの手、あったかいね。」

 返事の代わりに、私は左手で彼女の髪を撫でた。今の彼女に必要なのは、言葉じゃないと思ったから。

「広さんなら、大丈夫ですよ。」

「ありがとう。でも、どうして?」

「教壇に立って話す広さんが、とても輝いて見えたからです。それ以上の理由、必要ですか?」

 驚きつつも、「そうだね。」と零れた。

「広さんの声はちゃんと届きました。それは、私が保証します。たとえそれが小さな影響でも、まぎれもなく広さんの功績です。」

「プロデューサーは褒め上手。アイドルをそうやって誑かせてる。」

「人聞きが悪いですね。お貸ししている膝枕を取り上げてもいいんですよ?」

 冗談を言い合う。時間がゆっくり過ぎていく。

「お疲れのようですし、今日はもう帰りますか?」

「ううん。もう少しだけこのままでいさせてほしい、かも。」

 腕時計を覗く。部活動が終わるまで、あと二時間ほどあった。

「あとは、ね。部活を見学してみたい。」

「わかりました。そしたら、あと三十分ほど休憩して、それから見学させてもらいましょうか。」

* * *

 交流会から数日たった、平日のこと。

「プロデューサー、おはよう。」

 教室に向かう前、事務所代わりになっている教室に入ると、朝早くからいるであろうプロデューサーに挨拶をする。

「おはようございます、篠澤さん。」

 予想通り、その部屋に彼女はいた。

 冷静に、無駄を省いた挨拶の返し。あの日のことなんてなかったかのように。

 なんだか、不思議な気分だ。わたしたちは、少なくともわたしは、鮮明な記憶が残っている。あのゆったりとした空間で、不安な気持ちを吐露した中庭を、わたしは覚えている。

それは別に、中庭だけの出来事じゃない。

 佑芽がわたしよりも先にライブをして、それを見に行ったとき。初めて感じた『悔しい』感情。

 学校訪問のときに初めてプロデューサーに名前を呼んでもらえたとき。大好きな人に名前を呼んでもらえたことへの『嬉しい』感情。

 わたしの人生にとって、大きな出来事たち。わたしの隣には必ずプロデューサーがいて、わたしと一緒に感じたことを分かち合う。

 プロデューサーは過去をなかなか振り返ってはくれない。わたしが話題に出さなければ、プロデューサーはいつかすっかり忘れてしまうかもしれない。

「それはすこし、さみしいな」なんて、口には出さなかった。

* * *

 結局一日の予定を確認するだけで、わたしたちは解散してしまった。

 もやもやとした気持ちを抱えながら教室に向かい、自分の席に座るや否や、千奈が大急ぎでわたしのところへと駆けてきた。

「篠澤さん篠澤さん! 大変ですわ~~‼」

「ちょっと千奈、どうしたの?」

 千奈はいつも笑顔だが、今日は特段と嬉しそうな表情だった。

「実は昨日、この前訪問した学校の皆様から、お手紙をいただきましたの‼ プロデューサー様のところに届いていらっしゃるらしいですので、篠澤さんも見に行ってくださいませ!」

 手紙が届いた。わたしのところにも?

「……千奈はもう見たの?」

「ええ‼ プロデューサー様に届けていただきましたのよ!」

「そう、なんだ。」

 そんなの、聞いてない。

彼女はちゃんと『報・連・相』をちゃんとしている人だから、何か理由がなければ報告が来るはず……だと思う。

 でも、わたしからプロデューサーに言うのも違う気がする。あの日、中庭で不安な気持ちを吐き出してしまった手前、忘れようとしている素振りをしていたほうが自然なのかもしれない。

「篠澤さん? もしかして、まだご覧になっていないのですか?」

「……うん。プロデューサー、最近忙しいらしくて。」

 嘘だった。でも、口にした言葉が本当だったらいいのになんて思ったのも、事実だった。

「し、篠澤さん……?」

 珍しく、言い訳を探しているわたしがいる。それがとっても面白い。

 プロデューサーのことは何でもわかると思っていた。

 でも、現実はそううまくいかない。

 それがどうにも楽しくて、ままならない。

* * *

「プロデューサー、話がある。」

 授業を終わると同時に素早く荷物をまとめ、わたしは事務所代わりの教室へと向かう。その足はいつもよりも早く感じた。

 扉を開けたら、朝会った時と同じようにパソコンを弄っていた。なんだか難しそうな顔をしているけれど、今はあんまり気にしていられない。

「プロデューサーは、わたしに何か隠し事をしてる。」

 真意が知りたい。ただそれだけだ。

「べつに怒っているわけじゃなくて、その理由が知りたい。どうして?」

 プロデューサーは、わたしの目を見つめていた。手作業も止めて、わたしに向き合ってくれていた。

 沈黙が流れる。

 それは、一瞬のようにも、とても長い時間が過ぎていったようにも、感じられた。

「……あの交流会、篠澤さんがどう受け止めているのかがよくわからなかったんです。だから、届いた手紙を渡すのを躊躇していました。すみません。」

 優しいプロデューサーの声と、想い。わたしのことを一番に考えてくれているのが、よくわかる。

「ごめんなさい。プロデューサーのこと、信じ切れていなかった。でも、隠し事は良くないって、もうしないって、約束した、よ。」

「そう……でしたね。こちらこそ、すみませんでした。こちらが頂いたお手紙になります。読みますか?」

 机の端に置かれた小さな段ボールの中から出てきたのは、複数枚の色画用紙がリボンで結ばれたものだった。

「すごい、ね。こんなの貰えるんだ。」

 驚いた。千奈の話しか聞けていないから、ただの手紙の束だと思っていた。

「ええ。篠澤さんが訪問したクラスの生徒さんが皆さんで作っていただいたそうですよ。」

「うん。とってもうれしい、な。持って帰って読もうと思う。」

 なんとなく、一人の空間で読みたかった。プロデューサーの前でさえ、なんとなく避けたかった。

 それはなんでだろう。初めての経験だからだろうか。

「わかりました。篠澤さん宛のお手紙ですし、お持ち帰りいただいて大丈夫です。」

「ありがとう。大切にする。」

 感謝の気持ちを伝えてから、ふと気になった。

「ところで、プロデューサーは手紙の中身、読んだの?」

その言葉にそっぽを向いたのは、見なかったことにした。

* * *

学生寮に帰り、荷物を片付ける。

 今日のレッスンで汗だくになった身体を洗い流すため、すぐさまシャワーを浴びた。

 少しだけ自慢に思っている長い髪を洗うのは、かなりの体力が必要だ。浴室に置いた椅子に座り、丁寧に丁寧にシャンプーをつけていく。時間が掛かりすぎて体調を崩してしまったら元も子もないと、大学に通っていたくらいの頃から濡れても大丈夫な服を着て、最初に入っていた。

 シャンプーを洗い流した後は、リンスをしていく。髪のケアが大切なことなのはママからずっと言われていたおかげで、そこについては抜け目ない。とはいえ、初星学園にきてアイドルを目指すようになってからは、普段の生活から慎重さに磨きがかかったような気もする。

 大学の研究室にいたときくらいから、お風呂に入っているときは音楽を流していた。なにか聞きたい音楽があるわけではなく、わたし自身が現時点でどれくらいの時間を入浴に費やしているのかという、客観的な指標が欲しかったことがきっかけだったような気がする。

 ほかの人に比べれば貧相な身体を念入りに手入れして、浴室を出た。ここまではあくまで第一段階で、この先が本番といっても過言じゃない。

リビングに戻り、ベッドに腰掛ける。枕元に放置されたドライヤーを手に取り、深呼吸してから髪を乾かし始めた。

 これが本当に面倒だ。長く伸ばしておくと、毎日毎日たくさんの時間を浪費することになる。何度か切ってしまおうかと考えたこともあったけれど、なんだかんだもったいなくて踏み切ることができていない。

 前にプロデューサーへ相談を持ち掛けたこともある。そのときには、「篠澤さんの自由だけれど、私は篠澤さんの髪は奇麗で好きですよ。」なんて返されてしまって、何も言えなくなってしまった。いつかはイメチェンの一環で切ってみたい気持ちはいまだ消えていないが、今はまだその時じゃないなと思っている。

 右手にドライヤーを持ち、利き手側で櫛を使う。ドライヤーをずっと持っていると疲れてしまうから、休憩しながら。そのせいで一時間くらい髪を乾かしていることも普通にある。半分くらいは自然乾燥かもしれないが、いまさらそんなの気にしたりはしない。

 でも、本当の本当に面倒になった日には、プロデューサーを呼んで代行してもらおうと考えたことくらいはもちろんある。

 そんなことを言った暁には、数回しかまだ見たことがない『嫌だとは言えない。でも普通にどうしてどこまでしなきゃいけないんだ』表情を拝むことができる気がする。ああ、でも。もう今はただただ喜んでやってくれそうかもしれない。

 いつものように疲労でぐったりしていたわたしだったけれど、今日は髪を早く乾かすことができたと思う。時間を計っていたことなんてないから比較なんてできやしない。でも、体感は少し違う感じがした。

 帰宅してからこなさなければならないことを全て片付けて、ようやく待ちに待った時間を迎えることができる。初めてのことに対するワクワク感というのはやはり飽きることがない。

 カバンの中に大切に入れた冊子(たしか、レターブックって呼んだと思う)を取り出して、表紙を眺める。

 鮮やかな青緑色は、わたしのイメージカラーだ。プロでゆーさーと一緒に決めてから、とても気に入っている。明るく澄んだ海のような色で、見ていると気分が落ち着く。

 表紙には白い文字で「篠澤広さん ありがとうございました‼」と書かれ、その左側に結ばれた同色のリボンと相まって、綺麗だ。

 手紙をもらったことなんて、いつぶりだろうか。

 大学の研究室に在籍していた時は、電子メールがほとんどだった。閲覧したかどうかの記録も残るし、なにより紛失する可能性が限りなく低いからと、重宝していた。

 それよりも前になると、小学生のころになってしまう。パパやママに宛てて手紙を書いて渡す。そんな授業だった気がする。

 今にして思えば、手紙を書くこともなければ、ましてや貰うなんて状況はないと言えるだろう。インターネットが発展したことで、わざわざ時間が掛かる手段に頼る必要がなくなったからか。

 大事に大事に、ページをめくる。一文字も見逃さないように、目を走らせていく。

『夢について考える機会がもらえました。

『デビューしてからファンだったので、会えてうれしかったです‼』

『広ちゃんに毎日元気をもらっています。これからも頑張ってください!』

自分の言葉で思いを伝えようと頑張った跡が見える。

『広ちゃん、とってもかわいかったです‼ どうしたら広ちゃんみたいに可愛くなれるのかを知ってみたいなって思いました‼』

『私には夢がありませんでした。なんとなく、その場その場の空気に流されて生きていくんだと思っていました。でも、篠澤さんのお話を聞いて、自分自身の将来について考えてみてもいいかなと思えました。』

嬉しい。とっても嬉しい。

わたしの言葉はちゃんと届いていた。わたしの心の底から出てきたあの話は、ちゃんとあの子たちに届いていた。

『篠澤広さん

  交流会に来ていただき、ありがとうございました。

  篠澤さんの【夢】についてのお話、とても興味深かったです。という

のも、今回交流していただいた学年の生徒は、このあとの学習で進路について考える予定なのです。

しかし、我々教員と生徒では年齢が離れているために、生徒たちに本当の意味で寄り添うことができません。

ですが、篠澤さんは生徒たちと同じ目線に立つことができます。それは、ただ単に年齢が近いからだけではないと、私は思っています。

これからもアイドル活動、頑張ってください。

応援しています。』

 最後のページには、学年主任と名乗った先生からの言葉。そして、わたしを中心にみんなで撮った写真が添えられていた。

* * *

「おはようございます、篠澤さん。」

 いつものように、彼女が来る少し前から事務所代わりの教室で、パソコンに向き合っていた。

「うん。おはよう、プロデューサー。」

 彼女は長机の向かい側に置かれたパイプ椅子に座り、カバンから本を取り出した。

「今日は一体、何を読んでいるのですか?」

「『猫の手借りても回らない』って本。図書館で借りてきた。」

「今度は動物系ですか。そこに出てくる猫、可愛いですよね。

 彼女は本から少し顔を上げた。

「プロデューサー、この本のことも知ってたんだ、ね。わたしたち、やっぱり息ぴったり。」

「だから、違いますって。」

 反射的に否定してしまったが、本当は彼女が図書館でその本を借りているのを目撃していた。つまり、偶然ではなく必然であったということになる。

「と、言いたいところですが、私も思っていたところですよ。私たちは息ぴったりの【アイドル】と【プロデューサー】だって。」

 彼女が先に仕掛けてきたのだ。私に責任はない。

彼女は呆気にとられて「……プロデューサーが、わるい。」なんて。

太陽のように美しい笑顔を、私に向けてくれた。

〈終幕〉

私の人生は、いったい何の意味があるのだろう。

誰かの役に立つことも、誰かの迷惑になることもなく、何事もなく生きて死ぬ。ヒーローみたいに生きることができる人なんてほんの一握り、スポットライトの下で輝く舞台は狭いのだ。全員が全員、最後の最後まで立ち続けることもできないし、生き残ることが非常に難しいのも理解している。

 しかし、だからといって諦めるなんてことはできない。舞台からはるか遠く離れた場所で、何も成果を遺すことなく、無難に生きて死んでいく。それこそ、そんなつまらなく面白みのない人生に、何の意味が、何の価値があるのだろう。

 それでも私は、みつけることができなかった。この人生に価値を見出すことも、誰かの役に立つことも、未来を思い描くことができなかった。

 けれど、私の人生は大きく変わった。貴女と出会えたことが、私の人生の大きな転機になった。

 私はただ、貴女と人生を共に歩んでみたい。それだけが今の私の望みであり、残りの長い時を生きる意味にもなっている。

 貴女に伝えたい。

 貴女に出会わせてくれてありがとう。

 貴女がそばにいてくれるだけで、私の人生は明るい光に照らされた。

 何度空が暗くなろうと、輝き続ける貴女の光が、優しく手を差しのべてくれるたから。私はまだここに居続けている。

 私は、この命の輝き尽きるまで、貴女の隣に立っていたい。